すぶんろこ!のジャパニーズドリーム

■『すぶんろこ』とは、コロンブスの逆転の発想

■日本国独立宣言!「日本国憲法」無効宣言、日本軍再構築宣言!

+  美意識こそ!「国家の品格」に共感

2006年12月29日 17時12分23秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 年越しの 泊まりの枝に ヒヨは鳴き

   馬糞 Bafun

 

 

 

 年越しの実感もなく、29日を一日、庭に来るめじろや

ヨドリを見てすごした。

 ミカンをつつき、柿をつつくめじろチュンコたちを見

いるだけで、幸せになる。

 

 ヒヨドリは、縄張り意識の強い鳥らしい。

 一見艶のある鳥だが、羽毛を逆立てて悪がきのような

をしている。

 カリメロとあだ名しているが、それでもかわいい。

 今朝は気温3度、食べ物はあるのだろうか。

 子供の頃には年末の押し迫った感覚があった。

 年末年始といのは、大家族でないと盛り上がらないも

のだ。

 本家を中心に一族が集まる正月の情景には憧れを感じ

る。

 日本伝統の正月であろうと思う。

 本家も分家もなくなったところで、われ一代の家紋で

も考えて元旦を過ごそうか・・・

 

 炭鉱住宅で育った子供のころは、町中が広場に集まっ

て餅つきをした。

 正月前のわくわくする行事だった。

 重たいもち米を抱えて順番を待ち、出来上がった餅を

みんなで丸めた。

 下手な手つきであんこを包んだ。

 自分で包んだいびつなあん餅を食べるのが、正月前の

楽しみだった。

 餅つきの伝統は、月にも刻まれて飽きることがない。

 

 女系天皇問題以来、伝統の重みと危機に気づかされた。

 世界に類例のない日本文明とは、世界で最も古い日本

の伝統の中に読み取る美意識である。

 その精神の継承である。

 

 その承継されるべき美くしい「不合理」が、正月の中

にも失われてきていることに我ながら戸惑うのである。

 

 

 

 

 200万部を突破したという藤原正彦氏の「国家の品格」

が押し花状態になっていた。

 鳥がねぐらに帰ったころ、一気に完読した。

 仏神といい、武士道といい、拝金主義から見れば不合

理な美意識の中にこそ、国家の品格というべき伝統が育

ってきたということであろう。

 

 それはそうだ。この世界を創ったのも、日本に国を有

らしめたのも、神であった。

 論理は神を超えることはできない。

 論理は、信仰の枝葉であって初めて茂ることができる。

 信仰を離れた論理とは、唯物論である。寄る辺ない欲

望の亡霊、すなわち悪魔が苦しむ自己矛盾というべきで

あろう。

 

 崩壊してきた日本の伝統を立て直すには、まず、元旦

に日章旗を立てることだ。

 日出る国日本の御旗であり、日本国の道徳入門である。

 そもそも、日の丸を揚げずしては、初日の祝福も注が

れないことであろう。

 

 それにしても、国旗を揚げることなど考えもしないマ

ンションは問題である。

 住宅の品格として、国旗を美しく立てられる門構えを

設計してこそのマンションと思うが如何。

 

 

 

 

 さらに、野生の動物たちへの思いやりを持ちたいもの

だ。

 山鳥が憩える草木を必ず、屋上や壁面ないしベランダ

に植え込めるようにするのだ。

 

 田園は日本の美しい風景である。

 しかし、農薬と電線に汚された。

 どんなに科学技術が発達しても、自然そのものの価値

に取って代わることはない。

 めだかやどじょう、タガメやミズスマシにくすぐられ

て育った米には極上の価値がある。

 

 田園の美しい風景はまさに日本の品格である。

 その風景を汚しているのが電線である。

 これも、美意識なき合理主義の禍である。

 電線は配管にするべきだ。

 

 これを最初に実行したのが、おそらくはハウステンボ

であろうとおもう。

 惜しむらくは、それが、日本伝統の風景ではないとい

うことであった。

 だから、現代の出島とするのがよいと提案したのであ

る。

 形だけではなく、機能としてもである。

 

 観光とはお国自慢である。国柄につながらなくては珍

しさだけで終わる。

 巨費を投じた施設作りである前に、美しい日本の風景

を取り戻す努力にこそ本質的な課題があると思う。

 

  「国家の品格」を200万の国民が読んだ。

 200万人の品格があれば、日本は文明を取り返せるに違

いない。

 美意識、これが大切である。

 馬糞のたれる俳諧も、花鳥風月を食らった印しに如か

ず。

 そう自糞する年の暮れである。

 


 

  

 身一つに  ヒヨドリたちは  冬越さむ

 古都の博多の  ぬくもりありや

   馬糞 Bafun  

 

                    

  

 

 ぬくもりも  古都の香りも    あればこそ

 ヒヨドリたちは  君を訪ねむ      

   白川 馬草 Magusa

 

 

 

 

 

 


 新年明けましたら

   おめでとうございます。

    馬糞 Bafun

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

+ 金の羽が舞う大銀杏・・・ 企業立学校への差別を是正せよ

2006年12月27日 15時40分57秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

  

  天下晴れ   金の羽舞う   銀杏かな 

   馬糞 Bafun

 

 

 

