今日は、語学がらみの、私の大昔の思い出話にお付き合いくださいね
海外に行くと、たくさんの気づきや、想定外のびっくりなど、様々なことがあるものです。今、私は66歳。初めての外国は、高校1年生の夏、家族とアメリカのアラスカ州をキャンピングカーで旅をした1週間でした じつは、そのアラスカの自然に魅せられた父は、翌年の夏にもアラスカ行きを計画。1年目に果たせなかったデナリ国立公園(当時は、マウントマッキンレー国立公園と呼ばれていました)に行きました。
1970年代、「初めての海外旅行はハワイ」というのが一般的だった中で、アラスカ、というのは、かなりレアなケースでした 写真好きだった父は、一眼レフカメラも8mmカメラ(当時はまだ、ビデオ撮影用の機器はなく、動画は8mmカメラでした)も持参するため、たくさんのフィルムを買いに行きつけの写真屋さんに行ったところ、「えっ、どこに行くって?アラスカ、アラスカ?それってどこや、北極か?ペンギンとか白熊とか見たいんか
」と言われたものです。
初年度のアラスカは、まさに珍道中でした。両親共に英語は話せませんし、私も高校1年生です。州都であるアンカレッジで借りたキャンピングカーを運転した父。初めて給油のためにガソリンスタンドに行くと… 通じません
まず、ハイオクガソリン「high octane 」が通じない。次に満タンという意味での「full」の発音にも苦戦。「F」と「L」ですからねえ
まあ、山ほどの「気づきとびっくり」に恵まれ、はっはっは。旅行そのものはすこぶる楽しいものでしたが、同時に、身に沁みて「英語を話す必要性」を痛感。帰国後、すぐに父の命令で、私は「英会話スクール」に通うことになりました。
私は大阪の、一応女子大まである一貫校に通っており、すでに他大学の受験はしないことに決めていたので、英会話学習は大学受験勉強と同じ重さを感じながら、まさに「寝る間を惜しんで」猛勉強、猛練習 3年半かけてそのスクールの全課程を修了しました(とは言え、現在の私の英語力はすっかりお粗末になり、海外旅行で困らない程度、というものになり果ててしまっています
)。そして、その英会話学校は後々、私が大学卒業後、就職をするところとなります。
25歳で結婚するまで、父の仕事に同行したり、短期留学をしたり(大学時代、アメリカへの大学への留学を熱望しましたが、暴君の父に拒絶され、断念)、大手の旅行社で添乗員兼おねえさん役で海外で開催されるサマーキャンプ等に同行したり、英語を使いながら若さを謳歌しました
それほど英語を話すことには不自由しなくなった当時の私は、「英語という言語はオールマイティーだ」という思いがありました。
結婚後は、夫のインドネシア駐在以外、旅行で海外に行くということはなくなりましたが、夫の仕事がら、妻として、海外からのお客様を妻として一緒にアテンドする機会は多く、英語はいつも私の側にありました。
そして、すっかり子ども達も成長し、独立して以降、私が50代に入り… またあらためて海外に目が向き始めました。もともと、異文化に興味津々の私です 世界遺産や、世界の街歩きの番組、たーくさんのYouTubeにアップされている動画を見るにつけ、「ああ、ここにも行ってみたい!」「きゃー、これ、見てみたい!」とワクワクが止まりません
それでもね、どうしても食指の動かない国がある… それは、フランス
小学校4年生に観た映画(題名も忘れてしまっているのですが)で、モンサンミッシェルを見て以降、ずっと「いつかはここに行ってみたい」と強く強く思っているにも関わらず、どうしても行けない… なぜかって?
