帰化したる ヒメクマツヅラの 真夏かな
梅士 Baishi
ヒメクマツヅラとは、北米原産、戦後、沖縄を占領した
米兵の軍靴についていたのか、定着して野草化した帰化植
物である。
真夏の荒野の風景をなしている。
夏の山道は藪蚊と夏草とクモの巣が険しい。
紫式部も、よう歩かないであろう。
雨上がりの道の、むっとする熱気も不気味である。
そんな池の傍のけもの道を抜けると、人類の街並みに
出くわして、方向感覚を失った。
なんでこんなところに街があるんだ・・・。
突然、アリスになった。
2時間ほど歩き回っただろうか。
結局、大きな池を遠回りに一周したのだった。
池を渡る道沿いに、珍しい草花を見かけた。
それが、ヒメクマツヅラだった。
大雨が嘘のように晴れて青空が宇宙色に見える。
鬼ゆりの 一本立ちぬ 獣道
梅士 Baishi
庭園のゆりは終わったが、迷い込んだ獣道の出口に遅咲
きの鬼ゆりが一本、ひょろっと傾いていた。
野性的である。
アリスが見上げれば、巨大で恐ろしげな花、まさに鬼
花であろう。
ゆり型金星人の原始時代を想像させる花である。
太陽系で創造された最初の人類の姿ではあった。
ボランティアという言葉は大いに誤解されている。
そもそもボランティアは「自由意志で決意する」の意味を
持つラテン語“VOLUN-TAS”が語源である。
本来は、無償の行為や奉仕活動といった意味は含まれてい
ない。
明確な定義はないが、「主体性」、「連帯性」、「無償性」、
「先駆性」という4つの基本精神が一般に掲げられている。
ボランティアの語源からすれば、主体性こそは第一の要素だと
いえる。
強制や義務ではなく、自ら進んで役割を担うことである。
サービス精神というのに近い。
すなわち、社員としての仕事にも、企業活動としての仕事
にも、ボランティア精神は仕事の基本精神であるといえる。
もともと、クリエイティブな仕事とは、主体的な活動から
生まれるものである。
次に、無償性だが、これが過度に強調される傾向がある。
たとえば、ボランティアイベントで販売をしてはいけない
という規制がかかったりする。
果たして、無償ですることに「ボランティア」の本質があ
るのだろうか。
それと区別されることに対価をとるビジネス(商売)があ
るが、それは卑しいことなのか。
キリスト教などではそのように考えられていた。
特に利息をとることは禁止されていたこともある。
そうした歴史的背景があって、ボランティアの無償性が要
求されたのではないか。
スポーツの世界でも、長いことアマチュア規定が残って
いたが、スポーツ競技が貴族文化だったことが背景にある
とも言われる。
日本でも救貧事業は僧侶や皇族の無償奉仕として行われ
ていた。
それは確かに尊いことではあるが、資産にも乏しい一般
人には到底無理な方式である。
そもそも、有償行為を行う企業であっても、その事業の
本質は社会貢献に他ならないし、その対価は提供する価値
のほんの一部にしか過ぎない。
だからこそ、そのもたらす余剰価値で世の中が発展し、
豊かにすることができるのである。
すなわち、企業活動もその大半は無償行為であるといえ
るのである。
対価は、その責任ある社会貢献事業を継続するための兵
站と考えるべきものなのである。
すると、ボランティア活動の無償性は、特別のことを言
っているのではなく、社会貢献活動であることを表現してい
るにすぎないと考えるべきである。
無償であることが、かえって無責任な活動、短期的な活動
で終わるのであれば、かえって迷惑である。
だれもが社会貢献活動ができる工夫として、寄付を募り、
一定の資金提供を得ることはボランティアの本質に反する
ことではないのである。
経済活動とは、資金提供を受けながら継続的に世の中を
豊かにし、貧困を追放する活動を言うのである。
その本質がボランティアにあるということはなんら、矛
盾することではない。
次に、先駆性とは問題意識をもって、何をなすべきかを
考えて行動するというクリエイティブな姿勢を言うと考え
るべきであろう。
社会貢献活動であるところにボランティアの本質がある
と考えると、企業活動同様に、今何が求められているのか
を探知して、人々に貢献できる仕事をすることが求められ
ていると言える。
サービス精神とは、単なる善意ではない。
責任を負った、クリエイティブな仕事である。
このように見てくると、ボランティアとは、企業活動を
含めて、主体的で積極的な貢献という仕事の本質を意味し
ていると言えるのである。
スポーツについても、プロスポーツと区別して報酬を得
ないアマチュアスポーツをスポーツの本質と考えるべきで
はない。
同様に、ボランティアについても、アマチュア的無償性、
素人性にその本質を求めるべきではない。
無償だから尊いのではない。
無償だから仕事の至らなさや無責任が許されるわけでは
ない。
緊急事態に兵站を無視して無償奉仕することはあるし、
それ自体、尊いことではあるが、継続性が維持できなけれ
ば、責任ある貢献は難しい。
以上要するに、単発的な無償奉仕活動をボランティアの
本質と考えるべきではないということである。
一般に見られる市民ボランティア活動は、人助けの喜び
と難しさを体験する教育機会と考えるべきである。
現在、多くのボランティア団体があるが、社会貢献活動
の教育機会を提供しているところに意義があるが、本来の
力強い社会貢献活動の理想ではないのである。
ボランティア活動は、企業活動の原型である。
社会主義的な福祉活動ではない。
自由主義的な社会貢献活動であり、一般の「ボランティ
ア」とは、仕事の本質が社会貢献活動にあるということを
体験させる教育機会であると理解するべきであろう。
しからば、NPO法人の制度もまた、教育という要素を中
心に考え直すべきである。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi