ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

オーブン焼き

2011年03月18日 | 飲食:飲物・嗜好品

 パンを焼くより

 今のアパートは、入居した当時から、既に築30年は経っているだろうと思われるボロアパートであった。住み始めてから11年半になるが、そのボロ具合はさらに進み、部屋にはカビが増え、埃がたまり、汚れが染み付き、流しの排水溝から水漏れがし、台所の床はところどころボコボコになって抜け落ちそうになり、換気口にはスズメが住みつき、もはや換気の役には立たなくなってしまっている。そして、そこに住むオジサンもまたさらにオジサン具合が進み、白髪が増え、皺が増え、小便の切れが悪くなり、けがの治りが遅くなり、物忘れが多くなり、肩凝りに悩まされ、老眼にもなってしまった。家も人間もただただ歳とっていく。ただただ、草臥れていくのみだ。

 家も人間も、草臥れてはいるが、まだモノそのものは同じモノ。ところが、生活道具は2代目、3代目に替わったものが多い。テレビ、ビデオデッキ、洗濯機、冷蔵庫、CDデッキ、炊飯器、ガスコンロ等々は2代目、扇風機にいたっては4代目となっている。相当草臥れてはいるが、オーブントースターもまた2代目、買って5年以上になる。
  パン食は平均して月に4、5日ほどある。買ったその日はそのまま食うが、翌日からのパンはたいていトーストしている。しかし、おそらくそのトーストしたパン、多くの人が食べる気はしないであろう。よくもまあこんな汚いトースターでパンを焼いているもんだと驚くくらい、私のトースターは汚いのだ。買ってから一度も洗ったことが無いだけでなく、このトースター、パンを焼くことよりも遥かに、野菜や魚を焼く機会が多いからだ。魚から脂が落ちる。それを洗わない。だから、ひどく汚れている。

 トースターで焼く野菜はたいてい決まっている。 今の時期、畑からシマラッキョウが収穫でき、焼きシマラッキョウをトースターで作って、酒の肴にしている。これが旨いのなんのって。・・・畑には無いが、今、私の大好きな旬の食材がスーパーに並んでいる。ソラマメ。莢から取り出し、アルミホイルの上に並べ、これもまたトースターで焼きソラマメにし、酒の肴とする。これがまた旨いのなんのって・・・。
 朝飯に目刺を焼いたオーブントースターで、昼飯にパンをトーストする。パンに目刺の匂いが移る。これはしかし、私も「これがまた旨いのなんのって」とは思わない。が、不味くも無い。ちょっと癖のあるパンだと思えば、珍しい食い物を食っているんだという満足感は得られる。・・・満足感というほどの満足では無いけど。
      
      
 記:ガジ丸 2005.5.24 →沖縄の飲食目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


黒砂糖

2011年03月18日 | 飲食:果物・菓子

 疲れを癒すお茶請け

 古き良き時代の沖縄の家は、門に扉は無く、いつも開放されている。誰もがその敷地内に入ることができ、縁側に腰掛けて、しばしの休息を得ることができた。縁側にはたいていお茶とお菓子が用意されていた、と聞いている。古き良き時代だ。
 縁側に用意されているお茶とお菓子、具体的にどのようなものであったかは資料が無いので不明だが、おそらく両方とも最も手に入れやすいもの、お茶はサンピンチャ、お菓子は黒砂糖が多かったに違いない。17世紀の琉球に、既に黒砂糖は製造されていた。
 のんびりしている沖縄とはいえ、日本国の一県となって久しい現在では、縁側を開放している家などほとんど見なくなってしまったが、お茶請けに黒砂糖を出してくれる家は今でもきっと多くある。昔も今も変らずに、ウチナーンチュにとって黒砂糖は無くてはならない食品。多くの家に黒砂糖は存在し、スーパーではたくさんの黒砂糖が棚の一角を占めている。いくらか苦味のある甘さは、人生の苦楽を踏まえてなお、穏やかな笑顔を見せてくれるオジーやオバーのように、人に優しい。

