梅が枝に 独立不羈の 猫を置き
馬糞 Bafun
今日は春分の日、嵐のような風が渦巻く彼岸の仲日である。
・・・世の中は理不尽である。
そんなこと、珍しくもない。
「大人なんだから」とたしなめられるが、理不尽は好かぬ。
こともなげに、理不尽の輩と仲良くしている輩も好かぬ。
「大人なんだから」ということが、偉大なる許しの境地なのか。
愛には発展段階がある。
愛する愛。家族愛であろう。
生かす愛。指導者の愛である。
そして、許しの愛。加害者をも許せる悟りの境地である。
理不尽のままであることを、私は許せない。
理不尽のままに、その者と付き合う周りの者も好かない。
どうやら私は、一匹野良猫の剣客のようである。
罪深い人によって家族を失い、自ら傷つき、
罪深い国家によって国を奪われ、国民が傷ついている。
そうした被害者にとって、何ゆえに己を害する罪人を許せるのか。
その許しにいかなる徳があると言うのか。
それこそは事なかれ主義ではないのか。
それとも、許しとは、裁きを神に委ねるという忍耐か。
神の時間は気が遠くなるほど緩やかである。
たしかに、他人の罪はその他人の物である。
裁くと言うことは、他人の罪を奪うことなのかもしれない。
被害者になる前に、罪を犯させない工夫こそが自分の責任領域
であったかもしれない。
ああ、愚かなるその他人よ、花束に包まれたその罪を抱いて、
立ち去るが良い。
私の許しとは、お前のその罪を奪わなかったという無欲である。
しかし、お前の受けるであろう罰を、私は喜こぶであろう。
お前の不幸は、理にかなった正義だと思うからである。
しかし、その不幸を喜ぶこともまた、他人の幸福を妬む気持ちの
裏返しのようにも思う。
それは、私の美学に反する。
ならば、私とは縁なき衆生である。
視界から消え失せよ。
ところが、そのような理不尽と出会うことが、この世の修行であ
るらしいのだ。
世の理不尽を我が物とするべきではあるまい。
猫のように、独立不羈の高貴を貫きたいものである。
理不尽が黄砂のように飛んでくる。
ああ、理不尽よ。
しかし、その中にこそ、正義のヒントが隠されているのか。
正義とは一体何なのか。
直ちに裁き、制裁することではなさそうである。
最大の裁き、絶対の制裁とは、四知の逸話にヒントがありそうだ。
『天知る、地知る、子知る、われ知る』
魂に刻まれたその罪は、彼岸のかなたまで逃れることを許さな
い業、天の裁きの刻印でもある。
いやしかし、その罪がその者の物であり、その者に課せられた
魂の手かせ、足かせであったとしても、その罪人は何事もないか
のように、この世をのし歩いているのである。
恨み心を抱くなと言っても、裁き心を抱くなと言っても、その呪縛
から逃れるには不足である。
自分を襲い、自国を襲った他者の罪が、自分の、あるいは自分
側の責任というのでなければ、到底、納得はゆくまい。
その唯一の手がかりは、「人は一人では生きていない」という、
忘れがちな事実にある。
その罪人を含めて、欠かすことのできない一部として、自分もま
たその制約と可能性の中に生かされている。
人類の罪の中に自分もまた所属している。
そこに、自己責任としての、他人の罪がある。
他人の罪もまた、自分の中に秘められている罪なのだ。
他人の罪を、関わらざるを得なかったわが存在の罪として自認
できたときに、許しの愛の境地に入ったと言えるのではないか。
彼岸の日にあって、人間の業ともいえる裁き心、恨み心からの
開放を祈って止まない。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi