Feb.11 2006 さらば夏

2006年02月11日 | 風の旅人日乗
2月11日 土曜日。

いよいよ、ボルボ・オーシャンレース第3レグのスタートが明日に迫った。
次のゴールは、ニュージーランドのウエリントン。ボルボ・オープン70にとっては4、5日で走りきってしまう、スプリント・レースだ。
レース参加艇がブラジルのリオデジャネイロを目指してウエリントンをスタートするのは、1週間後の2月19日。ウエリントンには僅か2日しか滞在しない。

メルボルンのあと、そのままウエリントンに行こうかとも迷った。ついでにオークランドに行って、友達に預けっぱなしにしている車のこととか荷物のことを話す用事もあるし。
しかし、今回はニュージーランドに行くのはやめた。
理由は2つある。

一つは、ウエリントンに飛行機で行くのがどうしても嫌だったこと。

ウエリントンに飛行機で行ったことありますか?
あそこの空港に降りるには、命を3つばかり持って行った方がいいと思います。
ウエリントンは、ニュージーランドの北島の南端にある町で、ニュージーランドの首都だ。

ニュージーランドは北島と南島に別れているが、その間にある海峡がクック海峡。
この海峡の風がすごく強い。
ウエリントン空港はこのクック海峡に面しているのだが、滑走路の南と北に小高い山があって、そのために、ただでさえ強いクック海峡の風が、滑走路上空で収束して、怒涛の強さになる。

着陸態勢に入ってからの飛行機の揺れの恐さと言ったら、ディズニーランドのどんなアトラクションでさえ及ばない恐怖である。その恐怖がウエリントンを訪れるたび、毎回なんである。映画『トップガン』でキリモミ状態になっているトム・クルーズの恐怖をも上回るはずだ。

アルゼンチン大使としてウエリントンに赴任したあるお方が、最初に一度飛行機で到着して以来、一切飛行機に乗らなくなった。ニュージーランドのどこに行くにも車か列車で移動した。そして任期が終わって国に帰るときも、オークランドまで車で行き、オークランド空港から飛行機に乗って帰った、という話は、ウエリントン空港着陸の恐怖を茶化した話としてニュージーランドでは有名であるが、ぼくはその人の気持ちが痛いほど分る。

ニュージーランドの人はウエリントンの恐怖を笑って話すのだが、冗談ではない。本当に恐いよ。

もう一つの理由は、ウエリントンで第4レグのスタートを見てから日本に帰ると、2月20日になる。2月20日の最終便で沖縄に行き、21日から座間味島でサバニ合宿第2弾、というスケジュールがシーカヤッカー内田によって組まれている。
成田空港からそのまま羽田空港に行って、沖縄行きに乗ることは理論的には不可能ではないが、精神的には少し躊躇する。

サバニは、さかのぼっていけば、丸木舟の時代にまで遡ることができる、日本古来の船だ。
その船には、自分の祖先たちのスピリットが内部に入り込んでいるように感じている。
サバニに乗るときには、こちらも精神的に十分な準備をしてから乗らなければ、それらのスピリットが歓迎してくれないように思えてならない。
だから、そのための時間的余裕が欲しかった、というのが、ニュージーランドに行かないと決めた2つめの理由だ。

メルボルン市内では、一昨日からメルボルン・モーターショーが始まった。チケットが手に入れば、今夜行ってみようかなと思っている。
そういえば、3月末にはF1グランプリもメルボルンで開催される。
昨日、メルボルン市内にある、そのサーキットを車で走ってきた。
普段は公園を一周する公道として使われている道で、グランプリの時にはサーキットに改装される。大きな池(湖?)が真ん中にある、とても美しいサーキットだった。観客席を組上げる大工事が始まっていた。

明日は、スタートを見た後、ハーバーにもどったら、すぐにダッシュでメルボルン空港に行ってシドニー行きの飛行機に乗らなければいけないので、第3レグのスタートの様子報告など、次の更新は月曜日に日本に戻ってからになります。
では、あと1日だけ残された夏を楽しむことにします。


Feb.10 2006 禁断のセーリング

2006年02月10日 | 風の旅人日乗
2月10日 金曜日。

今日も楽しかった。

現在ボルボ・オーシャンレースのポイントでダントツのトップを走る『ABN AMRO 1』のセール・テストに乗ってきた。
第3レグのスタートを2日後に控えて、セーリングも真剣モードだ。

メインセールを揚げ、ジブを展開し、走り始める。

速い。

今日のメルボルンは、南西からの15、16ノットのシーブリーズ。

ジェネカーのテストを集中的にすることになっていたので、まずはクローズホールドで沖に向って走り続ける。
その走りの1時間ほど、ずっと舵を持たせてもらった。
沖に出るに従って、波が大きくなる。
その波を力強くバウが切り裂いていく。

船体に加わる波の力。それに対抗して船を前に進めようとするセールからの力。それらがラダーを介して、ステアリングを持つ手に伝わってくる。
楽しかったなあ。
いま思い出しても、うっとりする。

新しいリギンのシェイクダウンも兼ねていたので、あんまり激しくプッシュするなと言われて、レースでのセール選択よりも2段階くらい小さいジブだったけど、クローズ・ホールドのスピードが12.7ノット。アメリカズカップクラスをはるかに凌ぐスピードだ。

なんか、まだ、興奮していて、うまく書けない。
クルーたちからビールに誘われているので、今日はもう、これはここまでにして、そっちに行ってきますね。
ちゃお。

Feb.9 2006 ジェフ・スコットという男

2006年02月09日 | 風の旅人日乗
2月9日 木曜日 メルボルンは嵐です。

今日はちょっと、ゆっくりパソコンの前に座っている時間がない。日記を書く時間もない。どうしよう・・・。

そう言えば昨日、古い友人のジェフ・スコット(写真)に会った。今回の世界一周レースでは、オーストラリアの艇に乗っている。
「俺はもう歳だ」って言っていた。自分ではそう思ってなく、単なる口癖だ。今でも自分がサザンオーシャンのダウンウインドでは最高のヘルムスマン(ドライバー)だと信じて疑ってないはずだ。まわりの人間もそのことをよく知っているし、その技術を認めてもいる。

今日は、そのスコッティーに付いて、前回の世界一周レースのときに書いたエッセイを、日記の代わりに掲載しようと思う。


ボルボセーラーの休日
――〈ニューズコープ〉ワッチリーダー、ジェフ・スコットの場合 ――

海の疲れを海で癒す男

案の定、奴と連絡が取れない。いつものことだと分かっていても腹が立つ。
この日に連絡するとあれだけしつこく確認したのに、ジェフ・スコットの携帯電話が繋がらない。

ニュージーランドに寄航中の、ボルボ・オーシャンレースの参加艇〈ニューズコープ〉に乗っているジェフ・スコットの自宅を訪問しようとしていた。奴はオークランドから約200km南南東の方向にある港町に住んでいる。

