青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

杉本傳・伝説の“五輪コーチ”に会いたかった!

2022-02-23 | 昭和・思い出は色褪せない

友人の父親は元・東京大学の原子物理学の教授。40年以上前に何度かお会いし、氏のご自宅での食事にもお招き頂いたことがありますが、温厚なお人柄で楽しくお話をさせて頂きました。その時に僕が柔道をしていたことからの繋がりで、友人の祖父は水泳、祖母は長刀を嗜まれていたとお聞きしました。

あれから40年・・毎日新聞が2014年1月に連載した日本の水泳界の黎明期についての物語の中に、友人の祖父について書かれているのを発見しました。記事の写真を見ると、何か雰囲気が友人によく似ている。

日本初の学校プールを旧制「茨木中学校」に建設、後にターザン俳優として有名になった五輪選手「ジョニー・ワイズミュラー」とも勝負した、クロールで世界への道を開いた人物だったのです。友人のお父さんが自慢話を全くされなかったので、40年もの月日を経てからいろいろなことを知るに至りました。2019年に放送されたNHK大河ドラマ「いだてん」。その中に登場してもおかしくなかった人物。

杉本傳(すぎもと つたえ)

大正-昭和時代の水泳指導者。明治22年10月22日生まれ。44年大阪の茨木中学の体育教師となる。大正5年日本最初の競泳用プールが同校につくられたとき、全生徒皆泳をとなえ、高石勝男らを育てる。13年のパリ大会から連続して3回の五輪で水泳などの監督をつとめた。昭和54年4月7日死去。89歳。

これが日本初の学校プール。失礼ながら、まるで田んぼか釣り堀のように見えます。

川端康成が通っていたことでも知られる、旧制「茨木中学校」は、1895(明治28)年に「大阪府第四尋常中学校」として創立されました。1913(大正2)年に「茨木川」の水を利用した水泳池の工事に着手、1916(大正5)年に日本最初の学校プールが開設されたのです。現在の「大阪府立茨木高等学校」の前身にあたります。

僕が傳氏の孫と友達になる本当に直前に、氏はお亡くなりになっていたので、貴重なお話を直接聞くには遅すぎました。お会いしたかった・・・。いろんなことを取材していると、必ず突き当たるのが、この時間の壁です。

氏の写真をご家族の方から頂きましたが、昔の日本人ばなれした体躯に、何と言ってもイケメンです!

僕が通った高校にはプールが無く、1年生の夏に1回だけ茨木市民プールで水泳の授業がありました。その時に50メートルプールでタイムを取り、泳げない人だけが夏の間この市民プールに通わなくてはいけなかった!そして・・・僕はカナヅチ!

息継ぎ無しで泳げばいいと思っていたら、小中学校の25メートルではなく、50メートル。向こうまで行って1度息を吸うということが出来ない!当時肺活量は4600あったのですが、それでも泳ぎが下手なので速く泳げない。どう考えても1度の息継ぎが必要。

50メートルを泳がないと夏の間中、遠く茨木市民プールに通うことになる。勝負を分けるたった1回の息継ぎに、若干水も飲んでしまったものの、頑張って50メートルを泳ぎ切り、体育教師に「お前、本当は泳げないのでは?」と言われながらも、「何を言ってるんですか?タイムを少しでも良くするために息継ぎしなかったんですよ!」と。(笑)

その後、僕が40歳になった時、子供がプールで泳ぐのを見て、こいつらに出来ることが出来ないなんて、親の沽券にかかわると、僕は泳げるようになりました。杉本傳氏にお会いすることが出来ていたら、こんな話を笑って聞いてくれ、コーチしてくれていたかも知れません。少なくとも、もっと早くに僕は泳ぎを学ぶ気持ちになっていただろうと思うと残念です。


青春時代 ~大学生の将来はどうなる?

2022-02-22 | 昭和・懐かしい北摂の風景

コロナウイルス感染の収束は遠い。子供~学生達の生活は、僕ら大人が過ごした青春時代と比べると、もう壊滅状態です。人格形成をする子供時代も、思春期を過ごす中学~高校時代も、顔を隠し、人と距離を置き、時には在宅学習。友達と触れ合うことが出来ず、人間関係・コミュニケーションの取り方の学習さえ出来ません。

人生で最も大切な大学における4年間。志望校に入る為に受験勉強に励み、その結果手にする2度と帰って来ない貴重な4年間。将来自分がどんな道に進み、どんな人生を送りたいかを模索し、その実現の為に準備をする時間。

学業を修め、部活やサークル活動では心身を鍛え、同級生同士ではなく上下関係を学ぶ。学費あるいは遊興費を稼ぐためであってもアルバイトを通じ、社会人として働くことの片りんを知る。生涯の友人と出逢ったり、異性との交際も経験し、大人への準備をする。旅行、ドライブ、デート、いろんな友人達との交際を通じて、行動範囲を広げ、経験値を上げて行く。海外に活躍の場や時間を得ることも出来る。趣味に没頭することも出来る。

その大学時代の思い出や経験したことが、その先の長い人生の礎となります。

僕の友人達は結婚する時、将来子供たちにパパとママの結婚式を挙げた場所を見せることが出来るようにと、結婚式を有名ホテルで挙げる人が結構いました。その式場、有名ホテルでさえ潰れるのが今の時代です。僕の通った高校も近年移転し、今は全く別の学校になった気分です。友人の大学は有名校でも統廃合によって、もうその場所から消えてしまいました。母校に誰もが思い入れを持っている訳ではないでしょうが、僕には青春の大切な思い出の場所です。

僕が関西大学に入学した当時の、正門付近の光景です。70年代後半の写真です。関大前通りの坂道の桜は寄贈されたもので何本も並んでいたそうですが、この桜が最後の1本でした。桜の左は、長く学生や大学職員に愛された「丸見屋食堂」です。まだまだ学生運動の看板が、正門前に派手に何枚も設置されていました。

こちらは2020年。40年経って、こんなに景色が変わってしまいました。勿論、少子高齢化で学生の数も激減しています。学生時代の思い出は、やはりこのキャンパスの風景、これだけは何年経っても忘れることが出来ません。最初に見た風景は強烈に脳裏に焼き付きます。

校門を潜ると聞こえて来る運動部の練習の声。左手に広がる関大名物のグラウンドには、今は大きな近代的な図書館が建っています。

2015年の春のキャンパス内は桜が咲き誇り、大学近くの一般の方々まで散歩を楽しむほど。そこでクラブやサークルの新入生の勧誘が繰り広げられていました。僕は柔道部で4年間を過ごしましたが、本当に人生の礎となる経験が出来ました。

最近は部活をしない学生が多いようですが、上下関係や社会人としての礼儀、OBから脈々と紡がれている伝統を知ることは、良い意味で素晴らしい経験でした。運動部に噂されるような「可愛がり」・・僕は虐めやシゴキ等と思ったことは1度も無く、文字通り先輩方に可愛がって頂きました。就活の時期になれば今とは違い、OBからお誘いの声を頂いたり、いろんな情報を教えて頂きました。学生と社会人の過渡期をシームレスに繋いで頂き、世の中に出る準備が出来たのは、この時の先輩後輩の関係のおかげです。

僕の大学時代の新入生勧誘の光景は、これ!今と比較すると迫力が違います。(笑)

現在はコロナ禍において、リモート授業が導入されたりいろいろな障害がある中で、例えば寮生活を送っている学生達が、人との固い繋がりを築いているという話を聞きます。人とスマホで繋がったり、会ったことも無い人と繋がるのも意味があるとは思いますが、社会に出れば自分が最も若く周囲は年上ばかりとなりますから、リアルな社会におけるリアルな人間関係を構築することを学べる環境に、自分を置くことは若者にはとても大切だとアドバイスさせて下さい。

僕が最初に見た関大前は、左の白黒写真。これが入試の日です。ヘルメットを被って顔を隠しているのは学生運動家のビラをまいている連中。入試当日の受験生にとっては迷惑この上無かった。右は現在の同じ通りの普段の様子です。時代も違いますが、コロナ禍でこんなに人の動きが無くなりました。

まだまだコロナウイルスの感染は収束しないと考える方が妥当です。そうであれば、我々大人は子供から大学生までにどんな応援をしてあげることが出来るか、それを知恵を絞って考えるべきです。僕は少額ではありますが、母校に寄付をさせて頂いています。間違っても、社会に出て来た若者に、「学生時代に何をしてた?」「学生時代に何を学んだの?」等と言わない配慮は必要です。後進の育成は今後大きな課題になるでしょう。

僕がアルバイトをしていた頃、新社会人になった時は「おい、大学を出てるのにこんな漢字も知らないのか?」「大学を出ているのに、電話の取り方も知らないのか?」「大学を出ているのに口の利き方も知らないのか?」等、高卒叩き上げの先輩から叱責を受けている若者が大勢いました。ああいう虐めに匹敵するようなことは、パワハラになるからしないのではなく、人としてやらないのが当然です。

今、学校と名の付く所に通っている若者には、本当に頑張って欲しいとエールを送らせて頂きます。


西班牙珈琲館伊達 ~阪急17番街

2022-02-21 | 昭和の喫茶店

僕は1990年代には山奥に住んでいました。大阪・梅田に出るのにも、バス・電車の乗り継ぎがあって面倒なので、自動車で遊びに行ったものです。自動車を使うならば距離・時間的にも、京都・河原町に出る方が遥かに早いので、行き慣れた梅田から京都・河原町に買い物や遊ぶ場所を変えたほどでした。

梅田で車を駐車するのに便利だったのは、阪急17番街・5階の駐車場。いつも空いていて、その上場所が梅田のド真ん中なので便利。阪急17番街と言うと、「どこ?」とよく訊かれるのですが、阪急・大阪梅田駅を降りると、紀伊国屋があります。左右にビックマン等のビジョンがある場所です。その前にはヨドバシカメラや御堂筋線に繋がる地下通路がありますが、そこの陰になって1階に喫茶スペースとエレベーター乗り場だけがあるビルの入り口が見えます。

その阪急梅田ターミナルビルの5~6階を占めるセンスあふれたハイファッションの店を集めた一画で、女性に人気があったのが「阪急17番街」でした。

「ルイヴィトン」「サンモトヤマ」等の世界のトップブランドが並んでいましたが、値段の方もハイクラス。5階と6階を繋ぐのに空間を上手く利用していて、映像を映し出したり、バックミュージックを流したりして、当時としてはとても都会的な感覚を演出していた場所です。

現在は「英國屋」という喫茶店になっていますが、ここに2010年代半ばまであったのが、「西班牙珈琲館伊達」(にしはんきばこーひーかんだて)でした。スペインのパティオ風の雰囲気の店内は、昼と夜とでは違う顔を持ったお店でした。

このお店の奥の窓際の席が、僕のお気に入りの場所でした。陽当たりが良くて、いつもポカポカと気持ちが良い。

梅田で珈琲と言えば、どこでも混雑しているのですが、ここは隠れ家的なお店でいつ行っても座ることが出来ました。荷物を多少持っていても、広いスペースでゆったりと休憩することが出来ました。珈琲にはクッキーが付いて来る。独特の味でした。

お店の真ん中のフロアと、外側の窓際とで雰囲気が違い、僕は窓際派。

こちらは夜の店内です。お昼間とは随分雰囲気が違いますが、どちらも居心地が良く、いつ行っても座れる「隠れ家」でした。

いつ行っても利用出来て、雰囲気が良くてつい長居をしてしまう。ゆったりしてて居心地が良い。静かで、話をするにも使い勝手が良くて、子供がいない大人の隠れ家・・・それは混雑していない、つまり儲からないお店ということだったのかも知れません。

梅田での待ち合わせにビックマンの前やグランドビルの前を使ったのは高校時代。社会人になれば、こういうお店での待ち合わせからデートや買い物はスタートするのが楽しかった。気持ちに余裕が持てました。値段を値上げしていても、倍額にしていても、僕はこのお店があれば使い続けていました。こんなに便利な喫茶店はなかなかありません。

良いお店はすぐに無くなってしまいます。だから今も、このお店の後釜になるお店は見つかっていません。「西班牙珈琲館伊達」・・・80年代後半から20数年間使わせて頂きました。よく続いてくれたなと思いますし、良き思い出を作ってくれたことに感謝しています。


正露丸 ~ラッパのマークの見える景色

2022-02-20 | 昭和・懐かしい北摂の風景

北京五輪もやっと終わりました。アスリートには悪いけど、日本の金はいくつだとか国威掲揚の為にスポーツを利用するのは良くないし、中身はほとんどプロ選手が、税金を使って五輪に出場するのも今の時代にそぐわない。スポーツは個人のものとして楽しみ、国際大会に出場するのであれば、個人として出場すれば良い。ほとんど職業のようになっているのに、税金で競技生活を送ることには疑問符が付きます。

東京五輪に続き、北京五輪も後味の悪さが残り過ぎました。ロシアを中心に特に女子フィギュアスケートで問題が起きましたが、アスリートも含め関係者一同の競技への取り組み方が間違っているし、金儲けに走るIOCの不可解な裁定も、五輪の影でのロシアや中国の政治的な動きも全てがうさん臭かった。

話は変わりますが、ラッパのマークで有名な大幸薬品の「正露丸」。日露戦争の間「クレオソート丸」が、当時の流行語でロシアを征伐するという意味で、「征露丸」と名付けられて使われました。これが今日でも使われている訳ですが、1949年に国際信義上「征」の字を使うことには好ましくないとの行政指導があり、現在の「正露丸」と改められました。

写真は昭和50年(1975年)頃の、大阪府吹田市内本町の「高浜橋」です。細い橋脚と太い橋脚を組み合わせて使っているのが特徴です。

橋の向こうに、正露丸の大幸薬品の本社ビルと工場が見えますが、昭和47年に竣工しました。そして本社機能は平成26年に大阪市内に移転。

現在は高浜橋も架け替えられ、馴染みのあるラッパのマークも見ることが出来なくなりました。また、この工場も京都の関西文化学術研究都市への全面移転が検討されているそうです。この現在の景色も、また移り変わるのでしょう。


大阪発:コロナの足音が身近に聞こえる!

