『新ビスタカー』(二代目ビスタカー)
車両系式:10100系
登場初年:昭和34年(1959年)
全廃車年:昭和54年(1979年)
製造両数:54両(3連×18本)
※昭和35年「ブルーリボン賞」受賞(近鉄第1号)
昭和34年(1959年)に、10100系「ビスタカー」が登場しました。前年(昭和33年)の10000系「旧ビスタカー」に引き続いて、二階建て特急車の誕生です。
10100系は、10000系の運用経験を活かして製作され、二階建て車両を中心に完成度の高い編成に仕上がりました。また、近鉄の念願だった「名古屋線広軌化(線路幅の拡大)」の完成後をにらみ、名阪直通特急(伊勢中川での乗り換え不要化)での運用を視野に入れた〝量産車両〟となるなど、満を持して登場した感じが強い車両です。昭和34年から同38年まで数回にわたって増備が続けられ、最終的に3両編成が18編成(合計54両)造られました。
10000系が7両編成だったのに対して、10100系は量産車としての本格運用を考慮して3両編成を1単位とする身軽なスタイルになりました。編成単位では短いものの、当初から先頭車両の形状には「①…流線形タイプ(非貫通型)」と「②…流線形ではないタイプ(貫通型)」の二種類が用意され、
・上本町方が①-宇治山田方が② →A編成
・上本町方が②-宇治山田方が① →B編成
・上本町方、宇治山田方ともに② →C編成
という3種類の編成が計画的に製造、配備されました。
(内訳:A編成とB編成が各5編成、C編成が8編成、存在した。)
このうち、②の貫通型先頭車を介せば他の編成との連結運転ができ、
A編成+B編成、
A編成+C編成、
C編成+B編成、
C編成+C編成、
の組み合わせによって10100系の〝6両編成〟(3両編成×2本)ができあがる仕組みでした。旅客需要に応じて編成をつないだり切り離したりするのは、現在でも近鉄特急の特徴です。
10100系は、3両編成のうち中央の1両が二階建てで、それを挟みこむ前後の先頭車両は普通床(平床式)でした。編成内では、隣り合う車両どうしが一つの台車でドッキングされる連接構造が採用されていました。二階建て車両・連接構造とも10000系の運用経験が土台になったもので、特に、セールスポイントの二階建て車両は10000系のドーム型から進化し、平成時代の現在にあっても違和感は無いであろうスマートな形状でした。
昭和34年暮れに名古屋線の広軌化が完成し、10100系が名阪直通特急として走り始めました。伊勢中川でのスイッチ・バック(運転停車扱い)は必要だったものの、乗り換えの不便は解消されて、名阪間が1本の列車で結ばれました。その2年後には中川短絡線が完成し、スイッチ・バックの手間もなくなり、正真正銘の「名阪ノンストップ特急」が誕生しました。
こうした近鉄電車の歴史に残る数々の場面に、10100系は立ち会ってきたのです。時は、東海道新幹線が開業する前のことで、名阪間の旅客輸送では近鉄がシェアを握っていた頃です。注目を集める二階建て車両も連結していたし、名阪特急での活躍は10100系にとって最高の舞台だったことでしょう。
東海道新幹線の開業後は状況が変わり、10100系の運用も名阪特急のみに限定せず、他線区の特急にも回されるようになりました。そうした幅広い活躍のなかで、『近鉄特急=ビスタカー』というイメージを世間に定着させたことは、10100系の輝かしい功績だと言えます。
事故に遭ったあげく短命に終わった10000系とは正反対に、10100系は大きなトラブルに見舞われることも無く快調に走り続け、製造された54両すべてが任務を果たし終えて、昭和54年(1979年)までに〝勇退〟のうえ廃車となりました。
欲を言えば、年数的にはもう少し活躍を続けても良かったのではないかと思われますが、車両更新によるグレードアップを選ばず、後継の新型車両30000系「ビスタカーⅢ世」(後述)にバトンを渡す形で引退しました。
去り際も、きれいだったようです。
『10100系さよなら運転』として、A編成+C編成+B編成による迫力の9両編成(ビスタカー三重連)が走り、沿線では多くの人がその勇姿を見届けたといいます。先の10000系との対比という意味もありますが、10100系は『幸せな一生を送った車両』と評されることが多いです。
ただ…、私は、この10100系(実物)を見たことがありません。10100系の活躍中に私は生まれているのですが、その頃は近鉄沿線に住んでおりませんでした。残念!