その港町に向かって、ぼくはもうオークランドを後にして車を走らせていた。一旦車を路肩に寄せて止め、考えたあげく、ジェフの“現在のところの”ガールフレンドであるナオミに電話をしてみる。ナオミはたくさんの人種が混血した、黒い髪が魅力的な美しい女性だ。

「ジェフはフィッシング・トーナメントに行ったわ。あと2日は海の上だから携帯は繋がらないわね」
フィシング・トーナメント?
2日間海から戻らない? 
ナオミが説明してくれたところによると、自分のボートを出して、何日か海の上に留まり、その間に釣りあげた魚の大きさを賞金付きで競うトーナメントがその町で行なわれているらしい。

1週間に満たない貴重な休日の何日かを費やして、外洋ヨットレースとは競技の形態が異なるとはいえ、24フィートほどの小舟で一人で沖に出て、荒れた海で魚を追いかけているというジェフにあきれ、約束の日に電話が繋がらない怒りを忘れた。

いろいろなボルボ・セーラーにニュージーランドでの休暇をどのように過ごすのか尋ねたが、誰一人として海に出たいなんて答える者はいなかった。
ほとんどが、街に留まって友達と過ごすと答えたり、家族と一緒に静かな海辺か森に行ってのんびりすると答えた。

ボルボ・セーラーたちが一つの寄港地に滞在する期間はフィニッシュからスタートまでのあいだ3週間以上もあるが、新しいセールのテストや、リグや艇の細かな修理などで、どのチームのセーラーも実質1週間程度の休暇しか与えられていない。
しかもオークランドからリオデジャネイロまでの次のレグは3週間以上もかかり、そのうえその時間のほとんどが厳しい南氷洋でのセーリングで、そこで肉体も精神もギリギリまで擦り減らさなければならない。誰もが、そんな世界とできるだけ対極の環境で休暇を過ごそうと考える。
しかしジェフは、彼らとは少し違っているようだった。

漁師になりたい、セーラーも続けたい

奴が海から戻って来るまでのあいだ、ぼくはニュージーランド北島の山を歩いたりして時間をつぶした。またオークランドまで戻るのが面倒だったのだ。
ナオミが言った通り、それから3日後に沖から戻ったジェフが電話をかけてよこした。フィッシングトーナメントの結果は、どうやら冴えないものだったらしい。

その町でジェフの義理の兄弟が経営する造船所でおちあってから、地元のフィッシング・クラブのバーで何杯かビールを飲んだ。この町にも立派なヨット・クラブがあるのに、ジェフはそこのメンバーではなく、すぐ隣のフィッシング・クラブのメンバーだ。

10歳になるザックが、クラブの壁に掛けられている様々なビルフィッシュの模型を一つ一つ指差しながらそれぞれの魚の名前と習性を説明してくれる。
ザックはジェフとジェフの前妻との息子で、今はお母さんと一緒にジェフと同じ町に住んでいる。夏休み期間中ということもあって、ジェフがリオデジャネイロに向けてスタートするまでのあいだ、お母さんから特別の許しをもらって大好きなお父さんと一緒に過ごしている。男の子というのはこんなに自分の親父が好きだったかな、と思うほどジェフにべったりとくっついている。

ザックのお父さんはクラブのメンバーと先日のフィッシングトーナメントの話をしたりしている。会話が聞こえてくるが、メンバーたちはボルボ・オーシャンレースのことは知っていても、ジェフがそのレースにワッチリーダーとして参加していることは知らないようだ。ジェフがそれを隠そうとするかのように話をはぐらかせているからだ。

そのフィッシング・クラブから車で10分ほどのところにジェフの家があった。前庭に釣り用のボートが置かれ、広い裏庭のすぐ前には、長い岬に守られた内海が広がっている。
「俺の隠れ家にようこそ」と、ハードボイルドを気取ってジェフが言うが、まとわりつくザックの頭を優しくなでながらなので、そのセリフは残念ながら、ちょっとキマらない。

ジェフの家のリビングに、それまでジェフが関わったセーリング・プロジェクトの写真や、記念品が飾ってある。470クラス・ワールドで5位を取ったときの写真、ジェフが初めて本格的な外洋レースを経験したウイットブレッド世界一周レース参加艇〈フィッシャー&パイケル〉のハーフモデル、〈ヤマハ〉で世界一周レースに優勝したときの記念品、〈ニューズコープ〉のキャンペーンに加わる前までボートキャプテンをしていたマキシ〈ニコレッティー〉の写真パネル…。

ジェフがセーラーとして初めて給料をもらったのは1989年の〈フィッシャー&パイケル〉にクルーとして乗ったときだ。それ以来、16歳のときからの職業だった電気工をやめて、プロセーラーとして生きていくようになった。
少し雑談していると、雲が切れて太陽が顔を出したのでジェフを庭に引っ張り出し、このページに使うための写真を撮る。撮る方も撮られる方も、お互い慣れないことをしているためかなり照れあう。

なかなか構図が決まらない。ため息をつきながら待っているジェフに、
「こんなところでオマエの写真なんか撮ってないで、俺もセーリングだけで生活したいよ」と言うと、
奴は「俺はフィッシングだけで生活したい!」とまじめな顔で言いやがった。
奴のその言葉で、約束を反故にされて2日も無駄に過ごしたことを思い出し、折角のデイオフにわざわざ何日も塩まみれになるために沖に出た理由を聞いた。

「海が好きなんだ。俺にとって大きな魚を追いかけて海を走ることは、セーリングとは別の方法で海を楽しむことなんだ」。
「海」のことを奴は「Ocean」と言った。大洋である。外洋である。「今度海に連れてってー。私、海が好きなのー!」の海とはちょっと違う。そして奴は「好き」を「like」ではなく、「love」と表現した。

自分のボートに何日間か分の食糧を積み込んで陸が見えなくなるまで沖に行き、シュラフにもぐりこんで仮眠をとったりしながら、魚を追いかける。そのときに自分は最も解放される、とジェフは言った。

プロセーラーとしての仕事からいつ引退するつもり?
「今すぐ!」
その後の生活はどうするわけ?
「フィッシャーマン!」
笑いながら答えたあと、しばらく無言になって、
「でもなー、セーリングも好き(ここでもlove)だからなー、まだやめたくないなー」
矛盾した奴だ。しかしこれがジェフ・スコットというプロセーラーの本音である。

