青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

大阪 難波・ロケット広場

2021-02-23 | 昭和・懐かしい大阪の風景

ナンバのロケット広場を覚えていますか?北摂に暮らした人には馴染みがないかも知れませんが、ミナミの待ち合わせ場所として有名でした。



僕も難波での待ち合わせ場所に、ここを使っていました。大阪府立体育会館でのプロレス観戦の際や、南海ホークスの試合観戦の時には特に。ビリー・ジョエル、エリック・クラプトン、ジョン・デンバーのコンサートが、鉄骨剥き出しの天井の旧・大阪府立体育会館で開催された時も、ここで友人と待ち合わせをしました。

「ロケット広場って、変な名前やな~。ロケットでも置いているの?」


「そう。」

え?あっさり「そう」と言われて「?」のまま、初めてここに行った時は驚くやら、馬鹿馬鹿しさに笑ってしまいました。本当にロケットがあったからです。



そもそも防災上の問題から、高島屋となんばCITYの間を1,000平方メートル空けるように、国が指導したことから、その当時の宇宙ブームに乗って、1978年(昭和53年)にロケットを設置しました。ロケットは、1977年(昭和52年)に日本初の静止衛星「きく2号」を打ち上げた「N-Iロケット」の1:1模型(約33m)。何とN-Iのメーカーである三菱重工業が製作したもので、地下1階から大空に向けてそそり立っていました。

2000年頃を境に、ポケットベルや携帯電話の普及などで待ち合わせの利用者が徐々に減少。所有者の南海電鉄は、2007年8月に「ロケット」を撤去し、「ロケット広場」の名称を「なんばガレリア」と変更しました。現在は、難波駅の1階と3階を結ぶ、高さ30メートル、広さ1,200平方メートルの明るく開放的な吹き抜け空間となりました。

撤去の日の写真

撤去後の現在。

こんな広場があったとは、関西人以外の人々や、今の若者には信じられないかも知れません。


豊中 新開地デパートの終焉

2021-02-22 | 昭和・懐かしい北摂の風景

阪急宝塚線・豊中駅前「新開地デパート」の、おそらく「最後」となる発掘写真です。撮影時期は2006年。10年一昔と言うけれど、もう15年も前なんですね。今はこのビルも綺麗に改築されています。

画面中央「2階入口」と書かれた所を入ると、右手に1年ほど前に、セルシー閉館と同時に千里中央で店じまいした「交声堂」の豊中本店があり、その向かいは喫茶店でした。この写真でもその名残が見て取れます。今は歩道橋の途中から、このビルに入ることは出来ません。

人工広場側から歩いて来ると、70年代には、下の写真のような風景を見ることが出来ました。(1975年撮影)



下の写真は、ほぼ同じ位置から撮影したものです。

1番上は1977年(昭和52年)、中段は90年代のもの、そして下段は現在です。

場所は、現在は駅前ビルですが、その前は古い雑居ビルでした。それを取り壊して現在のビルを建設するまでの間、有料駐車場として使っていたのが中断の写真で分かります。しかもこの写真が物語ってくれていますが、新開地デパートは1階と2階で、3階より上は「ニチイ」だったことも、ビルの看板から分かります。

街中で昔の写真を頼りにして現在の位置を探す場合、写真真ん中に見えるように「質屋」の看板を頼りにすることが僕は多いです。大抵の駅前には、質屋の看板を見ることが出来ますから。そう考えると、僕は1度もお世話になったことがありませんが、質屋というのは息の長い商売だと思います。


あいうえおブック

2021-02-21 | こんな「モノ」ありました!

僕が小さな頃、近所の友達はみんな2年保育に行っていました。幼稚園に行っていない僕は、朝から幼稚園に行った友達が帰ってくるのが待ち遠しくて仕方がなかった。その間、外に出るのが恥ずかしいと思った頃もありました。「どうしたの?幼稚園に行かないの?」と、近所の人に言われることがあるからです。そんな時、訪問販売の人が我が家にやって来ました。「あいうえおブック」というひらかな、カタカナの本を販売に来たのです。

あいうえおブックは、世界文化社という会社の本でした。昭和40年発行で、全23巻。

定価は1冊320円でした。

少年マガジンほどの大きの白いハードカバーの本で、定期的に自宅に送って来ました。日本の民話、海外の童話のダイジェストや、いろんな内容が掲載されており、折り紙の折り方、紙飛行機の作り方も載っていました。オールカラーのその本を見て、自分から「買って!」と母親に頼んだことを今でも覚えています。母親は父親に相談もせず即決で申込をしてくれ、毎号本が届くたびに、「あ」「い」「う」という基本を教えてくれました。全部で20冊以上あったと思います。おそらく当時にしたら結構な値段の本だったのではないでしょうか。