  銀杏並木の黄金は都会の秋の象徴である。銀杏は遺存

種植物である。

 太古の昔から地上を黄色に染めてきた。

 その銀杏に敷き詰められた歩道を清掃車が来て元のア

スファルトの路面に引き戻す。

 ああ、風流の反対とは、無粋であることよ。

 

 風流な街づくりが21世紀日本の課題のひとつである。

 都市計画もまた、公務員にさせてはならない仕事だ。

 公務員は特権階級である以上大衆化してはならない。

 少数精鋭に戻さなければならない。

  

 

 

【教育改革・民営化への課題】

  教育界には悪魔が潜んでいる。

 魔を引き込んだのは元文部官僚・寺脇 研が主導した

「ゆとり教育」であった。

 その責任は重く、万死に値するであろう。



 彼が教育長を務めた広島県の教育は最悪の事態を迎え

たことは有名な話である。

 資力のある親は、広島県外に出て、子供の学校を選ん

だ。



 悪魔は荒廃を好むものだ。

 その延長線上に自殺問題、いじめ問題、少年非行問題、

ニート問題などが連鎖している。

 ところが、荒廃した教育の補修をすべき教育機関とし

ては、塾以外にはなかった。

 私塾は学校法人以上の学校であろう。

 もうひとつは学校法人形態をとらない人材育成学校で

ある。

 大学全入時代を迎えても、大学に教育回復力はない。

 固定的なカリキュラムと時代遅れの教授が障壁になっ

ているからである。

 所詮、護送船団にイノベーションの力はない。

 

 こうした状況を考えれば、教育改革の主力は、学校法

人ではありえない。

 文部科学省認可の護送船団として保護拘束されている

からである。

 教育の多様化、民営化こそが教育再生の主力である。

 

 そこに注目を集めつつあるのが、企業法人の学校であ

る。
 
 時代のニーズに迅速に対応する実学教育、学生の個性

に対応した多品種少量生産型の教育で、崩壊した教育の

修復とこれからの教育のあり方を開拓している主力であ

り、教育イノベーションの本体となりつつある。



 講師は企業経営者や技術者を多く採用して産学連携の

教育を目指している。

 講師人材は、経済界の中にこそ豊かに育っているのだ。

 カリキュラムは学生を見て創意工夫され、現場の判断

で改訂される。

 学校の資産は、不動産ではなく、講師と学生であると

割り切ることで、学校の本質が見えてくるものである。

 

 その反面、企業法人の学校は、時代が要請する最も学

校らしい教育機関であるにかかわらず、一切の教育への

国家的配慮を受けられない。

 国が、教育機関とは認めないからである。

 教育改革の動きを妨げているのが、文部科学省と学校

法人勢力だということである。


 変化の時代に現れやすい不合理な差別である。

 その中で辛いのが、大学以上に勉強し苦学しているの

に、学生が交通機関の学割を受けられないということだ。

 著作権法上の配慮も受けられない。

 これこそ、不合理な差別であり、憲法14条に違反する

差別に相当するというべきではないか。



 独占交通機関である福岡の西鉄などは特に冷淡である。

 交渉に行った校長に対して、「学割を認めては儲けが

減りますから」と横柄な態度で追い返したという。

 独占企業として、国家に準じた人権保護責任があるは

ずである。

 もちろん、企業の品格も問題だが、市場原理では統制

できない。

 

 このような不合理な差別は撤廃しなければならない。

 国も企業も、人材育成事業に対して、公平で積極的な

協力体制をとってしかるべきである。

 

 そこで提案したいことが二つある。

① 学校教育の概念を緩やかにして、仕事をしながらで

は学べない学校については、通学定期著作権法等での

一定の保護が受けられるように認定すること。

 少なくとも、内閣府認定学校などという差別化をして

いただきたい。

 

② 企業の教育責任という概念を示していただきたい。

 教育改革は外部からする必要がある。

 教育界は旧文部省の体質をはじめとして、間違った習

性に染まってしまっているからである。

 外部の改革勢力に、政府直轄の認可状を与えてほしい

と思う。

 教育改革の問題は多くの課題を抱えているが、以上の

差別問題は早急に対処していただきたい。


 教育の自由化と多様化は、憲法問題であり、教育改革

の蘇生力に欠かせないことだからである。

 

 安部内閣に託したい願いである。

                                 

梅士 Baishi

  

 

 

※(前回提案の教育改革論) 

 

実学教育のための学校法人制度の抜本的見直し

 人材なくしては発展もまたない。教育改革こそはもっ

とも大切な長期戦略といえる。


 ここでは、2点挙げておく。

 ① 大学を研究機関とする位置づけをあらため、教育

機関に特化する。

 教育機関としての機能が著しく低いのは問題であろう。

 教授たちを研究の名の下に甘やかすのは、大学経営を

圧迫するばかりで成果に乏しい。

 研究機関は別の国家プロジェクトとするべきであろう。

 

 ② 学校法人制度を見直して、公立学校以外は、講師

数、採用資格、採用条件、設備基準などを自由化する。


 補助金がなくても経営が成り立つように設立基準を合

理化する必要がある。

 教育の質は、文部科学省基準で確保されるものではな

く、競争の原理にこそ合理性があることはすでに証明さ

れている。


 文部科学省の干渉を大幅に縮小し、義務教育のガイド

ライン程度にしておけばよい。

 教育の公共性、重要性は、文部科学省の認可によって

左右されるものではないということである。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

+ 雀の合唱付き・・・ 公務員の大掃除を  減税による財政再建

2006年12月27日 11時46分44秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国


 第九番  庭のスズメが  合唱し

   馬糞 Bafun

 

 

 

 日本の年末は、ベートーベンの9番合唱付きでめでたく

一年の垢を落とす。

 ベートーベンの深刻も、歓喜の歌によって天国に迎え

られたことであろう。

 

 今年はミカンが高いらしい。

 おすそ分けに柿とミカンを里の鳥たちに提供した。

 すると、毎朝、めじろの二人が飛んできてうれしそう

にさえずってゆく。

 幸せなひと時である。 

 

 

【商売の公益性】

 与えることは与えられることである。

 与えることは欲望ではなく、希望である。

 ビジネスもそのようでなければならない。

 ビジネスは公益活動である。

 私利私欲が商売なのではない。

 

 商売には公益の愛と理論がなければならないと思う。

 そこに、教育の必要がある。

 そのことにもっとも無理解なのが、特権階級である公

務員であろう。

 公務員ほど、公益に反する団体はないともいえるので

ある。

 

  

 

 

【財政再建の課題】

 財政再建の考え方は、無用の公費出費を抑え、税収の

貯蓄と自然増をはかることである。

 大晦日ともなると、国の借金の多さがわがこととして

重くのしかかって感じられるものである。


 

1.公務員リストラ法の制定

 無用で弊害を生む最大の無駄遣いは、公務員給与と報

酬である。

 国も自治体も、稼ぎのない社員を多数抱え、赤字なの

に一流企業並みにボーナスを支払い、給与を支払ってい

るのだから、ひどい話である。

 しかも、その社員は無用な仕事を作り出して公的資源

の活用を妨げる。

 無駄を通り越して悪用になっている。

 

 何度も書いているが、公務員リストラ法の制定が急が

れる。

 その柱は四つある。

 ① 公務の現業化、民営化

 ② 賞与廃止

 ③ 国家収入の1割以内、民間平均給与以内での給与

算定

 ④ 資産売却整理・無用の人員解雇


 雇用を健全化することは急務であろう。

 公務員労働組合などもってのほかである。



2. 福祉から自助への方向転換

 自立、自助努力が人生の基本であり、自由主義の責任

である。

 その余徳をもって、自立できない弱者を救済するとい

う慈悲の政策が福祉の基本精神である。


 然るに、国家の存立を危うくするような借金をしてま

で救済するというのは本末転倒である。

 

 それ以上に福祉を叫ぶ共産党や社民党のやからは、増

税を叫んでいるに等しい。

 他人の懐をあてにしてよこせというのが、彼らの言う

「平等」である。

 倫理道徳なくしては、民主主義の健全はありえない。

 

3. 予算単年制の廃止

  貯金という概念がないのが予算単年制である。

 組んだ予算は、年度内に使い切らなければならない。

 節約してもいけない。

 このような会計制度がいまだに改められていないのは

公務員の浪費癖と権力志向による。


 

4. 行政規模の半減と10%税制による民間活力の推進

 

 世界第二位の経済大国となり、国民の自助努力と独立

が国民の責務ともなった現代に、特権階級である公務員

は要らなくなった。

 現在の半分でも多すぎるほどに公務は無用になってき

た。

 また、国民の自助努力とやる気を育てるには、税金は

収入の10%として等しく徴収してよい。

 

 ただし、税率は10%である。

 商業者に対しては、売り上げの10%をみなし所得と

して課税対象とする。

 これで、利益隠しという無駄な労力も必要なくなる。

 

 

5. 資産売却整理

 相続税の物納という苛酷な取立ての結果、国も自治体

も膨大な遊休資産を持っている。

 その商品化を図って売却することこそ公務であろう。

 最悪の赤字団体であるのだから。

 ついでに公務員も売りに出してはいかがか。

 いかに人材価値が低いかがわかるであろう。

 

 

6. 未来産業開発プロジェクトへの投資

 節約だけでは経済は発展しない。

 未来を開く技術分野への投資は欠かせない。

 国家的なプロジェクトとして民間人を活用しつつ、発

展の基礎を作ることが不可欠であろう。

 

 小型航空機の開発は一部で進んでいるが、国家戦略と

して一層サポートする必要がある。

 財政赤字を解消するための投資である。

7. 実学教育のための学校法人制度の抜本的見直し

 人材なくしては発展もまたない。

 教育改革こそはもっとも大切な長期戦略といえる。

 ここでは、2点挙げておく。

 

 ① 大学を研究機関とする位置づけをあらため、教育

機関に特化する。

 教育機関としての機能が著しく低いのは問題であろう。

 教授たちを研究の名の下に甘やかすのは、大学経営を

圧迫するばかりで成果に乏しい。研究機関は別の国家プ

ロジェクトとするべきであろう。

 

 ② 学校法人制度を見直して、公立学校以外は、講師

数、採用資格、採用条件、設備基準などを自由化する。

 補助金がなくても経営が成り立つように設立基準を合

理化する必要がある。

 教育の質は、文部科学省基準で確保されるものではな

く、競争の原理にこそ合理性があることはすでに証明さ

れている。

 


 文部科学省の干渉を大幅に縮小し、義務教育のガイド

ライン程度にしておけばよい。

 教育の公共性、重要性は、文部科学省の認可によって

左右されるものではないということである。 

 かくして、来年末の九番歓喜の歌の序曲としたい。

 

                       

 Bafun 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

+ 下駄の散歩・・・  《和装ビジネスフォーマルの声かけを 》

2006年12月25日 11時35分09秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 下駄履いて  津屋崎あたり  暮れの月

    馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 春も夏も近づかなかった津屋崎を、久しぶりに歩いた。

 白足袋に桐の下駄、二の字二の字の音を立てて歩くのは、日本人

ならではの楽しみだ。

 

 今年もまた、クリスマスの季節に閑散とした宮地嶽神社に参拝した。

 太い注連縄のクリスマスもよいではないか。

 紫に染まった旅の空に、糸のような月が冴えていた。

 萩原朔太郎の月である。



 因みに、朔太郎の月は青白いが、馬糞の月は金糸である。

 朔太郎の詩は、病人の冴えわたった感性というべきか。

 学生時代の感傷である。

 

 

 猫

 まつくろけの猫が二疋、

 なやましいよるの家根のうへで、

 ぴんとたてた尻尾のさきから、

 糸のやうなみかづきがかすんでゐる。

 

 『おわあ、こんばんは』

 『おわあ、こんばんは』

 『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』

 『おわああ、ここの家の主人は病氣です』



萩原朔太郎 『月に吠える』(大正六年二月)

http://takemoto.picot.ne.jp/tsuki.htm

 

 

 

 

【和装ビジネスフォーマルの提案】

 夏に買った日田杉の下駄が心地よく、手放せなくなった。

 下駄はすぐに割れてしまったので、長崎の桐の下駄に代わった。

 冬場は五枚ハゼの白足袋で下駄を履く。

 混雑する電車の中では草履がよいのだろう。

 革靴では窮屈だ。

 靴下も足首を絞めて不愉快だ。

 

 それなのに、いつの間にか西洋のスタイルが正式になってしまった。

 安部総理推奨のもと、正式の日本スタイルを呼びかけてはいかがか。

 クールビズというラフスタイルも正式だと認知したから実用された。

 革靴が日本の気候に合っていないことは誰もが知っている。

 健康と日本的な美意識の復権のためにも、日本スタイルビジネス

フォーマルを工夫してほしい。

 そのようなコンテストを政府が呼びかけてくれたら、正式になる。

 

 和服業界が苦戦するのも、和服がビジネスフォーマルでないからだ。

 久留米絣も、博多織も、伝統の技術と感性が失われようとしている。

 これでは、九州国が文化の実体を失う。

 

 和服は世界に普及するであろう。

 美しく、快適だからである。

 そこで、和風ビジネスフォーマルコンテストを年に二回ほど各地で

開催してはいかがだろうか。

 

 一言、国会や政府から発言してもらいたい。

 「新しい発想が求められている。ビジネスの場にも和風ビジネスフォー

マルを工夫してもよいと思う」と。

 

 お金のかからない経済活性化政策ともなろう。

 新しい時代の和風を、世界のために再興しようではないか。

 

                        Bafun 

 

 

 糸のような  名月もあり  冬の暮れ  

    馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

+ 冬至の祭り・・・ 愛国心教育  平和的人権論としての愛国心

2006年12月22日 08時20分05秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 


  仕度して  迎えし陽かな  冬至祭


   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 かぼちゃと柚子湯、今日は冬至である。

 年の瀬の底を打って、太陽は日一日と力を増してゆく。

 太陽にぽっと血の気がさしたかのように、今日は小春日和になり

そうだ。

 さりながら、納まりそうにもない仕事を抱えて、世間胸算用よろし

く、つかまりそうな鶏の勢いでバタバタとするのであろうか・・・。

 しかし、陽はまた昇る。

 その太陽にあやかって、再びエネルギーを増してゆきたいものだ。

 日の丸の国、日本である。

 

 

 

 

教育の基本

 教育基本法の改正がなり、「愛国心」という言葉が教育の言葉とし

て復権した。

 当たり前だが、正常化への一歩である。

 国民主権国家として、愛国心を育てることは教育の中心目的であ

る。

 だからこそ、公費で教育を補助する。

 

 もし、そうでないとするなら、公費の無駄遣いとして責任追及され

るべきであろう。

 愛国心を養わないでは、主権国民という概念は成り立たないであ

ろう。

 

 何のために日本という国の国民として生きてゆくというのか。

 獅子身中の虫としてか。

 

 愛国心が戦争ナショナリズムに直結するかのように喧伝するのは

愚かなことである。

 自分の国を守らない国民ほど愚劣なことはない。

 その愚劣が少年非行に現れているではないか。

 彼らにとって、愛国心など無縁のことであろう。

 

 愛国心とは、世の中のために生きようとする志である。

 自己中心を恥と教える、教育の基本ではないか。

 人権という概念を、自己中心権、自己保身権、責任転嫁権、不満権

としてはなるまい。

 

 

人権と国家の関係

 人権とは国民の幸福責任である。

 幸福になる責任である。



 幸福とは何か。

 心豊かに人格が発展することであろう。



 貧富の差が問題なのではない。

 心の貧しさこそが問題なのである。


 お金があっても心が貧しいのでは不幸である。

 心まで貧しくなるような貧乏は不幸である。

 

 そうした不幸を追放するために教育があり、政治があり、経済

ある。



 幸福になるべき自分とは何か。

 自分とは、生かされている自分である。

 すなわち、自分を生かしめている人間関係こそは、幸福の主体で

ある。

 

 すなわち、自己中心ではなく、人を精神的に豊かにすることが、結

局は自分を豊かにすることであり、そこに関係としての「与えること

の幸福」という人権の本質が現れる。


 人権は国家を前提に保障される。

 国家社会が成り立たなければ、戦争になるであろう。

 それが今という時代である。


 だからこそ、愛国心は、平和に暮らすための努力であり、人権の本

といえるのである。

 換言すれば、国家の独立と発展に努力をすることが、人権であり、

主権者としての責任なのである。



 人権の本質は、責任である。

 与える責任、貢献する責任であるということを忘れてはならない。

 

 戦争をしてはいけないという本来の意味は、泥棒をするなというこ

とに他ならない。

 侵略戦争の禁止である。


 さらに、避けがたい防衛戦争をしないですむようにするには、危険

な国家と極力利害関係を持たないようにすることだ。


 友は選ばなければならない。

 だから、チャイナ、コリア、ロシアには近づくなと警告している。

 これほどの平和主義はないであろう。

 

 戦後61年、そろそろ日出ずる国日本は冬至を迎えてよい。
 
 愛国心を否定しては、国際社会で侮られることはあっても、尊敬さ

れることはない。


 さあ、「日向かぼちゃ」をいただき、「大分の柚子」の湯につかって、

国家の発展と調和に貢献できる人生を努力してゆこうではないか!

 「日本の冬至・祭り」の祝辞としたい。

 

                                梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

+ 望年の富士・・・ 非正規雇用の問題点  核兵器全廃を日米で主導せよ

2006年12月15日 10時37分42秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

 

 望年の  雲に座りて  富士の山


   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 「九州の田舎から出てきました~」。

 こう言うと、江戸の人は親切に教えてくれるのだそうだ。

 ばあちゃんが教えてくれた。

 草枕の枕詞というべきか。

 「右も左も分かりましぇん。高田の馬鹿はどこですな・・・」 

 

 草枕を編む暇もなく、花の都東京に飛び立った。

 もちろん、「富士山の見える席ばたのんます」と予約した。

 

 「東京は気温9度、雨と報告されています」というアナウンス。

 (富士は見えぬと申すか・・・)

 しかし、瀬戸内海の島々が美しかった。

 まるで宝箱のようだった。

 水軍の歴史がいっぱいに詰まっているのだろう。

 

 

 


   祝島⇒ http://www.iwaishima.jp/

 

 

 

 そろそろこの一年を振り返らなければならない。

 水仙が香り立ち、梅が鳥を呼んだ。

 満開の桜吹雪が新緑を呼び、やがてせみ時雨に猛暑の太陽が

昇った。

 夏祭りだ花火だとにぎわったことだった。



 それもつかの間、夏の名残の朝顔を点々と追っているうちに紅葉

の季節になり、いちょう並木が黄色く染まった。

  「枯葉」を口ずさみつつ、咲く花もまばらにクリスマスツリーが盛大

に点滅している。

 師走である。

 

 この一年は論点整理の一年だったような気がする。

 論点整理の基準は、物事の本質から発想するということではない

だろうか。

 創造の原点もまた、本質論からの発想である。


 

  経済の本質は、貧困克服の智慧と努力である。

⇒ 経営者の責任もまた、貧困の追放に第一責任がある。



 「ワーキングプア」とは、NHKの社会主義偏向番組での造語である

が、非正規雇用のあり方には、やはり問題があると思う。

 自己保身、ご都合主義の雇用形態だからである。

 

 また、非正規雇用を選ぶ側にも問題がある。

 それは本来、自己派遣会社という個人経営の覚悟を持って、状況

の変化に対応できるさまざまな工夫をしなければならない。

 

 国家もまた、独立して商売する機会を作ってやるべきではないか。

 市場の創設である。



 

  繁栄の本質は、人々の幸福を実現することである。

⇒ 天意あるところに繁栄がある。

 自己中心は悪である。

 企業は利益を追求する前に、天意をこそ追及しなければならない。

 

  仕事の本質は、創造的な人間関係である。 

⇒ どうすれば創造的な人間関係(会社)ができるか、これがマネー

ジメントの課題である。

 創造こそは生きがいというべきである。


 

  人間の本質は人間関係であり、信頼関係である。

⇒ 自己中心は悪である。

 自己中心を排除しなければならない。

 教育はこれを教えなければならない。

 自分とは、自分を有らしめている人間関係に他ならない。

 自分とは何者かを知りたければ、自分がどういう人間関係を結ん

でいるかを反省すればよい。 

 

  個性とは、自助努力と愛の成果である。

⇒ 人は人生の計画を持ちつつも、まっさらになって生まれてくる。

 その個性は、どのような努力をしたか、その成果をどのように人々

 の幸福のために生かしたかによって定まるということである。

 これこそは、教育の本質的な内容というべきであろう。

 

  政治は天命を受けて国を治めることである。

 ⇒ 天命は徳に下る。

 政治の基本はリーダーたちの徳によって国を治めることである。

 治めるとは発展と調和のある国家とすることである。

 徳とは、天命を受ける器である。

 人の支配となるとき、国は乱れる。

 悪口雑言の政治家は、政治の神聖を汚している己の不徳不明を

恥じよ。

 天下を乱すは大罪なり。

 

  国際政治の天命は、核兵器を全廃することにある。

 ⇒ 負の遺産を清算しなければ、新しい繁栄はない。

 国は、徳の政治と徳の教育を競うべきである。

 徳こそが、無限の繁栄を生んでゆく。

                            梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

+ 王女なきハウステンボス・・・  ハウステンボスをタクスフリーの国際都市に

2006年12月09日 08時01分03秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

 王女なき  ハウステンボスの  秋陽かな

 
   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 名もない、芦原のようなところに、突然ヨーロッパ建築の町並み

が現れた。

 びっくりだ。

 壮大な夢であったろう。

 大変な労力と投資の末に現れたヨーロッパ風の景観であった。

 佐世保に近い観光施設「ハウステンボス」である。

 

 心に描いたビジョンが現実となったと言う証明であるが、都市と

は何か、観光とは何かを考えさせる実験でもあった。


 実験は終わったが、学んだのかが問題だ。

 そこに空しさが感じられる。

 

 野村証券グループが再建に乗り出している。

 しかし、現地以外には関心が低い。

 クリスマスシーズンに若者の候補にあがる程度ではないか。


 オランダの文化も歴史もない。

 遺跡でもない。

 イベントなら、テーマが変わらないと、再び行こうとは思わない。

 ディズニーランドほどのイベントでもない。

 わくわくするような目的には該当しないのである。

 

 

 

 

 

 

 日本人は豊かになった。

 本物志向の個性が目覚めている。

 ディズニーと比較し、ヨーロッパの街と比較してしまう。


 どんなにお金をかけても、本物ではないと価値がない。

 日本の鎖国時代は、もはや実感のない昔のことなのである。

 サプライズ企画は一時の客寄せにしかならない。

 何を本質とみてよいのかが分からないままに、夏は花火を上げ、

冬はクリスマスで客寄せをする。

 

 当初の企画は失敗したのである。

 しかし、膨大な投資を無駄にするのでは智慧がない。

 日本にはかつて、もったいないという消費文化があった。

 「ゴミ屋敷」という話題も、もったいない文化の痕跡と言うべきかも

 知れない。

 

 

 そこで、ハウステンボス再生の切り札を提案する。

 もったいないと思っていただかないとできないことである。

 ヨーロッパコピーの街並みであっても、辻褄の合う活用方法がある。


 

 ハウステンボスを現代の出島にするという提案である。

 

 

 即ち、香港のように税金をとらない特例地域に指定し、世界中から

も買い物客が来れるようにするのだ。

 企業が来ても良い。

 銀行が来ても良い。

 

 税金は、いわば国の鎖である。

 そこに出島を作って、ドラえもんのポケットのようにするのだ。

 貿易であるから、アジアの物産もある。

 ただし、チャイナの商品は入れるべきではない。

 入りすぎて困っているのだから。

 

 おまけのアイデア。



 ロミオとジュリエットをはじめ、シェークスピアものを「ハウステンボ

スのロミオとジュリエット」等々、映画制作する。

 ハウステンボスはコピーされた街だが、映画のセットであれば、辻

褄が合う。

 これほどのセットはあるまい。

 世界一である。

 海外での興行を成功させる。

 観光客が来る。

 

 そういう思い切った手法(税制投資)をとる器量が、国や自治体、

関係者にあるかどうか・・・。

                               梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

+ 大雪の水の響き・・・ スポーツ立国論  福岡市役所を人工島へ

2006年12月07日 08時16分40秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

 大雪taisetu の   掬いし水の   響きかな


   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 旧暦11月3日は、二四節季の大雪である。

 顔を洗う水が冷たい。

 雪にはまだ遠いが、博多の街にもクリスマスツリーが飾り山のよう

に人目を引いている。


 いっそのことクリスマスツリーも山笠のように走ると、博多らしくて

よいのではないか。

 

 『博多祇園クリスマス』なんてのができんかいな、と思う。

 日本の神様もクリスマスは楽しみにしていると思うのだ。

 袋を抱えた大黒天がサンタになって、クリスマス山笠で走り回る。

 冬場の山笠として楽しめそうだ。

 

 

 【走らんか!福岡・博多のスポーツ都市戦略】


 発展のためには一芸に秀でる必要がある。

 坂本竜馬も北辰一刀流千葉道場の免許皆伝という一芸によって

世に出る道を拓いたと言える。

 世に認められたのである。

 

 地方都市の発展戦略も同様であろう。

 博多が世に知られているものに博多祇園山笠がある。

 伝統美の走りが魅力である。

 さらに、今年はオリンピック候補地への名乗りで、スポーツ都市福

岡が注目された。

 

 しかし、海外では福岡を知る人はほとんどお目にかかれないという。

 語るべき個性がないと言うことでもある。

 世界に価値ある福岡のまちづくりが、子供を育て、企業を活性化し、

都市の活力を生んでゆく。

 

 

 

 

 

 

 

 福岡に発展の必然性はあるか。

これを発見することこそがカギとなる。



 そこで提案するのが、「走らんか」生涯スポーツ都市戦略である。

 プロスポーツ、スポーツイベント、市民スポーツを身近に楽むこと

ができるという都市計画である。

 

 施設は、都市の中心になければならない。

 シンボルでもあり、高齢者への利便と言う配慮もある。

 そうでなければ、生涯スポーツの文化は普及しない。

 

 スポーツ都市福岡計画の目玉は、天神にある福岡市役所を体育

館に改造し、市役所は人工島に移ってもらうという計画だ。

 人工島問題は、現場で考えてもらうとよい。

 

 また、現状での問題点として、市役所前広場の利用は、「公益法人」

でないと貸し出さないと言う原則があるらしい。


 しかし、主催団体が企業であっても、イベントの趣旨が公益にかう

ことであれば、市は積極的に協力する職責があるはずである。

 こうした、市役所の先例主義、事なかれ主義は改めていただきたい。

 



 発展的改革課題として、新市長に期待する。

                        
                                  梅士 Baishi

 

 

 

 

 

※ オリンピック推進委員会と共にオリンピック招致活動の先頭に立った、

   ヒューマンアカデミー福岡校の学生たち。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

+ 大輪の白菊・・・ 国家改革の課題  マスコミ改革、教育改革、公務員リストラ法

2006年12月05日 23時06分09秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 


 菊白し   日の本にある   花なれば

 
        馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 菊を愛する伝統の国はほかにあるだろうか。

 大輪の菊の花には気高さを感じる。

 菊の紋章は日本の美意識を象徴するものであり、国家を象徴する

ものである。

 日本という国は、美意識によって成り立っていると思うのである。

 

 ところが、現代の日本人にはこの伝統が失われている。

 所かまわず猿ずわりする母子の姿、歩きタバコの女、男以上に女

が堕落した。

 男と対等に競おうとする女を男がかわいいと思うはずもなく、家庭

がうまく調和するはずもない。

 

 男が権威を失い、女が堕落した。

 日本の伝統の美意識が失われたと言うことである。

 

 

【国家改革の課題】

 しかし、日本伝統の美意識を失ったのは、マスコミであり、社会主

義反日の教師たちであり、社会主義官僚たちである。

 日本の伝統美を否定する愚かな少数の輩が、大衆を操作する要

の部分に巣食っているということである。


 
 だから、マスコミ改革、教育改革、行政改革が必要なのである。

 改革とは、悪質な反日の輩を排除すると言うことである。


 

 マスコミ改革とは、マスコミの特権を無力化することである。

 報道規制、マスコミ統制を民主主義の原理で行うことだ。

 表現の自由の理論を正常化しなければならない。

 だから、「表現の責任」という表現が適切であるのだ。


 

 教育改革は、公立学校から反日教師を解雇することである。

 国旗国歌を拝礼しない自由は公務員にあるはずもない。

 日本が嫌いなら、公務員を辞めるべきである。

 「自由」ということを勘違いしてもらっては困る。

 

 反日の自由は妨げられない。

 日本国民であることを止めて北朝鮮に帰化すればよい。

 そこで大いに反日運動をすればよいではないか。

 それが自由の道筋である。

 

 さらに、教員の質が劣悪であるという状況に対しては、教職免許制

そのものを疑うべきであろう。

 免許基準を高くするというのは教育の本質を知らない者の発想、

官僚発想である。

 

 教育人材は、企業にこそある。

 教員採用の自由化こそが改革の方向であろう。

 市場競争原理こそが質を高めるのである。

 文部科学省の権限を大幅に削減することこそが、教育改革の課

題である。

 

 

 

 

 

 

 

 行政改革は、日本国家に対して愛国の宣誓をしない地方公務員、

国家公務員を解雇することである。

 外国人を公務員にするなどとんでもない背信行為であろう。

 

 外国人とは、日本に対して忠誠を誓っていない客人にすぎない。

 なぜ客人に行政権を任せるか。

 ありえないことである。

 

 財政赤字であるということは、役に立たない公務員が多過ぎるとい

うことを意味している。

 民間を基準に給料をもらっているのだから、民間にならってリストラ

をしなければならない。


 公務員解雇法の立法は急務であろう。

 

 また、解雇できない間は、民間委託と同様の原理で独立採算制

の現業業務に配転するべきであろう。

 民間でやれることは多い。


 監査業務のように不正が起こりやすい業務は公務員がしても不

正を行う。


 不正をやりにくくするには複数監査制度、業務の循環制度などの

工夫をすればよい。

 

 公務員は無駄な業務を作り出すものである。

 リストラの基本は、無駄な業務それ自体をリストラすることである。

 公務員を半分にするという業務をこそ作ることだ。

 

 公務員は基本的に社会主義の原理ないし、身分制支配階級とし

ての立場に立つ。特権階級である。

 故に、その数は少数でなければならない。

 それが、競争社会のバランス感覚というものであろう。

 


 世界は、気高い美意識の国日本の復興をこそ求めている。

 風流の文化啓蒙運動をNipponルネッサンスとして歴史に刻みたい

ものである。

                   
                                 梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

+ 博多祇園山笠走る・・・ 都市再生の視点~都市の個性は伝統にあり

2006年12月03日 16時32分17秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 



 山笠の  走りし道に  銀杏舞ひ


   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 博多祇園山笠で賑わった櫛田神社周辺には大きな銀杏の木が

ある。

 師走ともなると、山笠の賑わった道に銀杏が黄金の葉を舞い積もら

せる。

 新緑の勢いがあればこそ、秋の感慨が湧いてくるものだ。

 

 しかし、東京に江戸っ子が少ないように、福岡にも博多っ子は少な

い。

 祭り好きの博多っ子なら、オリンピックに反対したりはしない。

 博多らしいオリンピックにしてやろうと意気込むであろう。

 IOCの言いなりになんてなるものか。

 

 ところが、財政がどうのと損得勘定で反対したよそ者が多かったら

しい。

 実に残念なことであった。

 いったい、この博多と言い、福岡と言う街は、何の町なんだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

【都市再生の視点・・・ 個性は伝統にあり】

 

 博多・福岡の国見をすると、中小のビルがびっしりと建っている。

 だが、一体どういうアイデンティティーを持って集まり住んでいるの

だろうか。

 不思議に思う。

 

 博多は商人の街だった。

 大陸貿易で豊かな街だった。

 しかし、今はすっかり廃れて寺だけが残った。

 後にできた福岡は城下町だが、武家屋敷も城もない。

 伝統を伝えているのは、せいぜい祇園山笠をはじめとするお祭り

だけである。

 

 博多経済の伝統は失われてしまった。

 コンビニエンスのように個性のない地方都市に退化した。

 道路はアスファルト、河の護岸はコンクリート、ビルもコンクリート、

電線が風景を汚し、鎮守の森もとっくに失われた。

 

 国だけではない。

 都市もまた、伝統が失われた都市は、記憶喪失者のように自己認

識ができない不安にさいなまれるのだ。


 町興しというなら、失われた記憶を辿ることだ。

 その伝統を共有できるような工夫をすることだ。

 美しい町並みを作ることだ。

 現代の都市は汚らしい。

 そこに、本当の繁栄はやっては来ないであろう。

 無関係の人が集まった無機質な街にどうして繁栄などがありえよ

うか。


 

 日本正史とともに、郷土史をしっかりと教育すべきである。

 歴史の発展した姿をこそ、取り戻すべきである。

 それが、新しい倫理道徳の基礎ともなってゆくことであろう。

 

                                 梅士 Baishi

 

           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

+  博多の都鳥・・・ 繁栄は天意である。 国づくりの視点

2006年12月01日 20時03分06秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 


 都鳥  博多昔しの  都かな


   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 今年もまた、ユリカモメが出会い橋に戻ってきた。

 いつもは烏が出張っていた橋の欄干に、白く整列する姿を思い描

いていた頃だった。

 いよいよ冬が来る。

 

 鳥の目線で街を見ていると、ああ、水鳥でいてよかったと思ってい

るように見える。



 繁栄は天意にかなった人々の希望と努力の成果である。

 この博多の街に人々が集まってはいるが、果たして、繁栄の夢を

持っているのか、それは天意にかなっているのか、それが問題だ。

 

 この街は何のためにあるのだろうか。

 何故に人が集まっているのだろうかと不思議に思う。

 目的を持って何かを生産しなければ経済は成り立たない。

 

 

 

 

 

 

繁栄の理由


 食うために生きているのが人生ではないように、街にも主目的が

なければならないと思う。

 博多の街が、日本に対して、世界に対して、一体どういう貢献を目

指しているのか。

 それが個性であり、アイデンティティーである。

 それがなければ、繁栄すべき理由がない。

 

 日本の役割は何か、それを考えなければ、国家としての存在価

値がない。

 誇りがない。

 繁栄すべき理由がない。


 目的なくしては国家としての努力もないであろう。

 目先の欲でチャイナに行き、コリアに行き、ロシアに行くのではみっ

ともない。

 

 愛国心が成り立っていなければ、企業もまた拝金主義のおぞまし

い商売をする。

 倫理も道徳も成り立たない。

 人も、町も、企業も、国家も、社会に対する役割意識を持たなけれ

ばならない。

 

 

 

 

 

美しい国日本に求められるのは、美しい使命感である


 それが、神国日本のありようでなければならない。

 そうであってこそ、正しく教育できる。

 国民が恐れることなく理想を求め、挑戦してゆける。

 生き甲斐のある国になる。

 

 日本が61年間の反日意識を克服するには、国家としての徳を高

める努力をするべきである。

 

 国家としての徳とは、国際貢献である。

 核兵器の廃絶、イスラム社会との交流を通しての啓蒙活動。

 アジア社会での教育貢献・・・。

 そのためには、啓蒙すべき思想がなければならない。

 天の理がどこにあるかを真剣に考える必要がある。

 それが、国家としての道徳である。

 

 国家としての使命を見定めて国民が努力してこそ、日本の繁栄が

世界の希望となるであろう。



 繁栄とは、天の理である。

 天意にかなわない希望は実現されない。

 

 

 福岡市もまた、オリンピックに反対するエゴイストたちの街、博多

では終わりたくないものだ。


 
貢献の気概なくして繁栄なし、である。

 

 博多の使命や如何。

 これが、市議会、県議会の議題であって欲しいものである。

 

                                 梅士 Baishi

 

 

 


 http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/b4fd06541ba5fa083a941b13478b1a19

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする