沢満ちて 半夏や草の 深く生え
梅士 Baishi
ひとしきり鳴いたクマゼミもやんで、暑いけれどいい風が吹い
ている。
コーヒーを飲んだのに、いい気持ちで居眠りしてしまった。
遍路道を歩いていると、ふと気づくことがある。
蝉の声もそうだが、野草にも異文化がある。
撮影も進まないまま一山を越えたところで、おやと目を引く草
がいた。
カラスビシャク(半夏)である。
半夏を見たのは初めてのことだった。
七月のカレンダーには雑節として半夏生というのがあるが、何
のことか不明だった。
本格的な夏の到来を告げる草なのだろうけれど・・・。
里芋科というから大きな植物かと思っていたが、ちいさな野草
だった。
これが、半夏生ずという風景かと思わぬ発見に喜んだ。
吐き気止めに使われる漢方の妙薬になるという。
今度はもっとよく観察してみようと思う。
さて、今日も暑い一日だった。
運動不足の暑さはたまらない。
定番の川沿いを歩いて、図書館に行くことにした。
土手道は、草が茫々として道を塞いでいた。
熱気が土から上がっていた。
花が少なくなったせいか、モンシロチョウもモンキチョウも見か
けない。
わずかに、ベニシジミとムラサキシジミ、そしてアゲハチョウが
見えた。
トンボもまだ少ない。
今年はミシシッピーアカミミガメを見かけなかった。
カワセミもみかけない。
途中でコンクリートの護岸工事をしているせいだろう。
川をコンクリートで固めるのはやめてほしい。
環境左翼ではないが、草が生え、ヘビが住めるような隙間のあ
るセラミックを使ってほしいものだ。
セラミックかできる火山灰はたくさんある。
セラミックには水を浄化するバクテリアも住める。
火山灰で困っている鹿児島や島原は治水工事や道路工事用
の火山灰セラミック産業で大いに助かるはずである。
災い転じて福となすはずである。
そういうことに公金は投資するべきなのだ。
さて、今日は土用、ウナギの日かと思っていたが、ウナギの旗
も見かけなかった。
土用丑の日ではなかったのだった。
まあ、土用辰の日ということで、今夜はハモ料理とあらかぶの
刺身と味噌汁で日の長い夕餉を楽しみたいと思う。
アラカブは昔のように近海では滅多に釣れなくなったおいしい
魚である。
特にアラカブ汁はうまい。
魚屋のおじさんは、出刃包丁一本で手際よく鱗をとり、三枚に
下ろし、残りは味噌汁用にトントンと叩いてくれた。
自分は魚裁きが下手でぐちゃぐちゃになるのだ。
魚料理は板場の修行がいるのである。
贅沢なことに午後二時からお風呂に入った。
水をかぶり、サウナに入る。
そう、水垢離できるようになったのである。
夏場の風呂は、水をかぶって湯につかり、サウナに入るのが
心地よいことに気がついた。
風呂上がり、居眠りしながら「法哲学入門」を読んだ。
東大や京大の法哲学テキストは何が哲学なのかという内容ら
しいのだが、かつて読んだテキストは至ってまじめな哲学概説と
いうべき内容だったと思う。
それからすると、大川総裁の法哲学入門も異色ではある。
しかし、確かに法的正義というのは抽象論では済まない現実問
題に直面してきたといえる。
全体主義の問題。
人権弾圧、粛正があるかどうかが全体主義の見分け方だとい
うのはわかりやすい。
全体主義を嫌うのは、まさにそれだからである。
平和、平和というパチンコ・・・、いや、共産党は、まさに弾圧と
粛正の思想団体である。
権力がないときは平和といい、福祉と言うが、いったん権力を
握ると、弾圧と殺戮の恐怖政治が始まるおそろしい政治思想で
ある。
日本共産党には、その点を問い詰めるべきであろう。
確かに、法哲学の問題として全体主義を巡る問題がある。
もう一つは民主主義と戦争の問題提起がある。
平和主義ほど戦争を引きつけるものはないというパラドクスが、
ポエニ戦争やアメリカの民主党政権下での戦争多発を例に論じ
られていたが、真剣な防衛体制が如何に大事なことであるかが
物語られているのである。
国家と法という関係での法哲学には、全体主義の問題と戦争
の問題があるのは確かである。
防衛問題が緊迫したリアルである現代にあって、それが最大
の法哲学課題ではあろう。
法の課題はそれだけではないが、まずは入門課題として最大
の問題提起であろうと思う。
神戸大学法学部を代表する憲法学者だった浦部法穂の亡国
の憲法論理を見ても、なぜそのように日本国を疎み、滅ぼそうと
するのかという反日左翼への不可解が左翼のおぞましさなので
あろう。
法学は病んでいる。
幸福の科学大学に正しい、信頼すべき法学部を設けてほしい。
法哲学そのものが、日本の法学界に問われているのである。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党