近鉄特急の車両史において、この10100系を呼ぶときは、『新ビスタカー』というのが一般的です。二代目ビスタカー、ビスタカーⅡ世、でも通じますが…。
車両系式:10100系
登場初年:昭和34年(1959年)
全廃車年:昭和54年(1979年)
製造両数:54両(3連×18本)
※昭和35年「ブルーリボン賞」受賞(近鉄第1号)
昭和34年(1959年)に、10100系「ビスタカー」が登場しました。前年(昭和33年)の10000系「旧ビスタカー」に引き続いて、二階建て特急車の誕生です。
10100系は、10000系の運用経験を活かして製作され、二階建て車両を中心に完成度の高い編成に仕上がりました。また、近鉄の念願だった「名古屋線広軌化(線路幅の拡大)」の完成後をにらみ、名阪直通特急(伊勢中川での乗り換え不要化)での運用を視野に入れた〝量産車両〟となるなど、満を持して登場した感じが強い車両です。昭和34年から同38年まで数回にわたって増備が続けられ、最終的に3両編成が18編成(合計54両)造られました。
10000系が7両編成だったのに対して、10100系は量産車としての本格運用を考慮して3両編成を1単位とする身軽なスタイルになりました。編成単位では短いものの、当初から先頭車両の形状には「①…流線形タイプ(非貫通型)」と「②…流線形ではないタイプ(貫通型)」の二種類が用意され、
・上本町方が①-宇治山田方が② →A編成
・上本町方が②-宇治山田方が① →B編成
・上本町方、宇治山田方ともに② →C編成
という3種類の編成が計画的に製造、配備されました。
(内訳:A編成とB編成が各5編成、C編成が8編成、存在した。)
このうち、②の貫通型先頭車を介せば他の編成との連結運転ができ、
A編成+B編成、
A編成+C編成、
C編成+B編成、
C編成+C編成、
の組み合わせによって10100系の〝6両編成〟(3両編成×2本)ができあがる仕組みでした。旅客需要に応じて編成をつないだり切り離したりするのは、現在でも近鉄特急の特徴です。
10100系は、3両編成のうち中央の1両が二階建てで、それを挟みこむ前後の先頭車両は普通床(平床式)でした。編成内では、隣り合う車両どうしが一つの台車でドッキングされる連接構造が採用されていました。二階建て車両・連接構造とも10000系の運用経験が土台になったもので、特に、セールスポイントの二階建て車両は10000系のドーム型から進化し、平成時代の現在にあっても違和感は無いであろうスマートな形状でした。
昭和34年暮れに名古屋線の広軌化が完成し、10100系が名阪直通特急として走り始めました。伊勢中川でのスイッチ・バック(運転停車扱い)は必要だったものの、乗り換えの不便は解消されて、名阪間が1本の列車で結ばれました。その2年後には中川短絡線が完成し、スイッチ・バックの手間もなくなり、正真正銘の「名阪ノンストップ特急」が誕生しました。
こうした近鉄電車の歴史に残る数々の場面に、10100系は立ち会ってきたのです。時は、東海道新幹線が開業する前のことで、名阪間の旅客輸送では近鉄がシェアを握っていた頃です。注目を集める二階建て車両も連結していたし、名阪特急での活躍は10100系にとって最高の舞台だったことでしょう。
東海道新幹線の開業後は状況が変わり、10100系の運用も名阪特急のみに限定せず、他線区の特急にも回されるようになりました。そうした幅広い活躍のなかで、『近鉄特急=ビスタカー』というイメージを世間に定着させたことは、10100系の輝かしい功績だと言えます。
事故に遭ったあげく短命に終わった10000系とは正反対に、10100系は大きなトラブルに見舞われることも無く快調に走り続け、製造された54両すべてが任務を果たし終えて、昭和54年(1979年)までに〝勇退〟のうえ廃車となりました。
欲を言えば、年数的にはもう少し活躍を続けても良かったのではないかと思われますが、車両更新によるグレードアップを選ばず、後継の新型車両30000系「ビスタカーⅢ世」(後述)にバトンを渡す形で引退しました。
去り際も、きれいだったようです。
『10100系さよなら運転』として、A編成+C編成+B編成による迫力の9両編成(ビスタカー三重連)が走り、沿線では多くの人がその勇姿を見届けたといいます。先の10000系との対比という意味もありますが、10100系は『幸せな一生を送った車両』と評されることが多いです。
ただ…、私は、この10100系(実物)を見たことがありません。10100系の活躍中に私は生まれているのですが、その頃は近鉄沿線に住んでおりませんでした。残念!
近鉄特急の車両史において、この10100系を呼ぶときは、『新ビスタカー』というのが一般的です。二代目ビスタカー、ビスタカーⅡ世、でも通じますが…。