血の記憶

ニュージーランドの先住民族であるマオリは、約1000年前にタヒチを出てニュージーランドを見つけ、そしてそこに住み着いた最初の人類だ。航海の手段はダブルハルのセーリングカヌーだった。今はマオリの人たちも自分たちがセーリングの文化を持っていたことをほとんど忘れかけているが、遠い昔、彼らは優秀な長距離航海者だったのだ。

ジェフは、その優秀な航海民族マオリの血を引いている。
ハワイのレースで一緒に乗ったとき、ヨットクラブのバーでビールを飲みながらジェフがちらっと、俺にはマオリの血が流れている、というようなことを言ったのだが、そのときは「ふーん、そう」という感じで気にも留めなかった。
しかし、ジェフが「オーシャンをラブする」と言ったり、「セーリングをラブする」なんて言うのを聞いているうちに、ふとそのことを思い出してしまった。

ジェフの曾おじいさんは、この町の、ジェフの隠れ家からも見える一つの山を治めていた酋長(Chief)だったのだという。ジェフはそいう家柄のお人だったらしい。
ジェフは自分の血と今の自分の職業との関係を否定したが、世界で一番きつい外洋レースの間の短い休日に、リラックスするために沖に出て行く男を見ていると、どうしてもそれと結び付けたくなってしまう。

血の記憶というものは確かに存在する、と思う。
蛇の目やヌメリとした肌、チロチロと不気味に出し入れされる舌を見ていると、ほとんどの人が背中に何か冷たいものを感じるはずだ。はるか昔、哺乳類が小さなねずみのような形態で誕生して以来、哺乳類に連綿と受け継がれた記憶がその反応を起こさせるのだという。

最初の哺乳類は、爬虫類全盛時代に登場し、新入りの生物として爬虫類の格好の餌だった。爬虫類から襲われたくない哺乳類は、爬虫類が体温が低下して動けなくなる夜間を選んで活動するようになった。
夜間活動するために哺乳類は視覚以外の感覚を研ぎ澄まさざるを得なくなって脳が急速に進化して、今に至っているのだが、爬虫類に襲われるとただ食われるしかなかった原始哺乳類の頃の恐怖が、人間の脳の奥にある脳幹という部分に記憶されていて、その記憶が、我々人類に今もってなんとなく蛇を気味悪く思わせているという、脳の研究書を読んだことがある。

もしそれが正しいとすると、たかだか1000年前の血の記憶が受け継がれていることは不思議でもなんでもないという気もしてくる。ジェフの曾おじいさんは、強い血の持ち主だったんだろう。
小さい頃から海で遊んだ環境とこの血が、チーム内で悶着を起こしやすいが、南氷洋をステアリングさせると世界のトップ5だと言われる、ジェフ・スコットというプロセーラーを生み出したのだろうか。

ジェフは470クラスで世界を目指したものの、同じキウイで同じ世代のデイビット・バーンズやピーター・エバンスに阻まれて果たせず、FDでオリンピックを目指したものの同じく470から転向したマーリー・ジョーンズに阻まれて果たせなかった。

仕方なく新しい世界を求めて飛び込んだ外洋レースの世界だったが、ジェフはそこで自分が世界のトップに君臨できる場所を見つけた。サバイバルに近いコンディションでのヘルムスマンだ。
しかし、その仕事は自分の能力の限界と極限まで引き絞られた集中力を要求される、辛い仕事でもある。そのようなコンディションで艇のコントロールを失って倒れると、ボルボ60クラスといえども30分から1時間は起き上がることができない。全艇が20ノットを越えるスピードで走っているその状況では、ヘルムスマンのたった1回の失敗は20マイルの遅れにもつながるのだ。

チームの勝利のために要求される集中力の連続で、極限まで擦り減ったジェフの神経は、一人で大洋に出て、大型魚を通して海と無心で対峙することでのみ、再び蘇る。仕事とは別の方法で海と向き合うことが、ジェフにとって次のレグへの活力を生む。そういうことのようなのだ。
ジェフを根っからの海洋民として捉えることで、やっとこの男の“休暇”の意味が分かるような気がする。

その日、夕方になるとジェフの隠れ家にガールフレンドのナオミがやってきた。ザックはナオミにかなりなついている。ジェフがちゃんと説明したのだろうが、子供の頃から大人の複雑な男女関係をポジティブに受け入れる訓練ができているようにみえる。
ジェフがボルボ・オーシャンレースで留守にしている間、この家に居候している弟のグレッグも仕事から帰ってきた。

庭にテーブルと椅子を出し、目の前に広がる海を見ながら話しているうちにワインの瓶がどんどん空になっていく。トイレからの帰り、気の置けない3人に囲まれて幸せそうに夕焼けの海を見ているジェフの後姿は、かなりフォトジェニックなものに見えた。カメラを取り出そうかと思ったが、いま自分が実際に見ている光景の温もりを、そのまま写真に写し撮る力は自分にはないと悟ってあきらめた。



ABN AMROの秘密

2006年02月08日 | 風の旅人日乗
ABN AMRO 1のスキッパー、ムースと昼ご飯を食べてきた。
すっごく、面白い話を聞けた。

これから『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン』の重要人物と話をしに行くので、今日は遅くなりそう。
明日、朝早くからABN AMRO 1に乗せてもらってセーリングに出かける。
なので、ちょっとブログの更新が滞るかも知れません。
でも、早めに面白い情報、書きますね。
ではでは。

Feb.8 2006 フィッシュ&チップスな日々

2006年02月08日 | 風の旅人日乗
2月8日 水曜日 まだ、メルボルンです。

滞在しているホテルの近くに川が流れている。メルボルンの市内を貫くYarra川だ。

その川に沿ってメルボルン大学、メルボルン・グラマースクール、市民ジュニア、そして市民シニアの、それぞれのボート・クラブの艇庫とクラブハウスが並び、早朝と夕方、それらのボート・クラブのメンバーが練習している。
老若男女の各チームの、エイトからシングルスカルまで、いろんなボートが川面を走っている。

夕方、仕事の後に、テイクアウトのフィッシュ&チップスを持って川べりの芝生に座り、それをビールで食べながら、それらのボートが川面を行き交う様を見るのを、楽しみにしている。
夏時間なので、9時近くまで明るい。
夕方の柔らかい陽射しの中、ボートを漕いでいる選手たちも、それを川岸から見ている市民たちも、みんな幸せそうだ。

