ふわふわした状況の中で「自我」というものに衝撃的な出会いをしたのは、過去に数回あります。
どういうことかというと、自分が自分であることの出会いという意味です。
現在の私は、ある場合においては逃避しているものもありますが、自我との関わりの中でしっかりと自我を意識している率が高くなってきたように思います。
思春期の長さは、人によってまちまちですが、私の場合は30歳くらいまで思春期だったように思っています。
自分の中で起こることへの決定、決断、責任感・・・
かなり欠落していたように思います。
自分の責任で行う諸々のことは、考え方も行動も感情もいつも何かによりかかっていたように思います。
だから、何か所在なしにフワフワしている、そんな表現が正しいかもしれません。
フワフワしていると自己を管理する自己責任の所在もフワフワしています。
一番衝撃的な自我との出会いは、「神様は私たちに自由意思を与えてくださった」ということを知った時です。
ということは、自分が選ぶことも、決定することも、行動することも、自分という身体が自分でやらなきゃ始まらないことだ、ということです。
答えは、自分の内にあることに気づかされた瞬間でした。
このことを「当たり前だ!」と思われている方は本当に幸せです。
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かなり欠落していたように思います。
自分の責任で行う諸々のことは、考え方も行動も感情もいつも何かによりかかっていたように思います。
だから、何か所在なしにフワフワしている、そんな表現が正しいかもしれません。
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一番衝撃的な自我との出会いは、「神様は私たちに自由意思を与えてくださった」ということを知った時です。
ということは、自分が選ぶことも、決定することも、行動することも、自分という身体が自分でやらなきゃ始まらないことだ、ということです。
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