「生あるものは必ず死す、形あるものは必ず滅す」というが、生と死は常に表と裏、この世は諸行無常であり、明日の生命の保証はない。僕の年齢になると、それは今日かもしれないし、明日かもしれない。その覚悟はできているつもりだが、それはまだ死に直面していないから言えることかもしれない。
先日の山梨県の中央自動車道笹子トンネルの天井崩落事故のように、なんの前触れもなく、なんの落ち度もないのに、突然死が訪れる事もある。人生を全うしてから訪れる死は仕方ない。しかし、志半ばで迎える死は無念だろう。
僕より先には逝って欲しくないひとが何人かいる。そのひとりが中村勘三郎さんだった。彼が子供の頃からテレビなどで活躍する姿を見たてきたが、その才能は歌舞伎役者としてだけではなく、様々な分野での卓越した実力と魅力が際立っていた。その中村勘三郎さんの訃報は、驚くとともにショックでもあった。これから歳を重ね、更に円熟していく彼を見たかった。

彼の歌舞伎の舞台を、一度だけ見た事がある。まだ若く中村勘九郎を名乗っていた頃だった。その勘三郎さんが主催する平成中村座は、江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場で、毎年浅草の隅田公園内に設置され、人気を博していた。今年の5月の末、中村座の前を通ると、開演前の中村座の入り口は人の波。

偶々この小屋の裏側を通ると、そこにも人だかりがしていた。何事だろうと、野次馬根性で見ていると、舞台の後ろが開き、客席から見えるスカイツリーを背景に演(だ)し物が演じられるという。

舞台裏からは神輿が担ぎ込まれ、演者の掛け声や、客席からと思われる歓声が聞こえてくる。そんな舞台裏を見るために人が集まっていたらしい。


ひとしきり、華やかであろう舞台を思い浮かべていると、やがて舞台の緞帳が下りるのが見え、舞台裏に顔を出した勘三郎さんが外にいるファンを見つめる。

そして、手を振りながら再び舞台へ消えていった。僕にとっては予期せぬ場面に出くわした幸運に、ピンボケではあるが、このときの画像を保存していたのだ。

中村勘三郎さん死去のニュースに、改めてそのときの状況を思い浮かべながら、華も実もある稀有な才能を持った一人の歌舞伎役者の死を悼み、哀悼の意を表したい。
先日の山梨県の中央自動車道笹子トンネルの天井崩落事故のように、なんの前触れもなく、なんの落ち度もないのに、突然死が訪れる事もある。人生を全うしてから訪れる死は仕方ない。しかし、志半ばで迎える死は無念だろう。
僕より先には逝って欲しくないひとが何人かいる。そのひとりが中村勘三郎さんだった。彼が子供の頃からテレビなどで活躍する姿を見たてきたが、その才能は歌舞伎役者としてだけではなく、様々な分野での卓越した実力と魅力が際立っていた。その中村勘三郎さんの訃報は、驚くとともにショックでもあった。これから歳を重ね、更に円熟していく彼を見たかった。

彼の歌舞伎の舞台を、一度だけ見た事がある。まだ若く中村勘九郎を名乗っていた頃だった。その勘三郎さんが主催する平成中村座は、江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場で、毎年浅草の隅田公園内に設置され、人気を博していた。今年の5月の末、中村座の前を通ると、開演前の中村座の入り口は人の波。

偶々この小屋の裏側を通ると、そこにも人だかりがしていた。何事だろうと、野次馬根性で見ていると、舞台の後ろが開き、客席から見えるスカイツリーを背景に演(だ)し物が演じられるという。

舞台裏からは神輿が担ぎ込まれ、演者の掛け声や、客席からと思われる歓声が聞こえてくる。そんな舞台裏を見るために人が集まっていたらしい。


ひとしきり、華やかであろう舞台を思い浮かべていると、やがて舞台の緞帳が下りるのが見え、舞台裏に顔を出した勘三郎さんが外にいるファンを見つめる。

そして、手を振りながら再び舞台へ消えていった。僕にとっては予期せぬ場面に出くわした幸運に、ピンボケではあるが、このときの画像を保存していたのだ。

中村勘三郎さん死去のニュースに、改めてそのときの状況を思い浮かべながら、華も実もある稀有な才能を持った一人の歌舞伎役者の死を悼み、哀悼の意を表したい。