青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

初めてのアルバイト ~豊中郵便局

2023-06-23 | 昭和・懐かしい北摂の風景

僕は学生時代、現場仕事・土方~洗い屋~家庭教師~レコード屋~レンタルビデオ店~電気屋~ホテルプラザ、勿論1番自給の安かったウエイター等いろいろなアルバイトをしました。皆さんのアルバイト・デビューはどんなアルバイトでしたか?

僕は高校時代の大阪・豊中郵便局での「年賀状配達」のアルバイトが、人生初のアルバイト=お金を自分で初めて稼いだ経験でした。冬休みから郵便配達をして、正月の年賀状配達が本番。そして、冬休みの終わりを以て終了。

その豊中郵便局がここでした。写真は昭和50年頃(1975年頃)のもの。豊中郵便局は昭和31年、国道176号線沿いの岡上の町に移転し、鉄筋2階建ての局舎で営業を開始。同36年には人口増に伴う郵便事業の拡大により、局舎を増築しました。

昭和40年代中期に千里ニュータウン豊中市域を担当する千里郵便局が設置され、更に平成13年には豊中南郵便局が新設し、業務の簡素化・合理化が図られました。

現在の郵便局は、同じ場所に建て替えられたものです。

初めての郵便局のアルバイトの際には「通信の秘密」「あまねく配達」等と最初に教えられてから業務に就きましたが、驚きの連続でした。たいていは自分の家を外した、自分の家の近所というか自分の住む町の配達を担当します。そうすれば土地勘もあるので効率が良いし、高校生バイトでもすぐに戦力になりますから。

1番驚いたのは当時70年代でしたが、いろいろな企業の各種抽選の当選通知の郵便物が多かったこと。ちょっとした品物、映画の試写会の招待ハガキ、いろいろなものがありました。本当に当選者なんているのだろうかと思っていたものに、こんなにも当選している人がいる!と分かったことに驚きました。

そして、ネットも何も無かった時代。同じ学年や少し上の学年にいた嫌な奴、いわゆる学校の嫌われ者、町の不良の家に届く無記名のハガキの多さにも愕然としました。虐められた人たちは決して黙っていなかった。「4ね」等と書かれたハガキが毎日のように送られていました。それを怖く思いながらも、当然の報いを受けているんだと世の中の裏側を知った思いがしました。

でも、今の世の中は虐める側がネットを使い、虐められる側が優位に立てる場所がないから、本当に傷つくだけの人が増える。ネットが必要なのかどうかと考えれば、僕はもう戻れないのは分かっていますが、ネットの無かった時代の方が圧倒的に好きです。世の中のいろんなものがデジタル化され、死ぬまでスマホを使えないと不便を感じる。逆に言うと、スマホにずっとお金を使い続けなければならない社会です。マイナンバーカードだ何だといろんなものが出現し、それで一体誰がどんな恩恵を受けるのか分からないことも起きている。

このブログは趣味で友人たちと昭和を懐かしむ備忘録としてやっています。電子メールもPCで海外の友人たちとの連絡に使います。でも、僕はほとんどの連絡は直接電話で行いますし、デジタルの罠にはまらないように、時代に逆らってアナログに生きようとしています。文明の利器を使うことがあっても、使われないようにしないといけません。例えば歩きスマホ、ながらスマホで命を落としたり、大怪我をする人もこの先増えるでしょう。ネットを使って人を攻撃したことで、情報開示請求されて訴えられ、人生が狂う、あるいは終わる人も出てくるでしょう。

ネットとは、適切な距離感を取り続ける必要があると強く考えます。

 


失われ行くスポーツ施設!~東豊中・打ちっ放し

2023-06-22 | 昭和・懐かしい北摂の風景

スポーツ人気の本当の所はどうなんだろう?僕が学生の頃は、テニスコートは何週間も前から予約しないと取れないし、それでも間に合わないのであちこちの河川敷にテニスコートがどんどん作られて行きました。勿論野球のグランドも朝から草野球チームが試合をしていました。しかし、今ではどこも空いているし、朽ち果てている施設もあります。

ゴルフ場のプレー代金は80~90年代より現在の方が安いし、メンバーしか回れなかったコースが今では誰でも回れるようになっているコースも多い。ゴルフ好きにはたまらない環境になっているのですが、コースに行く以前の問題、練習場所は激減しています。あちらこちらにあった打球場(打ちっぱなし)は、どんどん無くなっています。

若者がどんどん減り、そして現役世代が高齢化してスポーツが離れ、全体として競技人口が減少しているのは明らかで、その上でスポーツで汗を流す若者が激減している。見るスポーツとしてサッカーは人気があるし、格闘技も視聴率を取っているようですが、競技人口という裾野が減ることによって、スポーツ本来の人気は下がっているのではないでしょうか?

