馳走とは、陸珍海美の食膳にあるを賞するのみの語にあらず。
消化し難き物は軟熟にし、軟熟にし得ざる物は、
繊維を横断細載しあるも馳走なり。
遠来の珍味、不時の佳肴あるも馳走なり。
冷熱の候に応じて、調味に濃淡の別あるも馳走なり。
麁菜(そさい=粗菜)といえども、塩梅(あんばい)好く調味しあれば馳走なり。
吾人が空腹なる時、人、之を察して、一塊の屯食(とんじき≒握り飯)を
調して与えらるるも馳走なり。
渇する時、一啜の苦茶を恵せらるるも馳走なり。
時と場合によりて、不味の麁菜に不熟の麦飯を饗せらるるも馳走なり。
一個の果物、一杯の麦酒といえども、恵与せらるる其の場合によりて、
渾(すべ)て是れ馳走ならざるはなし。
抑(よく)是の馳走の字義たるや、人、我が意中を推測して、
満足を与へんが為めに、其の場合に応じて、心を馳走し、飲食物を恵与せらる、
其の心ばせを感じ、且(か)つ賞し、且つ謝する語にして、
什器、衣服等を贈与せられたるには、此の語を用ゐず。
世に是の字義を誤解して、主人が客を饗する食物を購(あがな)ふ為に、
自ら走り廻る其の身労を謝して、馳走といふなりといふも、
中流以上の主人が、自ら買物に走り廻ることは、有べくもあらず、
実に笑ふべきの至りならずや。
茲(ここ)に此の語義を解するは、聊(いささ)か他事に渉(わた)るに似たれども、
邦俗食物を謝するの常語なるを以て、巻尾に記述したる所以(ゆえん)なり。
生間正起著「日本家事調理法」(六合館 明治37年)巻末より引用。
原文は旧字体、句点改行なし。
またまた長い引用ですみません。
宮本武蔵が料理本を書いたらこんなだろうかと・・(笑)
「家事調理」といっても、これは家庭向きのレシピ本ではなく、
プロの料理人の心得、というような内容で、
調理をする際の服装、動作、衛生管理などの注意から始まり、
さまざまな道具や食材の知識と扱い方が、こと細かに書かれています。
調理する人はしゃべっても笑ってもいけない、とか、
「如何なる場合といえども慎んで軽躁乱雑の行動あるべからず」
とか、すごく厳しい。
著者の名に「家元」とついているので、何だろうかと調べたら、
この人は、京都の宮家に仕えた料理人で、
「生間流式法秘書」という著書もある家元なのでした。
式法というのは、「式包丁」 →こちら(動画)
(これは宮中儀式というか、一種のパフォーマンスで、
食べるもんではないそうですが)
時代は変わり、いまや中流以上だろうと以下だろうと、
主人みずから買物になんて普通のことになりましたし、
「意中を推測して満足を与えんがため」に走り回るんなら、
それも有りかと。
えーと、なんでこういう本が出てきたかといいますと、
最初は「葛粉の作り方」を調べていたのでした。
(お隣の雑木を切ったとこに、年代物の葛の根が大量にあるので、
掘ったら天然葛粉が採れるんじゃないかって、クロさんが!)
で、近代デジタルライブラリーに「日本山林副産物製造編」(明治19年)
という面白い本があったので、葛粉のついでに、松の皮の食べ方とか、
線香の作り方とか、あっちこっち見てしまい・・
あれ? でも、そこからどうして生間流に飛んだんだっけ?
調べものをするのに、まず現代じゃなく「近代」に行くという
変な癖がついてしまった閑猫は、今年も寄り道三昧。
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先日、メールに寝言書いてあやうく送信するとこだったです。
あぶないあぶない。