歩くたんぽぽ

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明るい未来Ⅰ

2019年01月29日 | 空想日記
2003年の黒沢清監督の映画『アカルイミライ』は高校生だった私に強烈な印象を残した。

当時ネットもそこまで普及しておらず田舎者は今よりもちゃんと田舎者で、

そんな田舎の中でもど田舎に属する山の中で育った私にとってあの映画はあまりに眩しかった。

映画に心底共感したのはあれが初めてだったように思う。

共感は映像の中にあって、それは私が触れることのできない世界。

土砂降りの雨の中にいるのに異様に喉が渇く、そんな感じの映画だ。

今でもなぜあの映画のタイトルが『アカルイミライ』なのかはよくわからない。



「明るい未来とは何か」という問いは「暗い未来とは何か」という問いより断然難解だ。

様々な作品媒体で生み出されてきた多種多様な未来像があるけれど、

明るい未来が描かれた作品が少ないという事実にふと気づく。

私の知識不足もあるだろうが、

今頭を捻ってパッと出てくるのは「ドラえもん」の中の22世紀くらいだ。



SF用語でよく使われる(使われた)「サイバーパンク」や「ディストピア」は、

言うまでもなく暗い未来の方である。

「近い将来、数十年先の未来」を表す「近未来」という言葉が、

発言と同時に暗い雰囲気をまとうのは描かれてきた近未来が総じて暗かったからに違いない。

過度な管理社会、人間社会の崩壊、AIの暴走、第三次世界大戦、核戦争等々。

『ターミネーター』『ブレードランナー』などワールドワイドな作品を始めあげたらきりがない。



最近子供にICチップを埋め込むというニュースを見つけた。

注射器で簡単にICチップを埋め込むことができる時代だ。

カウンターカルチャーの一環でそういうことをする人もいるという。

このニュースを見る限りそれがメジャーカルチャーに昇格するのもすぐだろう。

子供を守りたい親の気持ちは子供のいない私にはわからないが、

一生懸命に未来を守ろうとすればするほど、

何か抗いようのないおかしな方向へ向かっていくような気もする。



暗い未来を想像するのは簡単だけど、明るい未来を想像するのは難しい。

現実的な判断か、それとも人間は楽観より悲観しやすい生き物なのか。

「明るい未来」=「幸福な未来」、「暗い未来」=「不幸な未来」と考えてみる。

身の回りのこじんまりとした未来ならいくらでも幸福な世界を想像できるのに、

社会スケールで考えるとどうしてもうまくいかない。

それはきっと不幸は社会で共有できても、

幸福はパーソナルなもので人とは共有できないから。

「幸福」と「不幸」は反義語でも、内包する規模は「不幸」の方が圧倒的に大きいのかもしれない。

それにきっと誰もが自分のいない遠い未来に対し関心はあっても無責任だ。

だから自由にアーティスティックに暗い未来を想像できるし、

映画や小説や漫画やいろんな作品の中でいくらでも創造できる。

暗い舞台の方がドラマチックだし、そこから生まれる問いが重要なのは自明のこととして。



これから無謀にも明るい未来とはどういうものか自由に無責任に想像してみようと思う。

前例が少ないならより考えがいがあるというものだ。

想像する未来は私たちの生きている世界の地続きにある近未来以降。

きっと実現可能な明るい未来だってあるはずだ。

しかし、これ以上書くとべらぼうに長くなるので続きはまた今度にしようと思う。

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