『王女橋』という名の橋を挟んで、その下流までは観光客を乗せたフェリーなどの動力船が走ることができるが、その上流は、ロウイング・ボートだけのサンクチュアリーだ。無神経な動力船の引き波で、練習中に沈(ちん)する心配もない。

今日は、朝5時過ぎに起きて、自分自身のエクササイズを軽くした後、市内のフィットネス・クラブに向った。
ABN AMROチームの、朝のフィットネスを取材するためだ。
雑誌『ターザン』用の取材である。

チーム・カメラマンのジョン・ナッシュとフィットネス・クラブの入り口で待ち合わせだが、遅刻したようで、なかなか来ない。
ちょうど、やってきたクルーのマーク・クリスチャンセンと一緒にクラブの中に入って話をしているうちに、ジョンが息を切らせてやってきた。

ジョンは、昨日の夜寝ている間に何かの虫に刺されたみたいで、身体中虫刺されだらけになっている。「痒くてさあ、たまらん」と言いながら、あちこち掻きまくっている。見ているこっちも痒くなってくる。

それぞれのクルー・メンバーは、それぞれのポジション、それぞれのテーマに合わせたフィットネスをしている。その様子をジョンがいい感じで撮影していく(ワンショット撮り終わるたびにあちこち掻きながら)。

「『ターザン』って、どんな雑誌?」とマークが聞くので、
「フィットネスを一生懸命やっている、贅肉なんか全然ない人たちが読む雑誌で、いま日本で一番売れてる雑誌だよ」と説明すると、
マークは自分のお腹の脂肪をTシャツの上からつまみながら、
「俺は写らないほうがいいな」というので、
「そうだね、読者の夢を壊すかもね」と答えておいた。

しかし、実際は、ボルボ・オーシャンレースのような過酷な長距離レースに乗るセーラーは、ある程度の皮下脂肪を蓄えてスタートしなければならないし(それでも各レグごとにクルーは平均10キロほど痩せる)、しかも、マーク・クリスチャンセンは、世界トップクラスの、非常に優秀なセーラーだ。ヘルムスマン(ドライバー)としての腕も一流だ。今回の『ABN AMRO1』ではワッチ・キャプテンを務める。

ワッチ・キャプテンと言うのは、スキッパーの片腕としてチームをまとめる、言わば副船長のような、重要な存在だ。マークは前回の世界一周レースでも、ジョン・コステキ率いる『イルブルック』のワッチ・キャプテンとして優勝に貢献している。

ぼくは、マークに、ニュージーランドのレースでも、ハワイのレースでも、非常に助けられた。機会があればぜひまた一緒に乗りたいと思っているセーラーのひとりだ。
少し関係ないが、マークの奥さんのジェネラはとても奇麗な人で、先月からボルボ・カーズ・ジャパン社が発行している『ボルボ・オーシャンレース・カタログ』を作るときにも、ジェネラとマークが出港前に抱き合っているシーンの写真を使わせてもらった。

さあ、これから『ABN AMRO1』スキッパーのムースと昼飯だ。あいつ、朝トレ、サボって、出てきてなかったなあ。
しかし、ボルボ・オーシャンレースのスキッパーというのは、レース以外にも様々な仕事で、非常に忙しそうだ。スポンサー・イベントでもいつも引っ張り出されている。あいつなりに、結構、大変なんだろうな。

Feb.7 2006 チタニウムとステンレス

2006年02月07日 | 風の旅人日乗
2月7日 火曜日 メルボルン。

メルボルンは、今日も風が強い。だけど、いい天気で気持ちがいい。

シドニーホバート・レースで一緒だったアールとジャスティン、ハミルトン・レース・ウイークで一緒だったクレイグ、ニッポンチャレンジ2000で一緒だったロドニーが乗っている『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン』が、セールテストのために、早朝から出港していった。

朝、チームABN AMROのメディア担当、キャミラと、チームのカメラマンのジョン・ナッシュと打ち合せ。
明日のクルーの朝トレ取材と撮影、明日の昼御飯を食べながらのスキッパーのムースとのインタビュー、明後日の2ボート・テスティングの同乗、などについて、時間・場所の確認をする。

このチームのメディア担当のキャミラ・グリーンは、若いがとても気持ちよく仕事をサクサクとこなす。まず、仕事がリズミカルに進んでいくのが嬉しい。そして、とても明るいのがいい。彼女も、今後この道のプロとして、どんどんキャリアを積み重ねていくんだろうな。
日本でも、自分の力に自信を持って、プロとしてその道に精進していく、本当の意味でのキャリア・ウーマンが増えてくると、それに続く世代の女性がもっと生きやすい国になるんだろうな。

さて、ボルボ・オーシャンレースのほうの今日のニュースは2つあって、2つともエリクソンに関してです。

まずは、エリクソンが、次のレグからカンティング・キールを駆動する油圧のラムを、チタン製のものからステンレス製のものに変えることになりそうだ、というニュース。
第1レグ、第2レグともにこのラムのトラブルに泣いたエリクソンの苦渋の決断なのだろう。

ステンレス製のほうがチタン製のものよりも信頼性が高いのだが、事はそう簡単ではない。
この二つの金属の重さの問題だ。
5トン前後あるキールバルブを風上側に持ち上げる油圧ラムに掛る荷重を支えるために、ラムのシリンダー径は50センチくらいになる。これだけの容積の金属だから、素材による重さの差も非常に大きくなる。

ちなみに、ボルボ・オープン70クラスの場合の、チタンとステンレスのラム全体の重さの差は、100キロにもなる。もちろん、ステンレスのほうが100キロ重い。
船が100キロ重くなるだけなら、人間1.5人分に過ぎないのだから、そんなに嘆くほどのものでもないだろうと、思うだろうが、そうではない。

キールバルブの重さは、ほとんどそのまま、クローズホールドとリーチングにおけるヨットの性能に直結しているから、各艇は共に出来得る限りキールバルブに重さを詰め込んでいる。
その結果、艇全体の重さはクラス・ルールで許される最大限の重さになっている。
その状態で計測をクリアした艇のカンティングキール駆動ラムをチタン製からステンレス製に変えるとどうなるか。
そうです、艇の重さがクラス・ルールで許されている最大を100キロ越えることになるのです。

すなわち、ステンレス製のラムに変えることを決定したエリクソンは、第3レグにスタートする前に、キールバルブを100キロ軽くして、艇の計測を受け直さなければならないわけだ。
前にも書いたように、キールバルブを100キロ軽くすると、1レグを走り切るのに、半日から1日分に相当するスピードを失う、とコンピュータが「I’m sure!」と言っている。
つまり、油圧ラムをチタン製からステンレス製に変えることは、信頼性と引き替えに、確実にスピードを失う、ということなのである。