またまた古い思い出話に戻ります。それは、今から44年も前、1978年の春の出来事です。
スイス旅行に関して書いた前々回のブログの中で、私は「20歳のお祝いということで、その前の年、19歳の夏、テキサス州で開催された国際ユースキャンプで知り合ったヨーロッパ出身の仲良しのお友達のお家を巡る旅をしました」と書きましたね。
その時、私はスイスのIsabelleが住むSionという町に入る前、フランスの友人を訪ねました。
Patrickは、パリから遠く離れたオーベルニュ地方の小さな小さな町「Ambert アンベール」というところに住んでいました。そう言えば、オーベルニュ地方は天然水で有名な地方です。2020年まで日本でも長年販売されていた「Volvic ヴォルヴィック」は、この地方の代表的なミネラルウォーターですよ
友人の住むアンベールの町は山間のとても小さな町でね。鉄道は通っていなくて、オーベルニュ地方の中心地「Vichy ヴィッシー」という町まで、超ローカルな電車に2時間ほど揺られていくところ。ヴィッシーからも約50キロ。峠越えをする車で1時間ほどの町でした。
当時は、当然のことながら、とんでもないアナログの時代でした。
約1ケ月間の、ほとんど電車移動での必需品であり、移動の糧だったのは「トーマスクックの時刻表」と「ユーレールパス」という切符でした。
みなさんは「時刻表」なんてご存知ないかも。時刻表は日本でもありましたよ。携帯することが多いので、軽量には出来ているけれど、とても分厚い本でね 「すべての駅の電車の発着時刻と、注意書き」が記載されているのです。その「ヨーロッパ版」が、トーマスクックの時刻表でした。
当時は、私が住んでいた大阪では手に入らず、日本で扱っていたのは新宿の紀伊国屋書店本店、1店舗だけでした。オレンジ色の表紙のトーマスクックの時刻表。
追加で敢えて書きますが、当然、当時はメールもLINEもない つまり、インターネットのない時代です。私が「〇〇さん、あなたのところに行きますよ。最寄りの駅に着く日と時刻は…」と知らせる方法は「Air mail」郵便です
ヨーロッパの場合は、その手紙が先方に到着するまで約1週間かかりました
私がそのお祝い旅行で訪れたのはベルギー、デンマーク、オランダ、フランス、スイス、オーストリアの6か国。各国に住む友人達には、訪問することの可否を確認した上で、ヨーロッパの鉄道地図と、そのトーマスクックの時刻表を使って調べ(乗換案内もNAVITIMEもありません、笑)、「私は〇日の〇時〇分に〇〇駅に着きますよ」と知らせていた、という訳です。びっくりですよね、ほんと。
ところが、私は、フランスの計画中、とてつもなく大きなミスを犯していたことに気づいていませんでした
私は「その日」の朝早くにアムステルダムを出発 国際列車に乗ってパリに到着。パリには複数の駅があり、私は到着した駅とは違う駅に移動しなければなりませんでした。タクシー乗り場からタクシーに乗り、運転手さんには、メモを見せながら「Gare de Lyon, S'il vous plaît !」そのくらいは言えました。通じて、一安心
そして、ヴィシーに向かうべく、決めていた急行電車に乗ろうと、時刻表に記載されたホームまで行くと…その電車がありません。「えっ?このリヨン駅、始発駅だよね。な、な、なんで電車がホームに停まってないの」
私は大きなスーツケースをゴロゴロ引っ張りながら歩き、駅員さんらしき人を見つけては英語で話しかけました。「Excuse me!」ところが、私がそんなふうに話しかけた駅員さん全員が「Non!Non!」と手を顔の前に出して拒絶。
やっと、広い駅舎のオフィスのようなところを探し当て、時刻表を見せながら話しかけても、「Je ne parle pas anglais!私は英語が話せない」「Je ne sais pas!わからない」と、ニコリともしない表情で、フランス語が戻ってくるだけ。
パリは首都でしょう?たくさんの外国からの観光客だって来てるでしょう?そんな人達、みんなフランス語を話してる訳じゃないよね?なんで?ねえ、なんで
私の頭の中では、グルグルと怒り?悲しみ?が巡り、ひと言では表せない、何とも言えない思いが溢れ、わああああああああ!と叫びたいような思いでした… ああ、フランス人は本当に英語を話さない人達なんだ…
英語で質問する私を拒む人達の様子は、その人が英語が話せるのか話せないのか?ではなく、フランス語を話さない私を拒絶しているとしか思えない空気。確かに、そういう拒絶の空気が存在していたのでした
困り果てた私は、本当に泣けてきてしまい…腰が抜けたようにベンチに座り、時刻表のそのページを広げて、呆然としていました。
そこに座っていたのは、今の66歳の東洋人のオバサンではあいませんからね。自分で言うのも何ですが、決してみっともない格好をしていたわけではないのですよ。それなりの装いをした、20歳の女の子だったのですが・・・
そんな様子で、どのくらいの時間が経過していたのでしょうねえ。その私に「Something wrong?」と声をかけてくれた人がいました イギリスから来た旅行者だという黒人でした(もちろん、イギリスから来た、というのは後でわかったことですが)。
私が英語で事情を説明すると、「Oh,very sorry・・・」と言い、私の膝から時刻表を取り上げて、熱心にチェック。そして、ちょっと困ったような笑顔で、ページの一番下に書かれた*印の部分を指差してくれました。
小さな小さな字で、でも確かに書かれてありました。「〇月〇日は運休」と。まさに、不運なことに「その日」がドンピシャリ、その運休の日だったのです
その次の列車は、3時間後、でした。「あまり時間的余裕がないので、行くね!時間があれば、悲しんでいる東洋人にコーヒーでもご馳走したいんだけど」私は、何度も何度もお礼を言い、見送りました。去っていくそのイギリス人の後ろ姿に、思わず手を合わせた時の思いを、今でもよく覚えています。
