皆さんがこの物騒な世の中、夜遅く帰宅している時に、目の前に刃物を持った人が現れたらどうしますか?何と叫びますか?
“助けて!”
そう叫んだ人は、まず助かりません。死体となって発見され、翌日のワイドショーで近所に住む人の、「夜中に何か声が聞こえました」というコメントが流れるだけです。
学問としての英語を教える所では「助けて!」と叫びなさいと教えます。気の利いたところなら防犯ブザーを持ちなさいと教えます。あなたは防犯ブザーをいつも持っていますか?多くの人は持っていません。だから僕はこういう時の、コミュニケーションの取り方を考えてそれを教えます。常にコミュニケーションの取り方を考えて実践して行きます。
僕は「火事だ!」と叫べと教えています。
「助けて」・・・何人の人が自分には関係ない、関わりたくないと考えるでしょうか?今の季節のように寒い夜、誰が窓を開けて外を見てくれるでしょうか?怖いから知らん顔をしてしまう人が多いのは、悲しいけれど事実です。だから自分の声が他人に届かない。コミュニケーションを「助けて!」では取れないのです。
ところが「火事だ!」は、違います!
この言葉が聞こえたら、無視していたら自分の家も燃えてしまいます。自分も焼け死ぬかも知れません。誰もが「どこが火事だ!」と窓を開けて外を見ます。そこで襲われている人の姿を見たら、110番してくれる人がいるはずです。誰かが警察を呼んでくれます。窓を開けて自分の状況を知ってもらい、助けてもらって生き延びるには、「助けて」ではなく「火事だ!」と叫ぶ。これがコミュニケーションです。
「ノストラダムスの大予言」を書いた五島勉氏は、昨年6月16日にお亡くなりになっていました。享年90歳。
1973年11月に発売された著書は、250万部を超える空前のベストセラーとなり、五島氏は、その後も続編を何冊も出されました。当時の印税としては、物凄い金額だっただろうと思うし、ああいう本を世間に仕掛け、あれだけのブームを起こしたのは凄腕だったと思います。
74年には映画化され、何と文部省推薦作品だったんです!(笑)ところが今では「封印作品」となり、勿論ソフト化されていません。僕はこの作品を映画館で観ているのですが、放射能やいろいろとヤバイものを扱っていて、その処置も仕方がないのだろうと思います。所詮日本には表現の自由とか、そういう意識はまだまだ低いと言うか、お上が好きなように設定しているということが良く分かります。
最近では少数派の意見ばかりを尊重し、調和という名の下に、何でもあり・・・。年寄だけが仲間外れという感が無きにしも非ずと、個人的には思ってしまいます。
小学生の時、この本を読みましたが、本当に「この世が、僕がアラフォーの時には終わるんだ・・」と、怖かったのを今でも覚えています。リアルタイムでこの本を読まれた方、あなたは読んだ時にどう感じましたか?僕は今でもこの本を残しています。(笑)
懐かしい映画館。阪急電車・宝塚線・池田駅前のサン・シティー。今もお店がどんどん閉店したり、逆に3階には池田市民図書館が五月山から移転して来たり。かつての“億ション”の地下から3階までは、出入りも激しく閑古鳥が泣きながらも生き残っています。
このサン・シティの1階には、かつて「池田中央シネマ3」という映画館がありました。2008年2月3日に閉館。
現在のサン・シティ内の宝くじ売り場への入り口が、この当時の映画館のロビーに当たります。
僕の子供時代は、宝塚線の北摂界隈では、豊中と岡町の中間にあった「豊中松竹」(1924年~1989年。ゴジラや洋画)「豊中パール」(ポルノ)、克明小学校前の道路を挟んで「岡町東映」(1950年代~1983年。東映まんがまつり、それ以外の期間はポルノ)3軒の映画館が有名でした。でも、僕に子供が生まれ、小さな子供を映画に連れて行くには梅田は遠いし邪魔くさい。豊中・岡町の映画館はとっくに閉館。そこで使ったのが、この池田中央シネマ3でした。
「3」と言うなら「1と2」もあるの?と言われそうですが(笑)、ありました。「1と2」は、線路を挟んで池田・栄町商店街を抜けた場所にあり、2010年5月31日に閉館。現在は大衆演劇場「池田呉服座」となっています。
池田中央シネマ1~3は、いづれも1950年代からあった映画館です。池田は城下町なので芝居小屋が江戸時代から多く、映画館では池田明治座も50年代から70年代までありました。ちなみに石橋にも、「石橋映画劇場」が50年代後半から80年代までありました。
ビデオレンタル店が全滅し、DVDレンタル屋も壊滅し、映画のネット配信全盛時代に、映画館はもはや不要なのでしょう。TVでの地上波放送でさえ、映画を観る機会は激減しているのですから。WOWOWの映画放送でさえ、思い立った時に観れないという点で、そろそろお役御免となりそうです。時代の変化に伴う、文化の興亡を感じます。
阪神淡路大震災の関係で1つ書きたい思い出があります。喫茶店ではなく、レストランなのですが、ご存知の方いらっしゃいますか?
神戸にある「ゲイロード」というインド料理のお店です。港・神戸はあの震災で、街並みが変わってしまいました。だから、思い出の場所やお店、消えた所が多過ぎます。
初めてこのお店に行ったのは、1982年の夏でした。ナスターシャ・キンスキー主演の「キャット・ピープル」を観た日の夜。
上の地図の場所、明治生命ビルの地下1階。キャンドルライトが灯る店内は、外国人ばかりで、日本人は僕だけでした。オーダーも英語で言われて、英語で返したら、両サイドの外国人たちから話しかけられ、いろいろ日本について下手な英語で説明した会話が楽しかったの覚えています。
その後も何度かここに行きましたが、車でドライブが出来るようになって以降は、ポートアイランド内のダイエーの敷地の一角に、ポーアイ店が出来たので、ドライブがてら、こっちに行くようになりました。
結婚~子供が生まれると共に疎遠になり、あの大震災。お店は両方とも震災で無くなりました。
それから何年も経って2000年代に入ってから、中山手通の関帝廟(三国志の関羽を祀っている場所)近くのビルの4階で、営業を開始しているのを知り、何度か足を運びましたが、ここも閉店。その後僕は10年ほど関東に居を移して働きました。東日本大震災、横浜事変後、大阪に戻り自分で会社をスタートさせた時、このお店が神戸市立博物館の正面にあるビルの地下で再開していたのを知り、再びお店に再会。懐かしい味を楽しみました。
今では垂水にもお店があるのですが、最近は行っていません。僕の胃が老化してきたのか(笑)スパイスでお腹が痛くなったのです。その時たまたまだったのかも知れませんが、これまでにそんなことは無かったので、無理は止めようと決意しました。当初は異国情緒あふれ、外国人が多く、まるで香港のお店にいるような気分がしたものですが、最後の方では日本人の家族連れが普通に来るような雰囲気のお店になってしまい、がっかり。
僕と付き合いの深い友人は、ここに誘われた人もいると思います。また素敵な女性をエスコートするお店でもありました。(笑)僕にはいろいろな思い出があり、でも場所が僕の仕事のように転々としたお店。(笑)
メニューは上の写真のコースが最高でした。82年当時、この豪華さが4,500円だったのです。