どんな世界でも、何かを得ようとすれば、何かを捨てなければならないのだねえ。
一挙両得という言葉も、あるのはあるけど・・・。

もう一つのエリクソンのニュースは、先週土曜日に行なわれたメルボルンでのイン-ポートレースでのリコール(フライング)について。
「自分たちがリコールしていない確定的な証拠があるので、インターナショナル・ジュリーに救済の要求を提出した」、というもの。

ぼくはそのスタートを運良くスタートライン左端のアウター・ブイのすぐ外側で停止していた取材艇のフライング・ブリッジ(2階席。高い位置から俯瞰で見える)から見る幸運(取材艇のドライバーは、コース・マーシャルから後でどえらく怒られていたよ)に恵まれたんだけど、まず、『ABN AMRO2』がスタート時間より3秒前くらいにスタートラインから出た後、続いて、その向こう(右側)から『エリクソン』もバウスプリット+船本体が3、4m出たように思う。時間にして1.5秒は早かったように見えた。

それと、思うに、エリクソンのバウマンからは、自分たちよりも先にスタートラインを出てしまった『ABN AMRO2』のオーバーラップ・ジブに隠されてしまって、アウターマークが見えないわけだから、トランジットを富士山のような高い山で取っていたのならともかく(スタートラインの向こう側に高い物標はなかったと思うな)、自分がスタートラインを出たかどうかは確認できなかったはずだと思うけどね。

今日の写真は、2月5日に掲載した写真とは反対側、スタートラインの左側上空から、スタート10~15秒前に撮った写真だけど、他艇がまだ船を止めている状態のときに、『ABN AMRO2』(写真で一番手前の船)と『エリクソン』(その向こう隣)の2隻がすでに加速を始めているのが分ります。2隻とも、自分の行動を自分で起こせる、自由な位置を確保していたわけだから、この加速をもう2、3秒ほど遅らせれば、いいスタートになっていたことになるね。

それにしても、『ABN AMRO2』のオーバーラップジブは大きいなあ。『ABN AMRO1』も同じ大きさのジブを揚げていたけど、LP(マストからフォアステイの付け根までの距離を100%とした、ジブの横方向の大きさ)は、150%以上はありそうだね。
よほど、スタビリティーに余裕があるのだろう。

明日は、朝6時半から、そのABN AMROチームの朝のトレーニングを取材し、そのあと、昼飯を食いながら『ABN AMRO1』のスキッパーであるムースにインタビュー取材をする予定です。
なので、今日は早めに寝なきゃ。

スポーツで蘇るのかメルボルン

2006年02月06日 | 風の旅人日乗
写真は、海から見たメルボルン。

今日も、取材を兼ねて海に出てきた。
海から見るメルボルンは、斬新な高層ビルが林立する近代都市だ。
メルボルン市は、今、スポーツイベント都市として売り出しにかかっていて、いろいろなスポーツの世界イベントを誘致している。

先日終わったばかりのテニスの全豪オープンもそうだし、今月末にはオリンピックに迫る参加国を集める総合スポーツイベントのコモンウエルス大会も始まる。
そのあとには、これまでアデレードで行なわれていたF1サーキットもメルボルンで開催される。アデレードから開催権を奪い取ったのだ。

マリンスポーツ・イベントの誘致も睨んで、ウォーターフロントの再開発が10年計画で進められていて、それが後5年で完成する。
今回のボルボ・オーシャンレースのストップオーバーの誘致もその政策の一環で、これまでシドニーが当然の権利だと考えていた、世界一周レースの寄港地を、メルボルンが奪い取った。

シドニーは都市計画に失敗したのか、市内は何か汚くなって、町並みもゴミゴミしてあまり快適でなくなってきてるが、それに対して、最近のメルボルン市の再開発計画は、好意を持って市民に受け入れられているという。
実際、シドニーからメルボルンに移り住む人も増えているのだという。

Feb.6 2006 取り急ぎ報告致します

2006年02月06日 | 風の旅人日乗
2月6日 月曜日 メルボルンは今日も晴れ。

そういえば、すっかり宣伝するの忘れてましたけど、マガジンハウス発行の雑誌『ターザン』458号(1月18日発売。サッカー日本代表キャプテンの宮本恒靖選手が表紙の号)からボルボ・オーシャンレースの不定期連載記事を書き始めました。127-129ページです。興味ある人は読んでみて下さい。

また、この458号には、シーカヤッカー内田正洋の超長寿連載『いざっ!カマ・ク・ラ』(93ページ)に、昨年12月に敢行した沖縄慶良間諸島・座間味島サバニ合宿(2005年12月7日から14日までの日記参照)のことを、内やんが書いていて、私の写真も小さく(本人にしか分らない)載ってますので、ぜひ買って読んでくださいね。

以上、取り急ぎ、ご報告まで。

2月5日の第3便。ブラジルの悲劇とは

2006年02月05日 | 風の旅人日乗
2月5日 日曜日 メルボルンから本日の第3便。

写真は、昨日のレースのスタート10秒ほど前のシーン。

ヨットレースにあまり興味のない皆さんに説明させていただくと、スタートラインは、写真手前に浮かんでいる白いヨットのマストと、写真ではそのずっと右上に浮かんでいる白いマーク・ブイ(ちょっと見えにくいかも)の間を結ぶ架空の線が、このレースでのスタートラインです。

この後、加速のタイミングが早すぎた『ABN AMRO2』(一番リミットマーク寄り、つまり一番遠くにいる艇)と、その風上側(つまり、ひとつ手前側)にいる『エリクソン』がリコール(フライング)した。

このレースでのスタートラインは、風向に対して完全に直角ではなかった。コースサイド(写真の右側)に向って右側(つまり白いヨットの側)が有利なスタート・ラインになってました。
だから、スタート・ラインの、白いヨットに近い側からスタートすると、スタート後に、他艇に対して有利な位置を取ることができる。

その一番有利な位置からスタートしようとしているのが、写真で一番手前にいる、ポール・ケアード操る『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン』。

しかし、スタートは、いい位置からスタートしただけでは片手落ちです。
スタートの瞬間にトップスピードでラインを切ることが大切なこと。
スタートの瞬間にラインを切るのと、1,2秒、ラインを飛び出すのが遅れても、トップスピードでスタートすることとで、どちらを優先させなければいけないかと言うと、トップスピードでスタートすることのほうだ。
もちろん、トップスピードで、一番有利な位置で、ジャストのタイミングでのスタートが、ベスト・オブ・ベストのスタートだけど、この3つが揃ったスタートはいつもいつもできるわけではないし、特に1番有利な位置にこだわり過ぎることは、失敗の危険と隣り合わせだ。