公衆電話を探し、友人のPatrick宅に電話 携帯電話も、スマホもありませんからね。お母さんと思しき人が電話に出てくれて「Patrick, Japanese friend, car, Vichy, station」とゆっくりと繰り返してくれました。
パトリックはすでに、私を迎えるために、車でヴィシーに向かった、ということなのだろうな、と思いました。「Merci,merci beaucoup!」と何度も言い、電話を切りました。
もう、パトリックに私が3時間遅れる、と伝える術はありません…
仕方なく、私はパリのリヨン駅での3時間、後学のために駅構内のカフェにでも入ってみようと思いました。が…駅のカフェはどこもごった返し、私の大きなスーツケースは邪魔で、どこかに預けなければカフェには入れません。
やっとの思いでコインロッカーを見つけはしたものの、空いているのは上の方だけで、私の大きくて重いスーツケースはそこまで持ち上げられない… 私はカフェを諦めました。
私は、またまた空いているベンチをフラフラと探し、やっとのことで見つけた席に座り、本を読もうとバッグから出して広げましたが、ほとんど内容は頭に入って来ません。ずっと聞こえてくるフランス語、フランス語、フランス語…
少し出発の遅れた電車が、目的地のVichy駅に到着。すでに夜9時近くになっていました。
ホームに降り立った私に数人の若者達が駆け寄りました。「Madoka~ Welcome
Welcome
」とPatrickと一緒に迎えに来てくれた彼の友人達。私は一気に緊張が解けて、大号泣
彼らはVichy駅に着いてから、私が知らせていた電車が運休であることを知り、大いに心配して待ってくれていたのだそうです。
喉カラカラの私を潤してくれたのは、彼らが手渡してくれたオーベルニュの微炭酸の天然水。あの時のお水のおいしかったこと…
それからの3日間、小さな町、Ambertでは確かにフランス語に囲まれた生活でしたが、教会の神父さんも、Patrickの学校の先生達も、もちろんPatrickのご両親、お友達も、みんなみんなとの時間は、心の通じる温かい時間 別れる時は、またまた涙、涙、でした
じつは、その後、パリに戻る電車の中でも、到着したパリのリヨン駅でも、言葉に関するひと悶着は諸々あったのですが、もう十分なので、書きません。
とにかく、1978年の春に経験した、あまりに辛い時間、空気がトラウマとなり、「フランスの人達は英語を話さない。英語を話したがらない。フランスは、英語の通じない国、だから、フランス語が話せない私は、フランスには行かない」という思いだけが残りました。
もちろん、その経験は「英語だけでは十分に外国の人達とはコンタクトは出来ない」という良い教訓も残し、語学の学習が好きにはなったのですが…
この夏のスイス旅行は「山めぐり」が目的のツアーだったので、旅程の中に「シャモニーからロープ―ウェイに乗り、エギーユ・デュ・ミディ展望台からモンブランを見る」が入っていました。図らずも、シャモニー、つまり「フランス」です
まあ、今回はツアーですからね。個人で交渉する必要はないので安心ですし、ランチをして、展望台に登る、だけですから、フランス国での滞在は5時間程度。それでも、私はスイスから車で国境を越え、フランスに入った時点から緊張というのでしょうか…
ランチをしたレストラン 最初こそ「Bonjour!Bienvenue!」でしたが、その後は「What would youlike to drink?」「Is everything OK?」え、え、えいごです
名札を見ると「Irène」さん。列記としたフランス語の名前です。まあでも、観光客の多いシャモニーのレストランですし、中の広さから鑑みると、海外からのグループツアーを受け入れることも多いだろうから、決まり文句くらいの必要な英語は話せるのだろう…
ところが、です
展望台行きのロープ―ウェイの係員のおにいさんも、一緒に列に並んだ「パリから」と「ニースから」というフランス人の観光客も、多くの人が英語で話しかけてくれました。それも笑顔で
あの時、木で鼻を括ったように「Je ne parle pas anglais!私は英語が話せない」「Je ne sais pas!わからない」と言っていたフランス人はどこに消えたのか?あれはもう、私の「記憶の中」にしかいないのか?
50年間の私の中の「辛いフランス」は、3842mの展望台で、モンブランやグランドジョラスなど、雪をいただいた山々の絶景の中に消えました
時代は20世紀から21世紀へ。世の中は大きく変わりました。世界も狭くなっています。ヨーロッパの絶景だって、20時間近く飛行機の中で座らなくても、スマホで、パソコンで、テレビの画面で、インターネットを使えばライブ映像だって見られますし、話す場合だって有線の電話の必要もなく、すぐに外国と繋がり、簡単に話せます。
そんな時代になっているからこそ「コミュニケーションのツールとしての言葉」を必要とし、やはりその時の共通語として、人々は「英語」を選んだようです
果たして、この50年間で、どれだけ日本人が「英語を話せる国民になったか?」はかなり疑問ではありますが、どんな事柄であっても「道具、ツールは、使いこなせるほうが良い、便利」ですよね
最近、YouTubeでよくモンサンミッシェルの映像を見るようになりました。本当は、とっても遠いところだけれど… 私の中では、ググっと近くなったように感じています、そこはフランスだけれど
「秋の保税展 2024」
10月18日(金)、19日(土)、20日(日)
10月24日(木)、25日(金)、26日(土)、27日(日)
11月1日(金)、2日(土)、3日(日・祝)、4日(月・休)
* いずれの日も、午前10時30分 ~ 午後6時
* 会場:内原東京保税蔵置場(ガレリア UCHIHARA B2ホール)東京都港区六本木7-2-7
保税展は一般公開されない催しで、保税展の性質上、東京税関の管理下におかれています。来場には、事前登録が必要です。ご来場日時が決まりましたら、必ず事前に私にメールで来場者のお名前をお知らせくださいね