精霊shourou の ホテイアオイに 花乗せて
梅士 Baishi
ヘラブナを釣りに行った池には、ホテイアオイが群生していた。
メナム川にもホテイアオイが漂流していた。
父が作った小さな庭の池にもホテイアオイを浮かべ、その周りをメダ
カたちが泳いでいた。
しかし、その薄紫色の花を見たのは初めてだった。
まるで、精霊舟を浮かべているようである。
去年の今頃、 父は脳梗塞で動けなくなった。
「もう、なごうなかばい」と言っていたが、何を弱気なというくらいにし
か思っていなかった。
今年は、父の初盆である。
長崎では、初盆の家は故人の霊を精霊舟に乗せて、爆竹を大量に
弾かせながら、町を流してゆく。
実に威勢がよいが、最近はその舟も小さくなってきた。
しかし、父を精霊舟に乗せて行こうという気持ちにはなれない。
クリスチャンということもあるが、仏教であっても、浄土真宗のご利益
思想をよしとはしない。
西方浄土という旗を立てて、精霊舟を飾るのであるが、潔しとしない。
それが、長崎の精霊舟の伝統でもあろうが、父の霊を迎え、精霊舟
に乗せて景気良く見栄を張って練り歩くその伝統を自分が担おうとは
思わない。
そもそも、長崎という性格が嫌いなのである。
チャンポンも卓袱料理も生簀料理も大好きである。
丸山の芸者と遊んだことは無いが、長崎の女はお目めパッチリで美
人が多い。
しかし、長崎を好きだという気持ちにはなれない。
ウンモ星人は受け入れてもよいが、長崎星人はどうも虫が好かない
のである。
理由はよくは分からない。
過去世で、キリシタンとして迫害されたかもしれない。
殉教者の一角かもしれない。
もっとも、ものの見える人の話によると、自分は永平寺で一所懸命
掃除をしていた修行僧だったという。
掃除はたしかに、心の掃除でもある。
父の精霊舟は、島原の川に流したいと思う。
その舟を作ろうと思う。
父の兄弟が次々と亡くなった事でもある。
それが、この盆のひそかな祭りである。

【 社会主義の問題点Ⅱ~ スポーツのたとえ】
先進諸国で社会主義の国は日本だけだというが、果たしてそうなの
か。
ヨーロッパ諸国もまた、社会主義化してはいないか。
その典型が、高い税金と高福祉制度である。
これまでは金融で儲かってきたのだろうが、これからはそうは行かな
い。
タックスフリーで世界中の企業に住所地を売り、秘匿主義でマネーロ
ンダリング的資金を集め、金融商品で高利回りの運用をやって儲かっ
たのがこれまでの仕掛けであろう。
いわば拝金主義のシステムで高福祉の資金を補ってきた。
しかし、金融商品のマジックはサブプライムローンの破綻で見破ら
れた。
国民は高い税率と福祉で労働精神を見失いつつある。
すなわち、労働の対価性を無視した、官僚機構による社会主義的
な富の再配分制度である。
その結果、国家の経済はきわめて脆弱であることを露呈したのが今
回のユーロ危機ではなかったか。
唯一社会主義と一線を画しているところは、キリスト教の信仰が伝統
として確立しているところであろう。
政治の世界でも、実質的には信仰がその基礎にあるといってよい。
ところが、その信仰も最近は薄れてきているという。
ヨーロッパ全体が、社会主義に堕しつつある結果、経済の砂漠化と
いうべき貧困化がひろがり、ユーロマジックはさらに借金を膨らませた。

社会主義というのは、国民経済生活の国家管理システムである。
官僚主導の権力と市場経済への重大な干渉と制限によって成り
立つ。
自由を否定し、官僚支配で一元管理するという考え方である。
まさしく、国民のブロイラー化である。
自由とは修行である。
修行であるから、試行錯誤であり、鍛錬があり、尊敬されなければ
食べ物がいただけないという托鉢の試練がある。
しかし、だからこそ悟りの喜びがある。
助け合う喜びがある。
社会主義とは、サッカーにたとえれば、審判が試合進行の交通整理
やファールなどの警察的秩序維持の役割をするだけではなく、積極的
に選手のプレイに干渉して命令したり、得点の再配分をしたりする仕
組みのようなものである。
折角得点しても、相手の得点にされたり、強い選手の行動を規制し
たりされたのでは、試合の面白さは無いし、やっている方もばかばかし
くてやる気を失うであろう。
それが、社会主義なのである。
フィールドの神聖などは認めない。
フィールドの神は、審判たる官僚なのである。
社会主義の悪魔性は、唯物論による仏神の否定(人間も物と同じ)
と、官僚独裁制度のための思想表現の否定ないし大幅な管理制限
(市場原理による公平性の否定)というところにある。
すなわち、サッカーの面白さが失われ、誰もやらなくなるという文化
的衰退を意味している。
だから、国民は生活や企業経営の国家依存を求めないことだ。
社会主義とは、国民の安易な保護依存心という甘えに餌を蒔いて
囲い込むのだ。
人生は安心保障されたのでは意味が無い。
人生は、是、修行なのである。
そうでなければ、やりがいも、学びも、発展する喜びもないではな
いか。
社会主義という、国家任せの人生観を恐れ、恥じるべきである。
同様に、ご利益信仰のような神様任せの人生観も恥じるべきであ
る。
自助努力、そこに生きがいがある。
その良きコーチ、良き監督が宗教指導者である。
自助努力の実力を挙げるのが宗教である。
未来を見通す力、嘘を見抜く力、時に耐える忍耐、努力して止まな
い情熱を教えるのが宗教なのだ。
仏神への尊敬と修行の誓いが信仰である。
宗教をいかがわしいものであるかのように思い、軽口を叩いている
者たちよ、その無知と罪深さを知るべきである。
仏神を否定し、軽蔑する傲慢を恥じるべきである。
心の神秘に目覚めるべきである。
人間の霊性に目覚めるということは、永遠の命であることに気づくと
いうことなのだ。
スポーツの文化性もまた、スポーツの神聖にある。
修行としてのスポーツ観に、教育としてのスポーツの意義がある。
スポーツもまた、神を賛美する芸術でありたいものである。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi
