歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

とまります

2016年08月08日 | 空想日記
バスに乗ったことがある人ならば、「とまりますボタン」を知らない人はいないはず。

押せば「次とまります」というアナウンスが鳴り、全ボタンが光るという簡単なシステムだ。

注目されるような話題性を持っているわけでもないし、かつて誰かがアレについて話しているところを見たこともない。

ましてや「あのボタンってさー」と誰かに話しかけようなど考えたこともない。

しかしなぜか昔から私はアレを日常の片隅に放っておくことが出来ない。



子どものころバス通学だったため馴染みも深い。

小学校低学年の頃、男の子たちは一番にボタンを押せたら勝ちというような遊びをしていた。

遊びというより暗黙のステータスのような感じだろうか。

私はそんなことには興味がないというような顔で、誰にも気づかれないように押すのが好きだった。

同時に誰かに押したのを気づかれることを恐れた。

注目されるのが好きじゃなかったのだ。


子どものころアレに悩まされることも何度かあった。

私の降りるバス停は終点だったのでボタンを押す必要がなかった。

それでも同じ村の子たちはおもしろがってボタンを押す。

もし押さなくてもたくさん乗っているから終点で止まってくれる。

問題は終点で降りるのが私ひとりのときで、ボタンを押すべきか否かを真剣に考えたものだった。

運転手と2人の車内、まず運転手は私の存在に気づいているのだろうかという心配からはじまる。

万が一気づいていなければ、ボタンを押さないとバスは村のハズレでUターンし私を乗せたまま市街地へ帰ってしまう。

バス会社の車庫で私に気づいた運転手はきっと相当に動揺することだろう。

そんなのは耐えられない。

だからといってボタンを押すにも私が押したとは思われたくない。

ボタンを押した場合運転手は「あいつが押したな、押さなくても止まるものを」と思うに違いないからだ。

そうやって「とまりますボタン」は幼き頃の自意識の芽生えを育む一助となったようななってないような。



そういうわけで、とにかくそのボタンは私にとって気になる存在なのだ。

現在住宅地に住んでいるため最寄りの駅までバスを利用しなければならない。

幸か不幸か私の降りるバス停は利用者が多く、普段私がボタンを押すことはほとんどない。

しかしちょっと気を抜くと他にいなくて通り過ぎてしまったなんとことも何度かある。

普段直接的なふれ合いがなにのにも関わらず、意識の中から消すと不利益を被る。

この絶妙な関係性の中でちょっとした親しみを感じるのも無理はないだろう。



ちなみにこのボタン、バスのサイズにもよるけれど一般的な路線バスの中では約30個程設置されている(数えた)。

どの場所にいてもボタンが押せるようにという運営サイドの親切心により、とんでもない場所に設置されたボタンはいったいいつ使われるのだろう。

また3箇所ものボタンが押せるラッキー座席があったり、気づかれにくい場所にある隠れボタンがあったりと「とまりますボタン」は奥が深い。



最後に断っておくけれど、私はいつなんどきもボタンについて考えているような「とまりますボタン」オタクではない。

単に今まで一度も外に発信したことのないボタンについての思いを1回だけ思う存分語ってみたかっただけだ。

昨年東急から「東急バス降車ボタンキット」が税込み3500円で発売されたらしい。

商品紹介の「ご自宅でも気軽にバスの降車ボタンの押し放題が楽しめるキットです」というのがなんだか可笑しい。

需要があるのだろうかと疑問だが、口に出さないだけで私のようにそのボタンへの思いを内に秘めている人は結構いるのかもしれない。

ボタンボタンと失礼しました。

そろそろ頭を切り替えます。

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