これで文字を覚えた僕に母親が次にくれたものは、「少年マガジン」と「少年サンデー」。当時、母親は洋裁でオーダーメイドの女性服を縫っていました。そのお店「いづみや」という大阪は豊中市・服部にあったお店から仕事をもらって、自宅で縫って納品していたのですが、このお店のお姉さん、お兄さんが読み終えた週刊誌をもらって来てくれたのです。「あしたのジョー」などは連載開始からリアルタイムで読んでいました。漫画の本には漢字に「ふりかな」があるので、幼稚園世代の僕にも読めるわけです。そうやってマガジン、サンデーを制覇した(笑)僕は、次に図書館に通うようになりました。そこで「なぜ?なに?」の科学本?を読み、偉人伝を片っ端から読みました。この頃には大抵の漢字も読めるようになって行きました。

自慢になりますが小学校に入った時には、勿論普通の子供のようにウルトラマンの怪獣図鑑も宝物でしたが、大人が読む文庫本で、新潮文庫の「シャーロック・ホームズ」も読んでいました。もし母親が、「あいうえおブック」を買うことを、ためらったり、父親に相談して「まだ早い」なんて言われて買ってくれていなかったら・・僕の人生は変わっていたと思います。文字を読めるようになり、友達が幼稚園に行っている間、時間のあった僕はいろんなことに興味を持ち、知識を得て行きました。最初のきっかけは母親でしたが、その後は子供の好奇心です。中学校時代のIQは140でした。

もし母親が早い段階で文字を教えてくれていなかったら・・・教育、そして自分で考え行動するということを子供に与えることは大切だと思います。


エキスポランド ~無くなるとは夢にも思わなかった

2021-02-20 | 昭和・懐かしい北摂の風景

アラカンの僕の友人や後輩は、万博の記憶が無くても、エキスポランドはしっかり覚えています。宝塚ファミリー・ランドや東条湖ランド、枚方パークを記憶に刻んでいる人も多いと思いますが、エキスポランドを覚えていない、現在の働き盛りの年代の人はいないと思います。



上の写真のように、大きなプールさえ平成の時代には作られていました。ダイダラザウルス、4種類5コースのジェットコースターが看板の遊園地。

万博の遺産である展望台「エキスポタワー」も残っていました。

その後も「大迷路」や「ロデオショー」等の期間限定のイベントを取り入れたり、エキスポの閉園前にはプールもオープンしていました。夏の夕方には、涼を求めて足を運んだものでした。

2007年(平成19年)にジェットコースター「風神雷神II」の死亡事故によって、残念ながら閉園となりましたが、現在は水族館や、シネコン、商業施設等がある「EXPOCITY」として復活しています。今は、エキスポタワーも取り壊され、大阪万博を偲ぶものは「太陽の塔」だけになってしまいました。

エキスポランドの閉園時の記事はこちらのリンクからどうぞ。


旧・豊中市民病院

2021-02-19 | 昭和・懐かしい北摂の風景

現在の市立豊中病院は、1997年に豊中市柴原町に完成しました。

移転前は名称も「豊中市民病院」で、その影響で僕は今でも現在の市立豊中病院を、豊中市民病院と呼んでいます。そう言っても、タクシーの運転手さんにも通用しますし。(笑)



旧市民病院は、豊中駅と岡町駅の中ほどの地点の「岡上の町」にありました。1954年に開設し、僕も子供の時、救急で何度か親に連れて行ってもらったことがあります。夜中に広くて暗い病院は怖かった。床に引かれた数色の線と、誰もいない薬剤窓口前の待合室は今でも絵に描けるくらい記憶に残っています。市民病院は、多くの人を助け、1997年に現在の場所に移転しました。

そんな思い出の豊中市民病院は、写真の第一生命のビルの左の、白い建物です。懐かしいと眺めてくれる読者の方がいてくれたら嬉しいです。写真は1982年のものです。

昔の市民病院に関する大きな思い出が2つ。

1つは、僕が柔道部の合宿で1週間留守にしている間に、親父が盲腸で入院。僕が帰宅したときは手術も終わり退院していたので、「親が入院しているのに、お前は1度も見舞いに来なかった」と言われたこと。(笑)

2つ目は、僕は大阪府警の試験に合格したのですが、その受験の際、健康診断を受けに行ったのがここ。普通に健康診断と思って出掛けたら・・検査項目が・・まるで映画で見る徴兵検査。お尻もあそこもしっかり見せなくてはならなかった!しかも若い女医さん。

恥ずかしかった・・・