蝶の帆に 秋風吹きぬ 花の上
梅士 Baishi
自分が花になってその顔の周りを蝶が楽しそうに舞っていたらくすぐっ
たくて、幸せであろうと思う。
自分の周りを小さな子供たちがじゃれているときも、そんな幸せを感
じることがある。
天使のようだと思う。
昔、お経のテープを聴きながら眠っていた。
あの単純な響きが音楽のようで安らぐのだ。
過去世、永平寺にいたというが、お経を聞きながらよく居眠りしてい
たことであろう。
幸せとはなんだろうか。
結局は安らかな感情ではないのか。
ほっとしたときも、幸せである。
社長として君臨することが幸せということでもあるまい。
しかし、社長にはやりがいがあるであろう。
何を好んで社長業をやるのかと思うほど、苦労の多い立場である。
それは、性格なのではないかと思うこともある。
自分はどうも、やっぱり雲水的である。
その風景に、幸せを感じることが多い。
【 仏陀再誕の日本の名誉とふがいなさ 】
仏陀が日本に下生して54年、活動を開始してからも30年近くたつの
ではないか。
自分がそれと気づいたのは、1987年ころであったか。
怪しい本だと思いつつ、「内村鑑三霊示集」を読んだのがきっかけ
だった。
立派な内容であり、創作で書ける内容ではなかった。
ということは、氏が宣言するように、仏陀にちがいないことになる。
太陽の法、黄金の法、永遠の法、どれを読んでも、今まで疑問だった
ことに答えて余りある壮大な真理が語られていた。
本物であることは間違いないし、ということは、大川隆法こそは、永
遠の仏陀に相違ないのである。
今まで語られることがなかった霊界の真実が語られ、今日では宇
宙人の世界も語られ始めている。
仏陀再誕であるならば、国家を挙げて、国民総出で祝い、帰依する
べき名誉であり、喜びである。
ところが、仏陀よりも偉い人がこの日本には多いらしい。
そんなに難しいことなのか。
立派な人であるならば、早々に帰依すべきことである。
実に、不可解なことである。
この、日本人の感性の鈍さ、素直さの欠如、信仰心の希薄さに、天
上界の神々も怒り、さじを投げているかのような黙示録も出ている。
日本人として、恥ずべきことである。
人間として、その外見として判断してはならない。
その思想に驚嘆し、その働きに奇跡を見るべきなのではないか。
これを知らせないマスコミは罪である。
幸福の科学的テレビ番組であるならば、堅苦しくていやだと思うかも
しれない。
しかし、天使の放送局ができるのであれば、天国のような世界を感じ
ることができる。
斬った張ったの時代劇が見られないのは残念なので、それは別の
テレビにやってもらうとして、本当の時代劇が作れるかもしれないで
はないか。
仏陀再誕の時代にあって、政界も、財界も、マスコミ界も素直にこれ
を受け入れるべきである。
しからざれば、やはり地獄的な危機を避けることはできないであろう。
魔が競いたつ時代でもあるからである。
社会主義の悪魔が、日本を内外から蝕みつつあることを、痛みとして
知らなければなるまい。
仏陀を孤軍奮闘にしてよいはずがない。
日本人よ、罪深き民族となることなかれ。
試練にあって、結束すべし。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi