ダンポポの種

備忘録です

震災から15年

2010年01月17日 17時18分05秒 | 日記・雑記
きょう、阪神大震災から15年の節目を迎えました。

15年かぁ。もうそんなに経つんですね。

あの日、思いもよらない形で、大勢の人々が命を失くしました。
そのとき、私は何をしていたんだったか…?
その記憶は、今でも自分の中に明確に残っています。情けなくなります。
しっかり生きなければ、と思います。

合掌



今朝の『京都新聞』1面です。

↑小沢氏の件がトップに来てしまったな。
 全国女子駅伝も大きく載りました。地元京都で開催される大会なので、これは大きく報じられます。
 …というわけで、震災15年のニュースはコンパクトな感じです。



きのうの晩は、「神戸新聞の7日間」というテレビドラマが放映されていました。
ご覧になりましたか?


◎神戸新聞社の「震災15年ブログ」ページです。(ブログ開設期間は今年1月末まで)

↓別窓でオープンします。
http://d.hatena.ne.jp/shinsai15/


この「震災15年ブログ」のなかで、本日付(2010年1月17日)の記事に、震災直後に書かれた神戸新聞の社説全文が掲載されています。
きのうのドラマの中でも、この社説が紹介されるシーンがありました。
自らもが被災者の立場となった地元記者が、震災直後の混乱のなかで書いたもので、ありのままの思いが綴られています。

↓以下、青字の文は、神戸新聞社「震災15年ブログ」の2010年1月17日付記事のコピーです。

◇            ◇           ◇

昨夜放送されたドラマ「神戸新聞の7日間」をご覧になった方から、「番組内で紹介された社説を読みたい」とのリクエストがありましたので、ブログに転載いたします。


1995年1月20日朝刊1面


「被災者になって分かったこと」


 あの烈震で神戸市東灘区の家が倒壊し、階下の老いた父親が生き埋めになった。三日目に、やっと自衛隊が遺体を搬出してくれた。だめだという予感はあった。

 だが、埋まったままだった二日間の無力感、やりきれなさは例えようがない。 被災者の恐怖や苦痛を、こんな形で体験しようとは、予想もしなかった。

 あの未明、ようやく二階の窓から戸外へ出てみて、傾斜した二階の下に階下が、ほぼ押し潰されているのが分かり、恐ろしさでよろめきそうになる。父親が寝ていた。いくら呼んでも返答がない。

 怯えた人々の群が、薄明の中に影のように増える。軒並み、かしぎ、潰れている。ガスのにおいがする。

 家の裏へ回る。醜悪な崩壊があるだけだ。すき間に向かって叫ぶ。

 何を、どうしたらよいのか分からない。電話が身近に無い。だれに救いを求めたらよいのか、途方に暮れる。公的な情報が何もない。

 何キロも離れた知り合いの大工さんの家へ、走っていく。彼の家もぺしゃんこだ。それでも駆けつけてくれる。

 裏から、のこぎりとバールを使って、掘り進んでくれる。彼の道具も失われ、限りがある。いつ上から崩れてくるか分からない。父の寝所とおぼしきところまで潜るが、姿がない。何度も呼ぶが返事はなかった。強烈なガスのにおいがした。大工さんでは、これ以上無理だった。

 地区の消防分団の十名ほどのグループが救出活動を始めた。瓦礫(がれき)の下から応答のある人々を、次々、救出していた。時間と努力のいる作業である。頼りにしたい。父のことを頼む。だが、反応のある人が優先である。日が暮れる。余震を恐れる人々が、学校の校庭や公園に、毛布をかぶってたむろする。寒くて、食べ物も水も乏しい。廃材でたき火をする。救援物資は、なかなか来ない。 いつまで辛抱すれば、生存の不安は薄らぐのか、情報が欲しい。

 翌日が明ける。近所の一家五人の遺体が、分団の人たちによって搬出される。幼い三児に両親は覆いかぶさるようになって発見された。こみ上げてくる。父のことを頼む。検討してくれる。とても分団の手に負えないといわれる。市の消防局か自衛隊に頼んでくれといわれる。われわれは、消防局の命令系統で動いているわけではない、気の毒だけど、という。

 東灘消防署にある救助本部へいく。生きている可能性の高い人からやっている、お宅は何時になるか分からない、分かってほしいといわれる。十分理解できる。理解できるが、やりきれない。そんな二日間だった。

 これまで被災者の気持ちが本当に分かっていなかった自分に気づく。“災害元禄”などといわれた神戸に住む者の、一種の不遜(ふそん)さ、甘さを思い知る。 この街が被害者の不安やつらさに、どれだけこたえ、ねぎらう用意があったかを、改めて思う。