年越しの 泊まりの枝に ヒヨは鳴き
馬糞 Bafun
年越しの実感もなく、29日を一日、庭に来るめじろや
ヒヨドリを見てすごした。
ミカンをつつき、柿をつつくめじろチュンコたちを見
ているだけで、幸せになる。
ヒヨドリは、縄張り意識の強い鳥らしい。
一見艶のある鳥だが、羽毛を逆立てて悪がきのような
顔をしている。
カリメロとあだ名しているが、それでもかわいい。
今朝は気温3度、食べ物はあるのだろうか。
子供の頃には年末の押し迫った感覚があった。
年末年始といのは、大家族でないと盛り上がらないも
のだ。
本家を中心に一族が集まる正月の情景には憧れを感じ
る。
日本伝統の正月であろうと思う。
本家も分家もなくなったところで、われ一代の家紋で
も考えて元旦を過ごそうか・・・
炭鉱住宅で育った子供のころは、町中が広場に集まっ
て餅つきをした。
正月前のわくわくする行事だった。
重たいもち米を抱えて順番を待ち、出来上がった餅を
みんなで丸めた。
下手な手つきであんこを包んだ。
自分で包んだいびつなあん餅を食べるのが、正月前の
楽しみだった。
餅つきの伝統は、月にも刻まれて飽きることがない。
女系天皇問題以来、伝統の重みと危機に気づかされた。
世界に類例のない日本文明とは、世界で最も古い日本
の伝統の中に読み取る美意識である。
その精神の継承である。
その承継されるべき美くしい「不合理」が、正月の中
にも失われてきていることに我ながら戸惑うのである。
200万部を突破したという藤原正彦氏の「国家の品格」
が押し花状態になっていた。
鳥がねぐらに帰ったころ、一気に完読した。
仏神といい、武士道といい、拝金主義から見れば不合
理な美意識の中にこそ、国家の品格というべき伝統が育
ってきたということであろう。
それはそうだ。この世界を創ったのも、日本に国を有
らしめたのも、神であった。
論理は神を超えることはできない。
論理は、信仰の枝葉であって初めて茂ることができる。
信仰を離れた論理とは、唯物論である。寄る辺ない欲
望の亡霊、すなわち悪魔が苦しむ自己矛盾というべきで
あろう。
崩壊してきた日本の伝統を立て直すには、まず、元旦
に日章旗を立てることだ。
日出る国日本の御旗であり、日本国の道徳入門である。
そもそも、日の丸を揚げずしては、初日の祝福も注が
れないことであろう。
それにしても、国旗を揚げることなど考えもしないマ
ンションは問題である。
住宅の品格として、国旗を美しく立てられる門構えを
設計してこそのマンションと思うが如何。
さらに、野生の動物たちへの思いやりを持ちたいもの
だ。
山鳥が憩える草木を必ず、屋上や壁面ないしベランダ
に植え込めるようにするのだ。
田園は日本の美しい風景である。
しかし、農薬と電線に汚された。
どんなに科学技術が発達しても、自然そのものの価値
に取って代わることはない。
めだかやどじょう、タガメやミズスマシにくすぐられ
て育った米には極上の価値がある。
田園の美しい風景はまさに日本の品格である。
その風景を汚しているのが電線である。
これも、美意識なき合理主義の禍である。
電線は配管にするべきだ。
これを最初に実行したのが、おそらくはハウステンボ
スであろうとおもう。
惜しむらくは、それが、日本伝統の風景ではないとい
うことであった。
だから、現代の出島とするのがよいと提案したのであ
る。
形だけではなく、機能としてもである。
観光とはお国自慢である。国柄につながらなくては珍
しさだけで終わる。
巨費を投じた施設作りである前に、美しい日本の風景
を取り戻す努力にこそ本質的な課題があると思う。
「国家の品格」を200万の国民が読んだ。
200万人の品格があれば、日本は文明を取り返せるに違
いない。
美意識、これが大切である。
馬糞のたれる俳諧も、花鳥風月を食らった印しに如か
ず。
そう自糞する年の暮れである。
身一つに ヒヨドリたちは 冬越さむ
古都の博多の ぬくもりありや
馬糞 Bafun
ぬくもりも 古都の香りも あればこそ
ヒヨドリたちは 君を訪ねむ
白川 馬草 Magusa
新年明けましたら
おめでとうございます。
馬糞 Bafun