薄汚れた暗幕のような闇の中で
小さな椿の花がひとつ 赤い目玉のように光っていた
明晰夢というのがある
これはそれだなと思いながら
わたしはぼんやりと 椿の花を見ていた
静かだなと思っていたが
やがてどこからかぶつぶつと小さな細い人声が聞こえてきた
ああ よくないことがおこりそうだと
わたしは思いながらも 待った
予想どおり 椿の花の奥から
聞き覚えのある声が聞こえてきた
それは鶏のようにかん高い耳に触る声で
盛んに怒りながらわたしに言うのだった
おまえはこんなこともできないのか
なにしてもまともにできないね
百点とっても友達付き合いが下手では何にもならないよ
そんな服が似合うと自分で思っているの
ああ 女の子はいやだ いやらしいったら…
ああ そうです おかあさん
わたしは 役立たずです
生きていてもしょうがない
人に迷惑かけるだけの無駄な生き物です
わたしは言いながら 笑った
もうずいぶんと昔のことだ
あのひとにわたしは おまえは屑だと言われながら
毎日のように こき使われていたのだった
涙も凍って出ない
頭は脳みその代わりに石がつまっているようだった
今更こんな夢を見ずとも
もうとっくに終わったことなのに
自分ではとっくに解決したことなのに
なぜ今になって こんな夢を見るのか
わたしがそう思っていると
どこからかビスケットを割るような
くしゃり という音がした
何気なく下を見ると
なんと わたしの右足が折れているのだった
痛くはないのだが 右足は曲がるはずのないところで曲がって
奇妙に縮んでいた
ああ いやな夢だ
もう目を覚ましてしまおう
わたしは夢から出ようともがいたが
残念ながらできなかった
椿の花は 相変わらず
低い女の声で 本当に
どうやったらそんなことに気が付くのかと
思うほど 小さなことをつついて
わたしに悪口ばかり言うのだった
聞いていると苦しくなってきて
足の骨がまただんだんと細ってくる
このままでは左足も折れると 思っているところで
ようやく光が見えてきた
目を覚ますと わたしは
小部屋の文机の上に顔をおいて眠っていた
しばらくの間 夢ともうつつともつかぬ
気持ちの中を揺らいでいたが
しびれていた耳の感覚が戻ってくると
プロキオンの声が聞こえてきて
わたしはやっと現実に戻ることができた
わたしは 自分の足を見た
前よりも骨は太く丈夫になっていたが
まだ添え木を外すことはできない
そうか わたしの足が細ってしまったのは
あれが原因だったのだな
わたしは自分の足をさすりながら
独り言のように言った
プロキオンが ち と鳴く
小さな子供のころのことは
もうとっくに自分でけりをつけて
大人になったつもりでいたのだが
やはり 受けた傷というものは残るものなのだ
自分でも知らないうちに わたしは
自分にとても無理をさせていたのだろう
長い間 聞こえるところから
あるいは聞こえないところから
投げつけられ続けてきた
人々の憎しみの言葉は 思っていた以上に
わたしに深くとりついている
それでわたしは 自分に自信を持つことが
なかなかに難しくなった
いつも誰かに遠慮している
そう 彼にも言われたことがあった
人々が愛をあまりに馬鹿にするので
わたしは愛しながらも 自分に自信がもてないのだと
わたしは立ち上がった
手首につけた鈴がころりと鳴り
その瞬間 わたしはさっきまで見ていた夢を
きれいさっぱりと忘れてしまった
夢を見たことは覚えているのだが
思い出そうとすると砂の満ちている箱のような
重い記憶の空白ばかりが見える
お風呂に入りたいなどと思いながら
扉を開けると おや
もうそこに ヒノキのお風呂があった
ジャスミンの香りのする薄紫色の湯が
湯気をたてながら湯船の中でかすかに波打っていた
なぜみな こんなにわたしにやさしくしてくれるのだろう?
わたしは だいじなことをわすれているのだ
わたし自身が とてもたいせつなものだということを
理屈ではわかっていても
どうしても 子供の頃の経験によって培われた
自分に自信を持てない性質というものは
なかなかに治らないものなのだ
そうだ わたしは
自分を治さなければならない
きっとわたしは 思っている以上に深く傷ついている
誰もわたしにはそれを確かには言わないが
こうやってわたしのために
みながたくさんのことをしてくれるということは
そうせずにはいられないほど
わたしはたぶん 大変なことになっている
治さなければならない
わたしは
治らなければならない
ひとびとのためにも
たくさんの星が 人間を助けてくれる
だが
わたしにしかできないことが あるのだ
絶対にわたしでなければ いけないことがあるのだ
わたしは希望を捨てない
わたしは未来を信じる
たとえ今がどんなに絶望的であろうとも
暗闇に一筋の光すらなかろうとも
果てしない道を わたしは倦むことなく進むだろう
ひとびとよ わたしは
必ず あなたがたを 助ける
未来を信じなさい