今日、2回目の投稿は誕生日のこと。
いえ、私の誕生日は12月ですが、
私には、もう一つの誕生日があります。
(というか、もう2つあります。)
ここから長くなります。
興味の無い方、スルーしてください。
***
今日は、私が、イエス様を心の中に
受け入れた日なのです。
(洗礼を受けた日ではなく。)
つまり、それまでの歩みから、
すべてのことをイエス様に明け渡し、
主に従って歩みます、と告白できた日。
霊的な誕生日です
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早いもので、「33歳」になりました。
(成長具合は横に置いておきます。笑)
当時、私は大学生。
それまで割と順調な人生でしたが、
大学受験失敗と共に、
下り坂を下るがごとくに思えました。
そんな中、友人との間にトラブルが生じ、
私は、そのグループを抜けてしまい、
しばらく単独で行動していました。
幸い、そんな私を見ていて、
声をかけてくれた方々がいて、
その輪の中で過ごす事になりました。
しかし、やはり以前の友人との事は、
心のどこかに傷として残り、
それを否定する事はできませんでした。
同時に、自分を正当化したい、
自分は正しいと思う気持ちが勝つと、
相手に対して怒りの気持ちが湧いて
どうしようもありませんでした。
相手を赦したい気持ちと、
怒りの気持ちを持ち、矛盾していると知りながらも、
しばらく悶々とした日々を送っていました。
そして、自分とは何者なのか、
自分はどこから来て、どこへ行くのか。
自分は亡くなったらどこへ行くのか、
自分の魂は、消滅してしまうのか。
こんな事を考えていた頃、
その新しい友人の一人から、
映画の誘いを受けました。
「塩狩峠」という映画でした。
三浦綾子さんの実話小説です。
ある教会が主催していました。
友人は、クリスチャンではありませんでしたが、
その友人の友人がクリスチャンだったようです。
私は、この映画は初めてでしたし、
教会主催の映画会というのも初めてでした。
見終わって、いくつかの事が心に残りました。
映画の中の伝道師の男性が語る言葉でした。
「愛とは、大切なものを人に与えてしまうこと」
「最も大切なのは命」
「イエス様は、罪ある人間のために
ご自分の命を捧げてしまった」
この3点がずっと心に残りました。
なんて私と違うのだろうか。
私は、自分の利益しか考えていない。
私は、友人の事よりも、自分のことにばかり、
気持ちが向いている。
私には愛のかけらも無い・・・。
ショックを受けつつも、
このような生き方ができたら
どんなに素晴らしいだろうか、と思いました。
この考え方を知るためには、
聖書を読めば良いと思いました。
かつて中学生の時に、無料で配布された
ギデオン協会の小さな薄い聖書を持っていたことを
思いだし、聖書を一人で読むことになりました。
でも、やはり一人ではわからないことばかりです。
かつて私の家に訪問してくれた人がいて、
一緒に聖書を読もうと言ってくれた方がいたことを
思い出しました。
それからまもなく、その人たちが私の家に来て、
私は彼女たちと聖書を学ぶ事になったのです。
私は当時、それが異端の教えとは知りませんでした。
ただありがたくて、感謝だけでした。
ところが、半年以上経った頃から、
その教えに違和感や疲れを覚えるようになりました。
努力して救われるという教義、
輸血や剣道、柔道などの格闘技、誕生日、
クリスマスの否定や禁止など、たくさんの戒律?があり、
教会の教えのイメージとは大きく違うと感じたのです。
意を決して「やめる。」と告げました。
先方から嫌みを一言言われましたが、
すっきりしたのを覚えています。
私は、純粋な聖書の教えを受けたいが、
どこへ行けばいいのかわからない。
私は本当に聖書のことばに
飢え乾いていたと思います。
一人で神様に祈りました。
「もし、本当に神様がいるのなら、
ちゃんとした教会へ導いて下さい。」と。
数ヶ月して、同じ大学のある学生から、
1枚のチラシを受け取りました。
それは、教会の伝道会のチラシでした。
彼女がどうして私にチラシをくれたのか、
わかりませんでしたが、とても感謝に思いました。
神様が私の祈りを聞かれたのだと確信しました。
時間の都合上、私は講義の空き時間である
午前中に、婦人会の集会に出ました。
高齢のおばさんたちの多い集会に、
私一人だけ大学生、肩身が狭く、
居心地の悪さはありましたが、
そんなことよりも、とにかく聖書のことばを
知りたい、イエス様の事を知りたい、信じたい、
そんな一心でした。
伝道会は、ご年配の外国人宣教師でしたが、
長い間日本で宣教していたので、流暢な日本語でした。
宣教師は、イザヤ書から、
イエス様の十字架の意味を詳しく教えてくれました。
私は、スポンジが水を吸うごとくに、
なんの抵抗もなく、子どものように素直に信じ、
受け入れました。
私が罪のある人間で、
主の十字架に拠らない限り、決して救われない。
新しい人生を、イエス様について行こうと決めました。
宣教師の先生に祈っていただいて、
私は本当に安心して大学の講義に戻りました。
来たときは、不安でいっぱいだった道のりが、
帰りは、嬉しくて震えていたんです。
私を以前、映画に誘ってくれた友人が、
私がかなり喜んでいたのを不思議がり、
私に何があったのか聞いたので、
私は、自分に起きた出来事を全部話しました。
友人はぽかんとしていましたが、
私は、本当に喜びにみたされました。
教会から帰る際に、宣教師の先生が私に
「このことは結婚よりも大切な決断ですよ。」と
一言添えて下さいました。
その時は、ただ「そうだな・・・」と思った程度でしたが、
後々、本当に大切な決断をしたのだとわかってきます。
そうして33年。
決して順風満帆な人生ではありませんでした。
33年の中に、就職難、結婚、出産、神学校入学、
牧会、父との別れ、自分の病気などなど・・・
むしろ困難の方が多かったと思います。
今でも闘っている問題はあります。
けれども、もし神様の愛と救いが無かったら、
私は今、ここにはいなかったと思います。
心配性で、心が狭い自分です。
生きるのが辛くなっていたと思います。
苦難の中でしか知り得ない神様の愛や恵みが
豊かにある事も知らされました。
みことばに生かされ、祈りを通して
主と良い交わりを保ち続けるだけですね。
その中で、主が霊的な養いをして下さる。
記録の意味でも載せました。
読んで下さった方、
ありがとうございました。
m(_ _)m
ここあでした。