ヨットレースにおいていいスタートとは、スタートの瞬間に他艇よりも頭を出しておくことではなく、スタートして30秒~1分後に、他艇よりも頭を出しているようなスタートを指す。

『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン』は最高の位置取りに成功し、ジャストに近いタイミングでスタートしたものの、ラインへのアプローチで加速することには失敗した。スタートの3つの要素のうちで一番大事なスピードがなかった。

これに対して、スタート2分後にトップの位置に出ていたのは、一番有利な位置ではなかったものの、有利な側に近い位置から、スピード豊かに、しかもほぼジャストのタイミングでスタートラインを飛び出した『ブラジル1』だった。

しかしスタートで勝った艇が、レースに勝つとは限らない。

このスタートの写真でも明らかなように、他の艇から遅れて、2列目からのスタートになってしまい、スタートに失敗したとも言っていい『ABN AMRO1』(写真では、左端。みんなの後ろにいて、割り込む隙間がなくて困っている)が、このレースを制した。

さて、『ブラジル1』の昨日のレースでのトラブルの話。

第2風上マーク手前で、タック直後に突然失速(昨日の日記参照)して、『ABN AMRO1』に抜き去られた理由が分かりました。
そのタッキングのために、カンティング・キールを左から右に動かしていたら、油圧で駆動しているそのシリンダーにオイルを送り込むパイプが突然破れたのだ。
5トン近いキールを駆動中なので、油圧パイプには当然すごいプレッシャーが掛っているわけで、それが破れたのだから、オイルがすごい勢いでほとばしり、船内全体が油まみれになったのだそうだ。

それでまず、キールが動かせなくなり、艇速が落ちて『ABN AMRO1』に抜かれた。
次なる問題は、風上マークで揚げるためにバウハッチの下で用意していたジェネカーも油まみれになったことだ。油に浸ったセールは自分自身に粘り付き、ベトベトの状態になった。
ホイストしてはみたものの、粘って重いセールのシートが引けない。
それで、ジェネカーは提灯のように捻じれてしまい、開かない。
周りをどんどん後続艇が追い抜いていく。
仕方なく、一度降ろして捩れを取ろうとしたものの、油でベトベトのセールはまったく解けようとしない。
それで、仕方なく、油の被害から免れていたフラクショナル・ジェネカーを揚げて、最下位まで落ちるのを凌いだ、というストーリーだったのだそうだ。
ケープタウンから休みなく働いているというのに、本当にお疲れ様だ。

その『ブラジル1』は今日午後から上架中だ。
噂によると、新しく作ったマストのリギンの長さが長過ぎたのだそうだ。
ボルボ・オープン70のリギン(フォアステイ、サイドステイ、バックステイ類)は、すべてPOBという繊維でできている。構造上、長さ調節のためのターンバックルを入れることができない。デザイナーが決めた長さピッタリに作られてなければ、そのリギンは使えないのだ。新しく最初から作らなければならない。

PBOリギンは非常に高価で、ボルボ・オープン70の場合、リギンだけで約3000万円くらいする。300万ではなく、3000万だ。マストやスプレッダーを含まない、リギンだけの値段です。驚きですね。

というところで、唐突な尻切れトンボだけど、今日はここでおしまい。


グラント・ワーリントン、41歳

2006年02月05日 | 風の旅人日乗
2月5日 日曜日 メルボルン

写真は、ボルボ・オーシャンレースに参加している唯一のオーストラリア艇のオーナー・スキッパー、グラント・ワーリントン、41歳。メルボルンのデベロッパー。
世界一周レースに出たいという夢をついに実現させたけど、今回はちょっと資金的に苦戦中。でも、ガッツの塊、かつセーリングが飯よりも好きと言う実業家セーラーだから、今回の苦戦を糧に、次の大会ではかなりのチームに仕上げて出てくるはず。

そのグラントの艇は、現在はブルネイというオランダの人材派遣会社(特にプロジェクトマネージャー・レベルの人材に特化した人材派遣で成功した企業だと聞いています)のスポンサードが決まり、『ブルネイ』と名前を変えたのだが、その『ブルネイ』に朝早くから乗せてもらった。

『ブルネイ』は、メルボルンからブラジルまでの第3レグ、ブラジルからアメリカのボルチモアまでの第4レグを欠席する。
なぜか。

それは、このまま、今現在の艇の状態でレースを続けても勝ち目がまったくないからだ。
勝ち目がないからレースから撤退するのではなく、2ヶ月近くをかけて徹底的に艇を改造して、それからレースに復帰する作戦だ。

ニューヨークを経由してボルチモアからイギリスに渡る第5レグは、大西洋横断記録もかかるし、その次の第6レグのフィニッシュは、新しいスポンサー『ブルネイ』の地元だ。そこで好成績を収めれば、スポンサーとしても効果が高い。
それで、それらのレグで、華々しい成績で復活することに賭けよう、ということになったのだ。
落ち着いた、前向きで、大人の判断をするスポンサーだし、チームだと思う。

『ブルネイ』は現在最下位だが、なんと言っても、超新世代のモノハル艇と言われているボルボ・オープン70クラスである。船内、デッキには、様々な新しい装備がふんだんに備わっていて、「ははあ、なるほど」とか「へー、そうか」と驚くことばかりで、何時間セーリングしても飽きることがない。
カンティング・キール艇のセーリングの詳細や、その他、いろいろ面白い情報をもらった。

今回は(いつもかな。でも今回は特にひどい)、成田に行く時間が迫ってきて、慌てて1時間で荷造りをして家を飛び出したので、いろいろ忘れ物をしていて(パンツも忘れた。はいてきた1枚を夜洗濯して朝また半乾きをはいてます)、写真をパソコンに取り込むことができないので、帰国後に追って載せますが、セーリング中にいろんな新しい艤装、工夫の写真を撮ったよ。

ここで、一休みして、ちょっと別件の秘密の仕事に行ってから、その後、まだ時間があったら、昨日の『ブラジル1』の失速の原因について書こうかと思います。

Fe.5 2006 ブラジル無念

2006年02月05日 | 風の旅人日乗
2月5日 日曜日 メルボルン

さあてと、ボルボ・オーシャンレースのメルボルン・イン‐ポート・レースの報告の続きです。
どこからだったかな。
そうそう、第1風下マークで、『ブラジル1』がジブを絡めてジブシートを引けなくなってしまい、『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン』に追い上げられている、というシーンでした。

