5月8日(金)南風が強め、姶良市加治木町の岩屋寺跡を訪ねました。
加治木町木田 岩屋寺跡入口 以下の画像は5月8日撮影
岩屋寺(いわやじ)跡は古い中世の寺跡です。明治初期の廃仏毀釈により残されていた石仏などは殆どが打ち壊され捨てられ、わずかに残る石仏のかけらなどで往時を想像するだけです。
この地の訪問ブログ記事等が多い中、殆ど書かれていない陸軍歩兵大佐墓石などについては最後の方で書きます。
東寄りの風が強め 手前は休耕田 寺跡は画面中ほどの林
林に入ると大きな追悼石碑と奥には墓石がありました
古いお寺跡なのに比較的最近の追悼碑とその先には墓石がありました。これらについては後で紹介します。
大きな岩が四角に削り込まれている
墓石の左奥、大きな岩をくりぬいたところに「頼昌法印」(1704年ごろの住職)の石座像があります。
頼昌法印 石座像
法印とは仏語で、仏教を他の教えから区別し、仏教が真実であるということを示す標識であり、また、古代では僧位の最上位のことも指すとされています。この座像は廃仏毀釈の難を逃れています。
不動明王像 高さ3mほど
壊され打ち捨てられた石仏 左下 若葉の隙間から差し込む初夏の光
高い岩壁 岩が柔らかめなのか刻まれた文字は風化して読めない
奥の院 岩洞窟
緩やかに坂を上ったところに現れる大きな岩窟が「奥の院」です。ゆかりのある人々が管理されているようです。道は狭く、落葉が重なり苔むしています。晴天続きながらも、下りは滑りそうで気になりました。
上り口に竹の杖がありますので、足元が不安な方は利用をお勧めします。細い通路以外は草が茂り足元がよく分かりませんので、立ち入らない方が無難です。
一般的な仏教遺跡と言うよりも、広い林の中に寺跡を偲ぶものがわずかに残るだけの場所です。夏場は蛇や蜂も出そうな山の中であり、一般向きではありません。この日は小さなアナグマを見かけました。
小浜氏善書の石碑 文字は旧字体「濵」ですが説明上は「浜」で表示
田圃横の道沿いに寺跡の説明板と石碑があります。撮影時には気づきませんでしたが、画像を改めてよくみると石碑の文字が少し気になりました。岩屋寺跡の意味と思いますが、一文字は読めません。
調べるうちに、遺跡の「遺」ではないかと気づきました。国際符号化文字集合・ユニコード U+1B111では「遺」をこのように書くようです。お判りの方は教えてください。
追悼碑 小浜氏善の功績らしいが、半分ほどは風化して読みにくい
ネットで調べるうちに次のような書籍が見つかりました。
蒙塵 : 小浜大佐伝(舩木繁 著 1915-2007) 小浜大佐は小浜氏善(1888-1936)のことか?
蒙塵(もうじん)とは、変事に際し、天子が難を避けて宮城の外に逃れること。清朝末期や満州国誕生に動いた日本陸軍のことを書いた本ではないでしょうか。
陸軍歩兵大佐小浜氏善の墓石 生前自書
小浜大佐と寺跡との関連はどこにあるのでしょうか。小浜家は寺跡の地主さんでしょうか。生前に墓石銘を自ら書いて満州国建設に一身を捧げた人ではないかと想像しますが、これもご存知の方は是非教えてください。最後までご覧いただきありがとうございました。
<追記> 2021年3月に再訪し、小浜大佐の墓石を詳しく見た時のブログは、こちらからご覧ください。
加治木町木田 岩屋寺跡入口 以下の画像は5月8日撮影
岩屋寺(いわやじ)跡は古い中世の寺跡です。明治初期の廃仏毀釈により残されていた石仏などは殆どが打ち壊され捨てられ、わずかに残る石仏のかけらなどで往時を想像するだけです。
この地の訪問ブログ記事等が多い中、殆ど書かれていない陸軍歩兵大佐墓石などについては最後の方で書きます。
東寄りの風が強め 手前は休耕田 寺跡は画面中ほどの林
林に入ると大きな追悼石碑と奥には墓石がありました
古いお寺跡なのに比較的最近の追悼碑とその先には墓石がありました。これらについては後で紹介します。
大きな岩が四角に削り込まれている
墓石の左奥、大きな岩をくりぬいたところに「頼昌法印」(1704年ごろの住職)の石座像があります。
頼昌法印 石座像
法印とは仏語で、仏教を他の教えから区別し、仏教が真実であるということを示す標識であり、また、古代では僧位の最上位のことも指すとされています。この座像は廃仏毀釈の難を逃れています。
不動明王像 高さ3mほど
壊され打ち捨てられた石仏 左下 若葉の隙間から差し込む初夏の光
高い岩壁 岩が柔らかめなのか刻まれた文字は風化して読めない
奥の院 岩洞窟
緩やかに坂を上ったところに現れる大きな岩窟が「奥の院」です。ゆかりのある人々が管理されているようです。道は狭く、落葉が重なり苔むしています。晴天続きながらも、下りは滑りそうで気になりました。
上り口に竹の杖がありますので、足元が不安な方は利用をお勧めします。細い通路以外は草が茂り足元がよく分かりませんので、立ち入らない方が無難です。
一般的な仏教遺跡と言うよりも、広い林の中に寺跡を偲ぶものがわずかに残るだけの場所です。夏場は蛇や蜂も出そうな山の中であり、一般向きではありません。この日は小さなアナグマを見かけました。
小浜氏善書の石碑 文字は旧字体「濵」ですが説明上は「浜」で表示
田圃横の道沿いに寺跡の説明板と石碑があります。撮影時には気づきませんでしたが、画像を改めてよくみると石碑の文字が少し気になりました。岩屋寺跡の意味と思いますが、一文字は読めません。
調べるうちに、遺跡の「遺」ではないかと気づきました。国際符号化文字集合・ユニコード U+1B111では「遺」をこのように書くようです。お判りの方は教えてください。
追悼碑 小浜氏善の功績らしいが、半分ほどは風化して読みにくい
ネットで調べるうちに次のような書籍が見つかりました。
蒙塵 : 小浜大佐伝(舩木繁 著 1915-2007) 小浜大佐は小浜氏善(1888-1936)のことか?
蒙塵(もうじん)とは、変事に際し、天子が難を避けて宮城の外に逃れること。清朝末期や満州国誕生に動いた日本陸軍のことを書いた本ではないでしょうか。
陸軍歩兵大佐小浜氏善の墓石 生前自書
小浜大佐と寺跡との関連はどこにあるのでしょうか。小浜家は寺跡の地主さんでしょうか。生前に墓石銘を自ら書いて満州国建設に一身を捧げた人ではないかと想像しますが、これもご存知の方は是非教えてください。最後までご覧いただきありがとうございました。
<追記> 2021年3月に再訪し、小浜大佐の墓石を詳しく見た時のブログは、こちらからご覧ください。
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