穿ちたる 岩屋の窓の 秋景色
馬糞 Bafun
岩屋はこの世である。
青の洞門のように、
この世の修行の果てに穿った岩屋の窓からは、
この世のものとも思えない美しい秋景色が広がっていることであろう。
プラトンが言うように、この世こそはとらわれの岩屋であろう。
岩屋から放たれた魂は、まさに天国の心地して楽しむであろう。
しかし、地獄の心で生きた人間は、窓が開くことはなく、
暗くて寒い洞窟の地下深くに囚われることとなる。
そんなことがあるものかと小ばかにしながら、
地獄の心のままに生きている人間の何と多いことか。
そこにも、ここにも、あそこにも。
秋の落ち葉であるならば、はかなくも美しいものを、
地獄の魂に、およそ、美しいということはない。
心のそこから、おぞましいのである。
この世の民主主義が単純な多数決であるならば、それは、弱肉強
食の論理であり、私利私欲の駆け引きがまかり通る地獄道である。
多数決主義によって、現世は地獄になる。
「狭き門より入れ。狭き門への道は茨の道であるが、命に至る門で
ある。
これに対して、「滅びに至る門は広く、そこから入る者は多い」。
多数決が亡びにいたることを意味している。
ゴキブリは、三匹以上の多数についてゆく習性があるという。
おとりのゴキブリロボットが人目につく明るい方へ行くと、他のゴキブ
リもついてゆくのだという。
こうしたゴキブリ決議を、民主主義だと思い込んではならない。
多数決とは、最終的には多数が納得して決定できるように、よくよく
議論して決めるということである。
【再び、民主主義の本義について】
意のままにならない議案について審議拒否をし、与党が議決
したら、
強行採決だとけなし、「多数派の横暴だ」とけなしてきたのが民主党
だった。
その舌の根も乾かないうちに、問責決議とかで、参議院で「多数派
の横暴」を実行して見せた。
なぜ、政治をそのように貶めるのか。
なぜ、恥知らずの悪口政治を続けるのか。
それが、政治というものだなどとは言わせない。
賞味期限切れでも企業は倒産する。
それよりも重大な、言動に無責任な政治をする政党であれば、解党
を余儀なくされてしかるべきなのである。
民主主義とは、社会の意思決定のシステムの一つである。
その本質は、多数決にあるのではない。
意思決定の過程に参加し、反対意見を述べ、比較検討し、多数決
に対して、責任を持たせるところに意義がある。
少数意見であっても、そこに理があれば、多数意見も修正を余儀な
くされる。
そうでなければ、国民の支持を失うことになるからである。
また、政党は、国政を請け負う企業のようなものである。
企業は、意思決定のために会議をするが、最終的には、社長が決
断する。
与党が多数派であっても、実質は、首相の決断に決定力があるだ
ろう。
これによって、滅びに至る多数決が是正されているのである。
社長の決定が少数意見であるなら、その責任は重い。
誤った決断であれば、政権交代の責任も負う。
少数野党は少数意見であるが、
そこに正義があれば、次の政権を任されることもある。
即ち、野党の立場は、与党の責任を問う少数意見を提出するとこ
ろにある。
その正義を、国民にアピールするところにある。
それで十分なのだ。
悪口雑言は、政治家の恥と知れ。
しかし、さらに制度的な問題がある。
審議をする意思決定の会議が参議院で242人、衆議院で480人と
いうのは、会議体の姿ではない。
あまりに多すぎる。
代表質問という形式も、会議のディスカッションの姿ではない。
参議院は廃止。
衆議院は、任期8年の専門議員と解散総選挙もある任期4年の選
挙議員それぞれ50人づつ程度にする。
ディスカッションは、代表議員によって行い、決議は、全議員で行う。
会議の模様は議会放送部において生中継し、総集編も放送して国
民に知らしめる。
滅びに至る民主主義は、早急に是正されなければならない。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi
2005年リバイバル(長崎くんち)
http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/0af17a474a089a6f1afc4dc630a358db