ここは大阪・豊中市のロマンチック街道(左右に横切る道路)の野畑小学校の校門辺りから、東・緑丘方面を撮った、昭和50年(1975年)の写真です。奥の坂道の左側は竹林になっていますが、現在は造成されて店舗やマンションになっています。

この坂道を千里中央に向かって上がっていくと、左側に東豊中のゴルフ練習場がありました。広い200ヤードの練習場で、僕が初めて行った練習場でした。今のようにカードを購入してボールを買う方式ではなく、フロントでコインを数枚もらって、そのコインで自販機からボールを得る。そして練習が終わった時に清算するという、今から考えると手間のかかる方式でした。

コインと一緒にもらう下敷きに付けられた紙には、入場料、コイン1枚の値段、ゴルフ税、そういうものが明記されていて、料金の内訳がリアルに分かり、「高いな~」と驚いたものでした。今よりも70~80年代当時の方が、料金は高かった気がします。

高い安いといろいろ言いながらも練習が出来たのは幸せで、今ではここもイオンタウン豊中緑丘となり、かつての面影は全く残っていません。この先ゴルフを練習する場所がどんどん減って、競技人口が減って、ゴルフコースが減って・・・日本ではゴルフは、プロレスのように消えて行く気がします。残念でなりません。

 


言葉には“流行り”がある!

2023-06-20 | 昭和・懐かしい北摂の風景

僕が子供の頃、街の何かに名前を付ける時、なにかと使われたのが「平和」だったと思います。

日本人のネーミングには子供の名前もそうですが、その時その時の流行があります。例えば楽曲の邦題は特にそうで、洋楽の原題をそのままカタカナにしてしまうと「長い曲名」になってしまい、ラジオで聴いて気に入っても、レコード屋さんにそのレコードを買いに行けません。1発で曲名を覚えられないからです。

その上、レコード担当者はレコードを売りたいので、その時のヒット曲にあやかりたいと思う。だから例えば「涙の〇〇」という曲がヒットすると、そこからしばらくは「涙の▲▲▲」という題名が流行する。「悲しみの〇〇」とか「別れの◆◆」とか。時には歌詞の内容と全く関係のない題名だったりすることもありました。(笑)

でも、例えばサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」が、「ブリッジ・オーバー・トラブルド・ウォーター」として日本でシングル盤が発売されていたら、僕は確実に売り上げ枚数は少なかったと思います。レコード屋さんですぐに言えませんから。それに英語が今のように一般的ではない時代でしたし。

この写真は昭和40年(1965年)のもので、大阪の国鉄・吹田駅前にあった「平和の塔」。広島・長崎だけではなく、ハトを使えば誰でも平和を連想した時代がありました。今でも公園のハトを想像すれば平和のシンボルかも知れませんが、実際には害鳥と言われるほどに町を汚す犯人です。日本は「水と平和がタダ」と言われたように、今も平和は憲法9条のおかげだと思っている人が多い。それが大きな間違いであることに気が付いて、本当の平和を維持出来る国になって欲しいと、僕は今も諦めていません。

 


阪神百貨店と阪神タイガースの黄金時代!

2023-06-19 | 昭和・懐かしい大阪の風景

大阪・梅田には今やいろんな百貨店が進出し、覇権を争っていますが、行くのは昔からあった阪急・阪神百貨店に、大丸くらいです。

1976年前後までは、阪急百貨店の5階には書籍のコーナーや、レコード売り場があり、文具もガリ版や謄写版の印刷機まで売っていたので大好きでした。書籍も紀伊国屋とは違い、マイナーな専門書もありましたし、グランドビルにタイガレコードが出来る前は、レコードも阪急百貨店の売り場は充実していました。ところが、ある日を境に書籍・レコードのコーナーが姿を消し、文具もランドセルや地球儀などの子供用品に力を置いてしまったので、阪急百貨店に魅力を感じなくなりました。

そこで浮上したのが阪神百貨店です。阪神百貨店の8階の文具コーナーがとても充実しており、僕はこちらにシフトしました。書道の筆だけでも多くの種類を置いていましたし、高級万年筆は垂涎の的でした。レコードはグランドビルや阪急東通りにある輸入盤店「LPコーナー」や「DUN」を知ってしまい、百貨店では買うことがなくなりました。

阪神百貨店は昭和8年に「阪神マート」として開業。昭和26年に「阪神百貨店」と、その名を改めました。親父によると、梅田阪神ビルは増床工事を進め、「大阪神ビル」と改称し、昭和38年(1963年)6月には当時西日本最大のビルとして完成したのです。その当時の雄姿、昭和39年(1964年)10月の阪神百貨店がこの写真です。

東京五輪も開催されたこの年の大阪の秋は、阪神タイガースがセ・リーグ優勝を果たし、パ・リーグを制した同じ大阪の球団・南海ホークスと日本一を争います。(日本一は南海ホークスに)阪神タイガースのセ・リーグ優勝パレードもありました。

僕もこの頃は子供でしたが、野球をきちんと楽しめるようになり、阪神タイガースのセ・リーグ優勝を目に出来たのは何とこの21年後の1985年後。1番・真弓、3番・バース、4番・掛布、5番・岡田らの強力打線が爆発するまで待ちました。それ以前にも田淵・江夏・藤田平が活躍する時代もありましたが、とにかく毎年球団が揉める!有力選手はチームを出る。江本には「ベンチがアホやから野球ができへん」とまで言われました。田淵も江夏もバースも阪神を去り、江川はジャイアンツと疑惑のトレードと、とにかく優勝以外の話題には事欠きませんでしたね。


日本を消さないために!今の試験制度は不要!

