玄海の 背中sena に咲かせし 桜かな
梅士 Baishi
今朝の気温は13℃。
まだ、足元が寒い。
昨日は書店で三冊の本を買った。
「日本人だけが知らない宇宙人とUFOの秘密」
「週刊新潮に巣食う悪魔の研究」
「震災復興への道」
久しぶり、法律書を手に取った。
テキスト選びのためである。
かつて、司法試験受験生の必読の著者が今も分厚い本
に大威張りしていた。
既に死んでいる人もいる。
長いこと迷い込んだ樹海であるが、今はピカソの絵のよ
うに、抽象化して一筆で塗りつぶせば済む世界に見える。
法の精神、クリシュナ的に言えば、正義・公平・子宝とな
るのだろうか。
男女の愛は、隣人愛より難しそうな気がする。
隣人愛は投資、恋愛は借金という感じがする。
恋愛だって投資だというのが子宝論なのだろう。
瓢箪から駒という感じなのだろうか。
散る花を 良しとぞ思う 防人の
潮は叶いぬ 月の出やいざ
梅士 Baishi
【人口勢力の中道論】
人口は一つの国家の勢力指標であることは間違いない
が、全てではない。
人命が軽視される多産国家と言うのは、いわば捨て身
の成長戦略である。
確かに、日本のようなエゴイスティックな未婚、堕胎の自
由による極端な少子傾向は亡国の記しである。
その理由は、貧困ではなく、やはり不自由さにあるとい
えるかもしれない。
過剰な法規制や「倫理」をうっとおしく思うのが結婚・離婚
である。
株式制度が投資の制度として成り立つのは、買う自由の
ほかに、売る自由が保障されているからである。
恋愛が子宝を生む投資制度として成功するためには、
結婚の自由と離婚の自由が保障されるべきだと言うのは、
一理ではないだろうか。
そこは、謙虚に反省する必要がある。
では、インドのように貧乏でも子供は増え育つという自由
放任に戻るべきなのか。
もちろん、インドがフリーセックスというのではないだろう。
男女の愛もまた、愛の本質を持つからである。
子宝と思う情愛が夫婦の絆、家族の絆としてあるはずで
あり、それが家庭の倫理というべきだからである。
愛それ自体に倫理がある。
クリシュナはそこまで倫理を排斥しているわけではなく、
潔癖なほどに禁欲的な仏教倫理を批判したのではないか。
だからこそ、エル・カンターレ大川隆法総裁も苦難の結婚
生活に耐えながらも、五人の子宝に恵まれた。
もっと幸せな結婚であったなら、10人くらいは生まれた
かもしれない。
制度として、亡国の少子化に歯止めをかける方法を考
えるのか、それとも、契約と同じレベルで結婚離婚の自由
を認めるのかという問題と、男女愛の倫理をどう考えるか
と言う問題があるだろう。
規制的に考えるならば、結婚の兵役的義務と堕胎の禁
止を定める一方で、離婚の自由を認め、家庭経済を豊か
にする経済発展の投資戦略をとれば良いとも考えられる。
堕胎を放任する現代状況は法の正義に反するであろう。
離婚の自由を認める一方で、子供を育成するサポート
体制として、いわば、子供公務員として仕事をさせながら
育てると言う制度があっても良い。
昔は子供の頃から丁稚に出て商売人にそだってもいた
のだから。
倫理の問題としては、生めよ増やせよという倫理をいれ
るべきだろう。
家庭破綻の最大原因は、経済問題と浮気問題であろう。
経済をしっかりと繁栄させる投資型経済政策は少子化問
題の倫理的縛りを解く働きがある。
浮気の問題は、源氏物語的おおらかな男女の倫理まで
緩めても良いのではないか。
上流階級的恋愛でもあろうが、あまり縛るべきではない。
マスコミのスキャンダル報道は犯罪として規制するべき
であろう。
何につけても、マスコミが現代の悪魔となっていること
は間違いない。
クリシュナが糾弾する倫理とは、スキャンダル倫理とい
うこともあるだろう。
女は一人の男を愛し、男は縁起よく七人までの女を愛す
るというのがよい。
そうすると、女性争いが熾烈になりそうだが、決定権を
女が持てばよいではないか。
もてない男はもてたくないと思うか、女に愛される努力を
続けるほかない。
動物の世界でも自然な恋の努力として観察されるとこ
ろである。
女としては、男はそうしたものだと納得をするのがよい。
そういう倫理はいかがであろうか。
さて、女王国だというプレアデスやベガの恋愛と結婚は
どうなっているんでしょうかねぇ。
そういうところまでリーディングして欲しいところですが・・・。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi
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