青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

ローラ・ボー ~フェアウエイの妖精

2021-01-16 | スポーツの話題

美人ゴルファーと言えば、誰を思い浮かべますか?

僕は ローラ・ボー です!1970年代前半に大ブームでした。彼女は結局ツアーでは優勝していません。2位が10回というのが最高の成績でした。彼女が日本でブームを起こしたのは彼女が17歳の頃からで、可憐で美しく、清楚でした。彼女の水着姿やパンチラのカレンダー、今なら貴重ですね。ゴルフ・ダイジェスト社は、毎年発売した彼女のカレンダーの利益で、自社ビルを建てたと言われたほどでした。

強くてチャーミングなプロが多くなった女子プロ・ゴルフ界。以前ほど「美人ゴルファー」とあえて強調しなくなった昨今です。しかし少し前までは、「美人ゴルファー」という肩書きが1部選手に付いて回っていた時代がありました。その元祖美人女子プロゴルファーが、多分ローラ・ボーだと思います。日本でのプレーは1973~81年頃で、春に開催のワールドレディスや、秋開催の東海クラシックに招待されて数回出場しています。

彼女の人気は大変なものでした。当時のゴルフ・ダイジェストなどのゴルフ雑誌には、必ず彼女のカレンダーや時計の広告が掲載されていて、それは売れたと聞いています。僕が見ても綺麗でした。本当に可愛く、綺麗な人だと思いました。体つきも小さくフェアウェイの妖精というニックネームがピッタリでした。

 

1955年生まれ。彼女もタイガー・ウッズと同じで、いろいろな人種の血が混じっています。アメリカ先住民であるスー族、白人、スウェーデン人。父親は、オリンピックの近代5種の選手で、母親は、元ミス・アイオアだった。彼女は4~5歳の頃からゴルフを始めて、年齢別大会で優勝したりしていました。当時、少し年上にベン・クレンショーやトム・カイトたちがいて、彼らは、ローラのお兄さんの友人でした。ローラ・ボーは16歳で全米女子アマで優勝し、鳴り物入りでプロ入りしたのですが、優勝は出来ませんでした。

日本ではレナウンのCMで、アーノルド・パーマーとも共演し、実際にパーマーは彼女にアドバイスを与えています。80年代後半に彼女がアルコール依存症に苦しみ自殺を考えた時も、パーマーは力になっています。思えば彼女のプレッシャーは優勝に対するものだけではなかったのでしょう。ひと昔前のゴルフ界で言えば、石川遼選手のようなもの。ローラ・ボーと一緒の組み合わせになった他のプレーヤーは、ローラ目当ての記者やカメラマン、そして多くのギャラリーにかなり煩わされたことだと思います。いくら難関を突破してきているプロゴルファーと言えども、自分の存在が邪魔に思えてしまうこともある。ローラが出場した大会の盛り上がりの陰では、いろいろな犠牲者が出たことでしょう。



プレー中のいわゆるパンチラが、当時の若者や中年ゴルファーにインパクトを与えもしました。いまでは信じられない人も多いだろうと思いますが、日本でローラ・ボーが出場したトーナメントで男のギャラリーたちの視線は、どうしてもミニスカートに行ってしまい、カメラマンたちはローアングルから構えるという有り様でした。どこが「ゴルフは紳士のスポーツ」かと言いたくなるくらい、ファンのマナーは最低だったのです。

ではここでお宝をお見せしますと・・・1973年10月に産報発行から刊行された「アサヒゴルフ」の増刊号、ローラ・ボーの写真集です。こんな1冊が発売されていたのです。これを知っている人は、かなり以前からのゴルフ・ファンの方くらいでしょうね。

僕の友人のアメリカ人に、リー・トレビノ、グレッグ・ノーマンらメジャートーナメント・チャンピオンのキャディも務め、日本の岡本綾子のキャディも務めた事がある人物がいますが、彼に貰ったのが下記のもの。

野球カードならぬゴルフカードのローラ。

彼女がプロ・デビューして間も無い頃のゴルフ誌。

彼女のサイン入りポートレートです。

ローラ・ボーのようなアイドル、タイガー・ウッズのような若きスーパースターが次々と輩出されない限り、日本でのかつてのようなゴルフ・ブームはもう来ないと思います。ゴルフという素晴らしいスポーツが、かつてのボウリングのように消えて行かないように、僕は心から願っています。



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