2023-06-18 | 昭和・思い出は色褪せない

人生を振り返った時、もし人生を変えることが出来るなら高校・大学入試をもう1度受けてみたい。あの入試に賭ける1年間の緊張感には、何とも言えない充実の思い出があります。

もう1度勉強をして、京大・阪大・神戸大の3つの大学に挑戦してみたい。そもそも僕はこの3つの大学に本気で挑んだことがありません。初めから私立の大学に自分でお金を払い、4年間を楽しみたいと考えていました。なぜ私立なのかという理由は、受験科目が少ないから。

僕は英語をペラペラになって社会人になりたかった。しかし、授業料の安い国公立大学に入るには、5科目も勉強をしなくてはならなかった。英語を学ぶために、なぜ数学や生物などの理系受験科目の勉強をしないといけないのか分からない。更に言えば文系私学の受験科目でも世界史や日本史、古文・漢文が受験科目にあるのかが今でも謎です。

ハッキリ言えば、古文などは趣味で楽しめばいいもので、学校の教育科目である必要がもはや無い。漢文?中国文化を学ぶ必要など全くない。こういう科目を受験科目にいつまでも置いているのは、こういう科目の中学・高校の先生の仕事を守るためとしか思えないのです。

英語を学ぶ学部なら、受験科目は「英語」と「現代国語」だけでいい。国語を学ぶのに賛成なのは、語学を学ぶためには、日本語は必要だからです。経済学部なら「経済」という試験科目を作るというように、専門知識を学ぶために必要な基礎知識を持っているかどうかだけを問えばよいと考えます。そこで「やっぱり、日本史や世界史、多少は数学などの理系の常識も知っておかないと」と言うなら、「一般教養」という科目にしてしまえば良い。つまり就職試験のような大学入試にすれば良いのです。

僕は受験勉強で学んだ「世界史」や「日本史」「古文」「漢文」の知識を大学時代に使ったことなど全くありません。大学に入ってから不必要なものが、なぜ入試で問われなければならないのか?そんな無駄な時間を過ごすなら、入学前から英語の勉強だけに集中して、入ってからすぐに本格的な学びをスタートしたかったと思います。

日本はいつまで経っても、本当に改革が出来ない国です。「古文」「漢文」などを教える時間があるなら「お金の使い方~投資や金融システム」について教える方が絶対に良い。誰もが医者や研究員にならないのですから、「地学」や「生物」「化学」から選択させるよりも「コンピュータの使い方」「プログラミング」などを選択科目に入れる方が役に立ちます。

時代と言うより、社会システムや構造が変わっているのですから、生きていくのに必要なものが様変わりしています。なのに学校で学ぶことが昔のままというのが間違っています。昭和の時代から高度成長の時代には労働力が必要でしたから、「平等」だの「団結」だのという意識を人に植え付け、大勢が労働力になるようにした方が社会には都合が良かったのでしょう。

でも、これだけ「格差」が広がってくれば、誰しも頑張って良い暮らしをしたいと思う。考える力のある人ならば。そのためには専門分野に強いことの方が絶対に有利です。

なのに、小学校などから社会を知るためと言って、町のいろいろなお店に数日間「職場体験」のようなものをさせて、儲からない仕事を教えても意味が無い。させるなら大企業での体験をさせてあげるべきです。大企業ではなくても、世の中には「それまで知らなかった働き方がある」という事を学ばせるべきです。YouTubeがいつまであるか分かりませんが、ユーチューバー体験でもいいのです。働くことや、お金を稼ぐことに夢を持てればいいのです。

これは昭和54年1月、大阪大学・豊中校舎における共通1次試験の時の朝の様子です。この年から国公立大学共通第一次学力試験が実施されました。そして、平成2年からは「大学入試センター試験」となり、それが今では「大学入学共通テスト」になりました。

ああだこうだと言っても、所詮は似たようなもので、根本的に何を問われるかは大差がありません。もっと抜本的に、日本と日本人が世界の中で生きていくために必要な若者を育てるために、彼らに何が必要かを徹底的に精査し、そのために必要な専門学部を大学に置き、その基礎となる学力を問うものを大学入試試験科目に据えるべきです。

いつまでも「その他大勢」の若者、死んだ魚のような目をした人間、夢を持たない人間を創り出すのは止めて欲しい。人は馬鹿である方が支配しやすいので、支配する側に都合の良い社会がずっと続いて来ましたが、支配する社会の存続が危ぶまれて行く中、そろそろ国を守る方向に舵を切らないと、日本がなくなることになります。