そのときに16ノット前後まで上がっていた風は、さらに上がる傾向を見せていた。
なのに、3位回航の『ABN AMRO1』も、6位と遅れている『ABN AMRO2』も、この2隻だけがオーバーラップジブ(つまり、面積が大きいわけですね)を、迷う気配もなく揚げていて、一向に苦しそうな(オーバーヒールしたり、メインがバタついたり)様子がない。余裕たっぷりで走っている。

ここで、3週間ほど前に、ヨーロッパのスロベニアでセーリングしながら(1月10、11日あたりの日記参照してください)でラッセル・クーツから聞いた情報を思い出す。
ラッセル言うには、
「『ABN AMRO』の2隻のキール・バルブは、ほかのファー設計の4隻よりも数百㌔重いらしいぞ。」
とのこと。

『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン』のプログラム・マネージャーのキモ・ウエリントンによると、キールバルブの重さが100kg違うと、例えば南アフリカのケープタウンからメルボルンまでのレグでは、予測される風向風速をインプットしたコンピュータによるシミュレーションによれば、同じ船型の船でもフィニッシュ・タイムが12時間ほど違うらしい。
もちろん、重いキールバルブのほうが12時間早くフィニッシュする、とコンピュータが言っているのだそうだ。

メルボルンの到着時間で、3位の『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン』は1位の『ABN AMRO1』に約2日、48時間遅れてフィニッシュした。キールバルブの重さだけのファクターでみれば、コンピューターは400キロ『ABN AMRO1』のほうが重いと言っているかのようだ。
しかも、今回このレグは、スタート直後の2日間と、フィニッシュ前の数日間、通常では考えられないような無風・微風に見舞われている。そういうコンディションでは、重いキールバルブは逆に負の要素になる。もし、このレグで通常どおりの強風が吹きつづけていれば、『ABN AMRO1』の優勝タイムはさらに圧倒的だった可能性がある。

しかし、もし、『ABN AMRO1』のキールバルブが、ラッセルの言うとおりに他よりも重いとして、ボルボ・オープン70の厳しいボックス・ルールの中で、どのファクターを、どのように操作してその重さを引っ張り出してきたのだろうか。
明後日、火曜日に『ABN AMRO1』スキッパーのムース(マイク・サンダーソン)とゆっくり話をすることになっているので、聞いてみよっと。

ニュージーランドのセーラーの間では、マイク・サンダーソンと言っても誰も知らない。ムースのことは、あだ名のムースでしかほとんど知られてません。おそらく、お父さんお母さん以外、誰も知らないのではないだろうか。
このレースに優勝して、世界のメジャー・セーラーになれば、ニュージーランドでも本名が知られるようになると思うけど。
ムース(へら鹿)って動物の顔、知ってますか? とっても人の良さそうな、かつ、かなり特徴のある顔の動物です。知ってたら、町中でマイク・サンダーソンに会ったら「あ、あの人がムースだ」ってすぐ分ると思います。
セーラーとしてこんなにすごいとは思ってなかったけど、人間としては、間違いなく、ものすごくいい奴です。

で、そうそう、『ブラジル1』の危機でした。
ぼくはここで当然、次の第2風上マークでは、ポール・ケアードの『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン』がトップに来ると思ってました。
カリビアン、来ませんでした。

第2風上マークでトップに来たのは、パフで18ノットくらいまで吹き上がってきた風の中を、大きなジブで余裕で走って来た、ムース率いる『ABN AMRO1』。
すげー、速い。
危なげないクルーワークもあって、もう1ラップ、コースを周回するうちに、『ABN AMRO1』はさらにグイグイ後続を引き離して、ダントツのトップ・フィニッシュ。
すごい。15ノット越えると、無敵のボート・スピードだ。

昨年11月、スペインのサンセンソでの、超微風で行なわれた最初のレースでビリ(そのレースに参加しなかった1隻を別にして)を取ったときには、「ムース、やっぱりダメじゃん。頑張れよ」って感じだったけど、今日のレースの勝ちで、『ABN AMRO1』は総合ポイントで圧倒的優位に立ったし、
しかも、15ノット以上の風での、この艇速の差は、半端じゃない。無敵のスピードだ。
艇速がいい上に、ワッチ・キャプテンのマーク・クリスチャンセン以下のクルーもよくまとまって強い。
マストが折れたりとかいった大きなトラブルが今後の3,4レグで起きない限り、VOLVOOCEAN RACE 2005-2006の優勝にかなり近いところに来ていると思う。

ムース、すごいなあ。
ニュージーランドのオークランドの、水曜日の夕方のハーバー・レースでさえ、なかなか勝てなくて、いつもビール飲み飲み、弱々しい笑顔で悔しさを隠していた、あのムースがなあ。ボルボ世界一周レースの優勝スキッパーになる日が近いのか。
くそったれ!、ムース。

応援していた『ブラジル1』は、第2風上マーク直前で、スターボードへのタック直後に、いきなり、なぜか突然、失速。その間にムースから風上を突破されてしまうものの、そのマークをなんとか2位で回った。
しかしその後、ジェネカーを揚げるときにツイストさせて破ってしまい、そのトラブルに対応している間に5位にまで落ちてしまった。

艇のスピードが非常に速いボルボ・オープン70クラスでは、マーク回航の失敗や、セールのトラブルなどがあると、トップから最下位近くまであっと言う間に落ちてしまう。ちょっとしたミスが、とんでもない距離差になってしまう。レース結果における天国と地獄が、いつも隣り合わせだ。
こんなに緊張するセーリングを南氷洋を爆走している間ずっと、こいつらはやってるんだなあ。大したもんだなあ。

さて、上位6艇はこういうレースを展開してましたが、もう1隻も走っています。友人のジェフ・スコットも乗っています。
その7隻目、唯一の地元オーストラリア艇『ブルーネル』は、第1風上マークを、スタートで大きく遅れた『エリクソン』の少し前を回った以外、他の6隻に、コンスタントにどんどん離されてました。気の毒だった。

この艇は、レグごとにスポンサーが降りてしまい、そのたびに新しいスポンサー名に艇名が変わるので、しかも新しいスポンサーはいつもレースの直前になってやっと決まるので、レース当日にこの艇のことをどう呼んだらいいのか、ほとんど誰にも分らない。おそらく乗っているクルーたちも、その日に着るTシャツが配られるまでは、自分の船の名前を知らないんじゃないだろうか。いやいや、それは言い過ぎか。