2022-02-19 | 今を考える

五輪のような公のイベントでも、判定やドーピングを巡る「闇」がある。ウクライナの緊張状態についても、当事者であるロシアとウクライナよりも、ロシアとアメリカが報道の中心に置かれている。マスコミ報道にも「裏取り」をしていないのか、出来ないのか分からないが、素人がTwitterで自分の意見を流すのと同じような質の記事が見受けられる。

オミクロン株は軽症が多い・・国民は軽症の意味が分かっているのでしょうか?

肺炎がないー軽症
肺炎があるが酸素投与は不要ー中等症1
肺炎があって酸素が必要ー中等症2
ICU管理ー重症(東京は人工呼吸器以上)
 
つまり40℃の発熱があろうと、鼻水だけだろうと、肺炎でなければ軽症です。つまり40℃の発熱が3日続いて、経験したことがない倦怠感を感じて死にそうな思いをしても、肺炎でなければ軽症と言われています。
 
ところで、風邪に似た諸症状や熱があるから、コロナを疑う人が多い❗️ それは間違いです。
 
そういう報道ばかりしているから、そう思ってしまうのですが・・。無症状だったり、それに近い人がいるんだから、熱がなくても安心出来ません。
 
 
病院でこのポスターを見ました。「息苦しさ、強いだるさ」等の「強い症状」のいづれかがあれば、すぐに相談です‼️
 
現在大阪では死者がかつてないほど増えています。勿論簡単には、コロナ陽性であっても入院出来ません。自宅で人知れず亡くなる方が、今後は表面化するでしょう。感染力が強いから、感染者数が増えるのは当然で、感染者数を気にしても仕方がない。そして、感染者が増えれば死者が増えるのも当たり前で、経済を動かす事を考えるのが大切だ???
 
死者が増えているのを気にせずにいられますか?感染者数の1万2万という膨大な数字にも、人は簡単に慣れてしまうようです。
 
みんながマスクを着用し、密を避ける等の感染対策を講じているから、2年連続でインフルエンザが、かつてない水準の低さに抑えられている。なのに、オミクロンは感染者が日々数万人。それだけ強力だというのに、インフルエンザと同じように考える方が間違っています。インフルエンザのワクチン接種なんかしていなくても、例年よりインフルには感染しない。しかし、何度ブースター接種してもコロナには感染する
 
マスクだって、大手製造企業に気を使わず、「不織布マスクを着用しよう!」(使えない人を除く)という対策さえ、政府は本気でアナウンスしません。ウレタンマスクは役に立たないのに、それでウロウロしてたら感染拡大は当たり前
 
以下は僕と友人達との、この1週間のコロナ関連のSNSでのやり取りです。友人達の仕事はリモート、医師、公務員、教員等で、感染防止に手を抜いているような人物は1人もいません。
 
「親戚が介護施設で危篤となり亡くなった。が、コロナ感染が判明し誰も会えないままお骨となって家族の元に帰って来た。」
 
「私のお袋さんの介護施設の医師から今後の話があり、コロナ禍という事で、もしものことがあった場合の説明であったが本人には会えないという状況が続く…。お袋さんの最後も看取れないのか?私の周りにも、日に日に感染者は増えています。」
 
「友人がエクモのお世話になり、退院出来ましたが、変わり果てた姿になりました。10歳は年老いたようにみえます。本当にコロナが身近になりました。」
 
「訃報です。皆さんもご存知のYさんが、コロナでお亡くなりになりました。まだ50代半ばで、ワクチン2度接種、基礎疾患なしでした。」
 
「四国では、感染者が全く減少する気配がない。今後もさらに気を付けるべきだと気を引き締めています。悲しいけど、“他人を見たらコロナと思え”が身を守ります。」
 
僕は大阪でも北の「北摂地域」に住んでいますが、コロナの足音がヒタヒタと近づいて来るのが聞こえます。国は個々の人々の好意や温情に甘えて国政を司ろうとせず、しっかり感染予防と生活保護、経済活動の舵取りを、明確な方針に基づいて行わなければならない。そして、反社会的な行動を取り、感染を拡大するような行為を取る者は、取り締まる。これが本当に基本だと僕は考えます。
 
医師が診察を行い、看護師が頑張る。教員も警察官も消防士も、その責任感から職務を全うする。全て彼らの善意で成り立っています。彼らが少しづつでも、自分の命を大切にして仕事を休みだした時、政府は何が出来るのですか?人の善意に頼らず、政策で国の機能を維持しないと破綻します!