8月17日(火)、今朝の大雨で万之瀬川が一時氾濫危険水位を越えました。
鹿児島県河川砂防情報システム 8月17日12時 万之瀬川
雨は昼までには落ち着き、午後1時半すぎ氾濫危険水位5.8mを下回りました。昭和58年6月21日(火)に経験した加世田(現在は南さつま市)水害を思い出したので、古い記憶をたどります。
今日 8月17日のアメダス加世田の観測値 気象庁データを引用
今日0時から12時までの加世田の雨量は124.5ミリ、加世田水害時の半分程度にとどまり氾濫を免れました。
万之瀬川の河口
ウィキペディアによる万之瀬川水害の情報を引用して紹介します。
1983年(昭和58年)6月21日には梅雨の集中豪雨によって加世田川が氾濫し床上浸水692戸、床下浸水1,635戸の被害があった。このため河川激甚災害対策特別緊急事業として48億6千万円の費用をかけ万之瀬川の拡幅と加世田川の流路変更が行われた。(引用終わり)
当時の加世田の気象状況 気象庁過去の気象データより引用
2時から8時までの雨量は250ミリに達しています。加世田川は加世田市南部から北に流れ、東側からの大きな河川万之瀬川と加世田市内で合流します。短時間の大雨で急速に水位が上がり流域の農地や市街地で浸水被害が発生しました。出勤前にテレビで河川氾濫情報を知りました。
同じく鹿児島地方気象台の気象状況
2時から8時までの雨量は130ミリで加世田の半分程度です。当時の勤務地は加世田市内にあり、21日は給料日。当時は現金支給なので休まず出勤。撮影準備をしていつも通り7時半前に日吉町の家を出ました。
金峰山
加世田市内に入る手前の金峰町阿多の西田医院近くに車を置き、足元はゴム草履に裸足、傘を手に2kmほど歩きました。万之瀬川の橋を渡り浸水地域を避けてたどり着いた加世田駅(鹿児島交通南薩線)構内は少し浸水が始まっていました。
当時はフィルムカメラですぐにフィルム切れ。9時前頃、駅前のなじみの写真館にも水が入り始め慌ただしい中でフィルムを入手。雨の勢いは弱まり、深さ30センチほどの濁流が流れる駅前の商店街や通りの様子を撮影しました。
金峰町の水神様
駅前の道路はすでに川になり、道の真ん中でも深いところでは胸まで水につかりながら左手に傘、右手のカメラで撮影。水流は緩いものの、次第に体が浮き上がってきたので職場まで行くことは断念。
転倒水没して災害記録をカメラごと失わないことを心がけました。風はなく路側の水路など道路状況が判っていたので動くことができました。勤務地のため少しは土地勘がありましたが、随分と無謀な行動でした。
車に戻ると足の指が擦りむけ血が出ていました。すっかり体は冷え切って、帰りに吹上町の伊作温泉に立ち寄り体を温めました。水は短時間で引きましたが、タイミング良く水嵩が一番高いときに撮影できました。
朝方の急な浸水で記録が少ない中、消防や土木関係者にネガフィルムを貸し出して災害記録資料として役立てて頂きました。
新燃岳の大噴火
加世田水害は40年ほども前のことになりました。これに並ぶ忘れがたい撮影の記憶は、昭和天皇行幸の1984年(昭和59年)鹿児島での全国植樹祭の記録、2011年(平成23年)1月真冬の新燃岳大噴火です。
鹿児島県河川砂防情報システム 8月17日12時 万之瀬川
雨は昼までには落ち着き、午後1時半すぎ氾濫危険水位5.8mを下回りました。昭和58年6月21日(火)に経験した加世田(現在は南さつま市)水害を思い出したので、古い記憶をたどります。
今日 8月17日のアメダス加世田の観測値 気象庁データを引用
今日0時から12時までの加世田の雨量は124.5ミリ、加世田水害時の半分程度にとどまり氾濫を免れました。
万之瀬川の河口
ウィキペディアによる万之瀬川水害の情報を引用して紹介します。
1983年(昭和58年)6月21日には梅雨の集中豪雨によって加世田川が氾濫し床上浸水692戸、床下浸水1,635戸の被害があった。このため河川激甚災害対策特別緊急事業として48億6千万円の費用をかけ万之瀬川の拡幅と加世田川の流路変更が行われた。(引用終わり)
当時の加世田の気象状況 気象庁過去の気象データより引用
2時から8時までの雨量は250ミリに達しています。加世田川は加世田市南部から北に流れ、東側からの大きな河川万之瀬川と加世田市内で合流します。短時間の大雨で急速に水位が上がり流域の農地や市街地で浸水被害が発生しました。出勤前にテレビで河川氾濫情報を知りました。
同じく鹿児島地方気象台の気象状況
2時から8時までの雨量は130ミリで加世田の半分程度です。当時の勤務地は加世田市内にあり、21日は給料日。当時は現金支給なので休まず出勤。撮影準備をしていつも通り7時半前に日吉町の家を出ました。
金峰山
加世田市内に入る手前の金峰町阿多の西田医院近くに車を置き、足元はゴム草履に裸足、傘を手に2kmほど歩きました。万之瀬川の橋を渡り浸水地域を避けてたどり着いた加世田駅(鹿児島交通南薩線)構内は少し浸水が始まっていました。
当時はフィルムカメラですぐにフィルム切れ。9時前頃、駅前のなじみの写真館にも水が入り始め慌ただしい中でフィルムを入手。雨の勢いは弱まり、深さ30センチほどの濁流が流れる駅前の商店街や通りの様子を撮影しました。
金峰町の水神様
駅前の道路はすでに川になり、道の真ん中でも深いところでは胸まで水につかりながら左手に傘、右手のカメラで撮影。水流は緩いものの、次第に体が浮き上がってきたので職場まで行くことは断念。
転倒水没して災害記録をカメラごと失わないことを心がけました。風はなく路側の水路など道路状況が判っていたので動くことができました。勤務地のため少しは土地勘がありましたが、随分と無謀な行動でした。
車に戻ると足の指が擦りむけ血が出ていました。すっかり体は冷え切って、帰りに吹上町の伊作温泉に立ち寄り体を温めました。水は短時間で引きましたが、タイミング良く水嵩が一番高いときに撮影できました。
朝方の急な浸水で記録が少ない中、消防や土木関係者にネガフィルムを貸し出して災害記録資料として役立てて頂きました。
新燃岳の大噴火
加世田水害は40年ほども前のことになりました。これに並ぶ忘れがたい撮影の記憶は、昭和天皇行幸の1984年(昭和59年)鹿児島での全国植樹祭の記録、2011年(平成23年)1月真冬の新燃岳大噴火です。
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