この日のレースでも、ラジオの実況中継があって、アナウンサーは各艇のスポンサーを重んじて、『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン』のような長い艇名でも、常に几帳面にフルネームで呼んでいたのに、肝腎の自国艇については『ブルーネル』という名前を覚えきれなかったようで、時々「オーストラリアン・ボートはさらに遅れていっているようですね。」と、突き放したように、簡単に端折って伝えていた。

今日はこれから、そのオーストラリアン・ボートに乗せてもらってセーリングです。
オーナー・スキッパーのグラント・ワーリントンの機嫌が良さそうだったら、なんでこんなに遅いのか、理由を聞いてみようかな。
いや、やめとこう。
グラントの、捲土重来を期した次の挑戦への意気込みを聞いたほうが、遥かに建設的だ。

あと、昨日の『ブラジル1』の失速の理由が、今朝の取材で明らかになったので、追って報告します。

見てたら、ムース、勝ちました。

2006年02月04日 | 風の旅人日乗
2月4日 土曜日 オーストラリア時間午後6時

いい天気でした、メルボルン沖の海。
午後2時、12ノットくらいの190度方向からの風で始まったボルボ・オーシャンレースの、メルボルン・イン‐ポート・レース。輸入レースではなく、港の中レースですね。

ここでも上手いスタートを切ったのは、『ブラジル1』のトーベン・グラエルと、『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン』のポール・ケアード。さすが、スター・クラスのトップ選手たち。

ジョン・コステキがタクティシャンとして乗る『エリクソン』と『ABN AMRO2』が、それぞれ誰かに追い出された訳ではなく、加速のタイミングを測り間違えて(大型艇は、一旦セールを絞り込んで加速を開始するとライン間近で止めることもできないし、ボルボ・オープン70のような高性能艇はラダーも小さいのでベアウエイすることもできない)、1.5秒から2.5秒くらい早くスタートラインを出てしまい、リコール(ヨットレース用語で、陸上競技や水泳で言うフライングのこと)。

『ABN AMRO2』はすぐ戻ったものの、『エリクソン』はしばらく気が付かずに走り続け(コミッティーがVHFで大声で叫んでいるオーストラリア訛りのEllicsson!は、確かにどの艇のことを言ってるのか分らなかったものなあ。)、再スタートしたときにはかなりの遅れになっていた。ここからコステキがどんな戦術で上位に上がって来るか、楽しみである。

コースは、3マイルの距離で打たれた風上・風下のマークを3周するコース。

『ブラジル1』が、スタートでの利を生かして、最少のタック数で、第1風下マークまでトップを堅持。
南アメリカのケープタウンからの第2レグ。『ブラジル1』はスタート後数日でデッキにクラックが入り、その修理のためにケープタウンに戻り、それから、もうかなり先を走っている他の艇群を追いかけ、その頑張りが報われて、もう少しでオーストラリア大陸というところで、今度はマストが折れ、折れたマストの残りを使って、それにセールを張り、やっとのことで今週の木曜日にメルボルンにたどり着き、金曜日に新しいマストを立て、本日土曜日の朝、レース前に新しいマストをチューニングをしたばかりだ。
それだから、このチームのクルーは、1月2日にケープタウンをスタートして以来、一日も休みを取ってない。
がんばれ、ブラジル!

しかしその疲れが出たのか、『ブラジル1』は、第1風下マークでジャイブ中に、ジブシートが両サイドとも出てしまい、ジブがフォアステイの外に回って、ジブのトップバテンがフォアステイに巻きついてしまい(ヨットレースを知らない皆様、つまらない専門用語が続いてしまって、どうもスミマセン)、ジブを引き込めない。

この隙を突いて、すぐ後ろで第1風下マークを回ったポール・ケアードの『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン』がトップに踊り出る。
すぐ後ろに朝話したムースが舵を取る『ABN AMRO 2』が付いている。

ここで、風はスタート時よりも15度ほど右に振れながら16、18ノットに上がっている。

第1レグでオーバーラップジブを使っていた『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン』も、その風に合わせてノンオーバーラップのジブに変えている。

あ、ヤバっ、今日のレースの表彰式が始まる時間になった。

すみませんが、この続きは、明日ということで。
気になる本日の優勝を先に報告しますと、朝、「まあ、見ててよ」と言い残して出港した、ムースの『ABN AMRO 2』でした。

Feb.4 2006 まあ見ててよ、だって。

2006年02月04日 | 風の旅人日乗
2月4日 土曜日

今日もメルボルンです。いい天気。

今日、午後2時から、メルボルン港外で、ボルボ・オーシャンレースのインショア・レースが始まる。
朝、出航前に、現在のところポイントでダントツを走っている〈ABN AMRO〉のスキッパー、ムースと話した。

「今日の風予想は15ノットなんだよ。俺らとしては20ノット欲しいところだけど、まあ、見ててよ」と自信たっぷり。
風が10ノットくらい以下だと見事なくらい走らない艇なので、少し心配だけど、見ててあげますか。
海から戻ってきたら、また報告します。

Feb.3 2006 南半球の夏

2006年02月03日 | 風の旅人日乗
2月3日 金曜日

メルボルンに着きました。
いい夏ですね。

昨夜、成田を出るときに、カンタス航空は成田空港から意地悪をされているのか、すっごく遠い滑走路まで行かされ(かれこれ30分以上も地上をゴトゴト動いてたよ。席に着いて、飛行機がゲートから離れて読み始めた夕刊を、ひと通り読み終えてから、フト気がついたときに、まだゴトゴト移動してたから。)、そのおかげで離陸がすっごく遅れた。

当然、シドニー到着もその分遅れ、シドニーからメルボルン行きの飛行機への乗り換え時間が元々短かったため、むっとする暑さの夏のシドニー空港のターミナルを、ワタクシ、走りに走りました。

しかしその汗だくの努力は実らず、結局チケットを持っていた便に乗ることはできなくて、次の便に回され、その便がさらに遅れたので、メルボルン空港に着いたら、迎えにきてくれていた関係者が帰っちゃってた。
電話をかけてもう一度来てもらい、やっと、ボルボ・オーシャンレースの参加艇群が舫われているハーバーに到着しました。

プレス登録の手続きや、明日のハーバー・レースを観戦するための取材艇乗船の手続きを終え、やっとのんびりした気分になって、メディアセンターでパソコンを開いたところです。

明日から少しずつ、出し惜しみしながらボルボ・オーシャンレースのこと、メルボルンのこと、書いていく努力をするつもりです。
お楽しみに。