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「白い牛のバラッド」(2020年 イラン・フランス映画)

2022年03月16日 | 映画の感想・批評
 ミナはテヘランの牛乳工場に勤めながら、聴覚障害の娘ビタと二人で暮らしていた。ミナの夫は1年前に殺人罪で死刑になっていたが、ある日、裁判所から真犯人が見つかったと告げられる。泣き崩れるミナ。裁判所は賠償金を払うことを約束するが、謝罪には応じようとはしない。死刑判決を下した判事との面会を求めても、まったく取り合ってもらえなかった。失意のミナに亡夫の父と弟はビタの親権と賠償金を渡すように迫って来る。そんな折、窮迫したミナの前に夫の旧友と称するレザが現れた・・・
 冤罪を扱った映画だが、いわゆる冤罪ミステリーでない。無実を証明するために家族や弁護士が奔走するという類のサスペンスではなく、裁判所が自らの過ちを認めたところから物語は始まる。問題となるのは裁判所の職員が言った「判事が全員有罪と判断したのは神の意思」という考え方である。イスラム法のあるイランならではの解釈と言えばいいのだろうか。ミナが裁判所にいくら謝罪を求めても応じないのは、根底にこのような宗教的解釈があるからと思われる。
 作品の冒頭で引用されているコーランの<雌牛の章>の一節は、雌牛を生贄(神への供物)として神に差し出すように求めたモーゼの言葉を意味しているらしい。劇中に登場する「白い牛」は、本当の犯人の身代わりとして死刑に処せられた無実の人間=ミナの夫のメタファーであると考えられる。我々の常識では生贄の習慣は残酷で不合理なものに思えるが、本来は厳粛な宗教行為であり、裁判所は(宗教的には)間違ったことをしていない。それでも自らの判断ミスを神の論理で正当化することが認められるはずはなく、責任回避にのみ汲々となる司法の体質をこの映画は強く批判している。
 司法制度への不信感とイスラム社会での女性の生きづらさを描いた前半に対して、後半では愛と憎しみの葛藤が主要なテーマになっていく。女性差別が残る社会で、住居と仕事を失い、追い詰められていくミナとビタ。閉塞的な状況を変えたのはレザであった。レザは夫から借りた金を返すと言ってミナに大金を渡し、未亡人ゆえにアパートが借りられないミナに自分の家を提供する。理不尽な義父が起こした訴訟にも対応してくれ、ビタからも慕われ、ミナは徐々にレザに心を開いていく。薬物の過剰摂取で息子が急死し、失意のどん底に突き落とされた時には、ミナが必死でレザを支えた。やがて二人の間に愛が芽生えるが、一本の電話でミナは苛酷な現実を知ることになる。レザは夫に死刑宣告を下した判事だったのだ。
 正面から固定カメラで撮影し、シンメトリーな構図を多用している。過剰な演出を避け、抑制を効かし、全体的にシンプルな表現方法が用いられている。省略があり、説明的ではなく、寓意的な表現が多いのも特徴だ。検閲が厳しいためかラブシーンや性の直接的な描写はなく、口紅を引くシーンに見られるように象徴的な表現が多い。ミナがレザの正体を知るシーンでは、溝口健二の「雨月物語」を思わせるような左右のパンニングで、ミナを襲った衝撃を表現している。
 夫や恋人を死に至らしめた男を愛してしまうという恋愛劇は、エルンスト・ルビッチの「私の殺した男」(32)や成瀬巳喜男の「乱れ雲」(67)に見られる。どちらの作品でも愛憎の入り混じった感情を主人公は処理しきれずに苦しむが、本作のミナは上記2作よりも更に深く愛情にのめり込んでしまったように見える。 
 ラストでミナは毒入りミルクをレザに飲ませるのだが、ミルクを飲んだレザが苦しんで倒れるシーンを、現実と見るか、ミナの想像と見るか、解釈は観客に委ねられている。もし毒殺したとするなら、献身的にレザを支えたミナの心は何だったか。絶望したレザを必死で救おうとしたミナの姿は、愛情が後戻りのできないほど深くなったことを意味しているように思う。絶望している人間を殺すとは考えにくいし、ましてレザは自分が絶望から救おうとした人間だ。
 レザは過ちを謝罪していないという見方もあるが、ミナが受け入れるかどうかは別として、心の中では深く詫びているように思う。レザは過失でミナの夫を死に至らしめたのであって、殺意があったわけではない。息子の死という<制裁>も受けている。もしレザを殺せば今度はミナが死刑に処せられることになり、娘を育てる者はいなくなるだろう。第一、殺人の後にあんな平静にバスを待っていられるわけがない。毒殺は現実的ではない。想像の中で復讐を果たしたミナは、何も告げずに、ビタと共に姿を消したと解したい。(KOICHI)

原題:Ballad of a White Cow
監督:マリヤム・モガッダム ベタシュ・サナイハ 
脚本:マリヤム・モガッダム ベタシュ・サナイハ 
撮影:アミン・ジャファリ
出演:マリヤム・モガッダム 
アリレザ・サニファル プーリア・ラヒミサム


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