お父さんは浅草生まれの浅草育ちでしたが、小学5年の時に
おじいちゃんと
おばあちゃんの故郷に一家揃って疎開してきたのでした。
東京下町の食堂屋の生活から、急に東北の片田舎にやって来たのです。
どんな気持ちだったのでしょう?
生活は180度変わってしまったけれど、空襲に怯えずに済む暮らしに安堵していたのかもしれません。
とはいうものの、田舎へ越してからは、朝暗いうちに起きて、おじいちゃんと一緒に草刈の朝仕事の後、学校へ行く日々でした。当時の子供たちは家業の手伝いをすることは当たり前でしたが、この話をよく語って聞かせてくれたことからして、やはり辛かったのでしょう。
はっきりした性格のヨシヒサ伯父さんが、おばあちゃんとの折り合いが悪く、東京へ戻ってしまったため、後を継ぎ、親の面倒を看ることになったのも、仕方のないことと受け止めていたようです。
小さな田畑を耕す農業だけでは、食べて行くのがやっとで、現金収入がなかったため、お父さんは若いうちから、出稼ぎに出ていたのでした。
秋の稲刈りが終わると、関東や東海地方の工事現場へと出かけ、春の田起しの前に帰ってきたようです。お父さんは発破の資格を持っていたので、トンネル工事に従事することが多く、昭和30年代後半に東海道新幹線工事に携わっていたことをつい数年前に知りました。
ところが、チエちゃんはお父さんがいつ出稼ぎに出かけ、いつ帰ってきたのかその記憶がありません。
たかひろ君に至っては、春先に帰ってきたお父さんを見て、「どっかのおんつぁん(おじさん)が来た!」と怯えたという話が残っています。
それだけ、父親というのは、影の薄い存在なのでしょうか。
ただ、お正月休みに一時帰省した時には、必ず、トランプゲームやかるたとり、双六を一緒に遊んでくれたことを覚えているチエちゃんです。
チエちゃんとたかひろ君の誕生日は松の内の同じ日です。
珍しい偶然ですが、これはある意味必然とも言えるのかもしれません。
チエちゃんの誕生日の十月十日を遡れば、それは、お父さんが帰ってくる春。
その春を一番心待ちにしていたのはお母さんであったことでしょう。