先週は東スポについて語りましたが、大衆紙・夕刊紙の「タブロイド紙」を題材にした、なかなか良く出来たテレビドラマがありました。1998年の秋にフジテレビで放送されていた『タブロイド』です。制作に夕刊フジ編集部が協力していました。このドラマは脚本が良く、タブロイド紙の本質を言い当てており、大変楽しめました。
大蔵省の記者会見で、予定外の質問をした中央新聞の記者・片山咲は上司に呼び出されて叱られ、結果「夕刊トップ」に出向を命じられドラマは始まります。
部長「記者クラブはな、見識を備えた媒体しか加入出来ないんだ。その辺のゴミ週刊誌やスポーツ新聞は入れない。それなりの常識が求められる。」
デスク「要するに、相手の1番痛いところは聞かない、書かない、つつかないってことだな。」
咲「それって・・・なあなあってやつですか?」
デスク「なあなあじゃない。持ちつ持たれつだ。」
中央新聞の子会社「夕刊トップ」の編集部は飛ばされてきた編集局長をはじめ、契約社員などクセのある者が揃っていた。売り上げが伸びないので、編集経費削減が叫ばれ、部屋も薄汚い。着任早々、咲は風俗ライターのくるみと対決。
咲「売れればいいってもんじゃないでしょ」
くるみ「売れればいいのよ。建前はいらないわ。読者が欲しがる本音の記事を提供する。夕刊トップはタブロイドなんだから。」
桐野編集長「ウチのライバルは缶コーヒーだ。夕刊トップは駅売りだ。一部120円。缶コーヒーと同じ値段だ。」
喉の渇きを持ったサラリーマンの財布のお金を、タブロイドに向けさせることの難しさ。正義を求めている読者には正義を売り、エロを求めている読者にはエロを売る。すごく短絡的で節操がないところは、今日のテレビを始めとする全マスコミにそっくりです。掲載すべき記事とは何か?読者が欲しがる売れるネタか?ジャーナリストとして報道する使命があるネタか?大新聞と違い、売上にシビアなタブロイドには、その葛藤が鮮やかに浮かび上がります。
桐野「取材したいなら、納得するまでやれ、正義と真実のためにと言いたいところだがな、そんな暇はない。夕刊トップの身上は?」
チカ「スピードと本音の記事」
桐野「そう。まずは今起こっている事件。お前が知りたい事件じゃなくて、読者が知りたい事件。」
親会社の中央新聞にいる元上司の石野から、記事の差し替えを求められる場面では、タブロイドへの自嘲と共に誇りを感じる。
桐野「どんな記事を書こうと、どこで寝ようと、あんたに命令される覚えはないね。」
石野「貴様、親会社に泥をかけようってのか」
桐野「誰にも何事にも縛られず、自由な意思を持つ。これ、ジャーナリストの基本。」
石野「夕刊トップがジャーナリストか -笑-」
桐野「ジャーナリストだよ。ゴシップ、風俗、ギャンブルじゃ、右に出るものなし。」
タブロイド紙は、民主主義国家でしかあり得ない物だと、僕は考えます。一種、国が自由であることの象徴とも言えるでしょう。いい加減なスキャンダルや飛ばし記事などを含め、タブロイド紙が元気で闘っているというのは、それを発行出来ている国が、健全だということではないでしょうか?北朝鮮にタブロイド紙は、どう考えてもありません。
銀行がどうしたっていう記事のページの横に、風俗記事があって、財務省の問題を論じている隣に、サラ金の広告があるというのが、民主主義の姿だと言えなくもないと考えます。綺麗ごとのように、大手銀行と手を結んだら「消費者金融」なんて、手のひらを返すように呼ぶマスコミより正直だと思うからです。