  肉体労働者のおやつにも黒砂糖は適している。夏のギラギラ太陽にガンンガン照らされてブチクン(気絶状態を表す沖縄語)になりそうな時、また、あまりの暑さに働くのが嫌になって気が滅入った時などにも、黒砂糖は労働者の助けとなる。黒砂糖を口に入れると優しさを感じる。黒砂糖は心身ともに疲れを癒してくれるお茶請けなのである。
 甘いものが苦手な私は、子供の頃はそう食えなかったが、オジサンとなった今はよく口にする。お茶請けの黒砂糖と料理用の粉黒砂糖は常備品だ。固形のものは、普通の黒砂糖の他、ジーマーミ(地豆:落花生のこと)黒糖やクルミ黒糖なども利用している。最近では、口の中に入れるとじわーっととろけてしまうナービフチー(鍋縁)黒糖が最もお気に入りとなっている。固形の黒砂糖は時々だが、粉黒砂糖は料理用で、いろんな料理にしばしば使っている。料理に白糖を使わなくなってから3年あまりになった。
      
 黒砂糖
 くろざとう。黒糖(こくとう)ともいう。方言名:クルザーター
 含蜜糖の一種。広辞苑には「まだ精製してない茶褐色の砂糖。甘蔗汁をしぼって鍋で煮詰めたままのもの」とあるが、それだけではまだ、黒糖は飴のようなトロっとした状態。「甘蔗汁をしぼって」という表現も少し変。甘蔗はサトウキビのこと。サトウキビを搾った汁のことを甘蔗汁というべきだろう。搾った汁をさらに搾ってどうするんだい。
 広辞苑で甘蔗汁とあるサトウキビを搾った汁、これを『沖縄大百科事典』では搾汁と表現している。その搾汁を煮詰めて飴状になったら石灰を加える。すると飴状のももが固まって、よくご存知の黒砂糖ができあがる。精製された白糖とは違い、サトウキビの栄養がそっくり残っているので、黒砂糖には糖分以外のミネラルがたっぷり含まれている。そのせいで、かすかに苦みも感じる。でも、上質の健康食品に間違いない。
 17世紀の沖縄の偉人、芋(さつまいも)の普及にも活躍した儀間真常が、サトウキビの栽培や黒砂糖の製造にも深く関わっているとのこと。
      
 記:2005.5.23 ガジ丸 →沖縄の飲食目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


カエルの音返し

2011年03月18日 | ガジ丸のお話

2月の終わり頃からポッカポカ陽気となった。
「春が来た」と虫たちも思ったに違いない。
それまで静かだった畑にも蝶が飛び、バッタが跳ね、カエルが鳴いた。
ところが、3月に入って急に寒くなり、冬に逆戻りしてしまった。

3月3日、世の中が「ひなまつりだー、ひしもちだー、おだんごだー」と騒いでいる中、
オジサンは一人畑へ出て、黙々と農作業を続ける。
今日は、オジサンにとっては6月の幸せのための仕込み、
6月の幸せとは枝豆、この日は枝豆のための整地作業。
土を耕すのは重労働だが、寒いのでちょうどいい運動。
重労働にはちょうどいい寒さだったけれど、
虫たちには寒すぎたようで、昨日まで飛んでいた蝶も、跳ねていたバッタも、
今日は姿を見せない。カエルの声も聞こえない。

3月4日、いよいよ枝豆の種を蒔く。蒔きながらオジサンは笑っている。
6月の幸せを想像して笑っている。
採りたての枝豆を茹でて、ホクホクの奴を食べて、「うまいー!」と言い、
冷えたビールを飲んで、プハーっと息を吐き、「しあわせー!」と言い、
「幸せをありがとう」と大地と太陽に感謝して、嬉しくて涙も出る。
そんなこと想像して、オジサンは笑っている。
 
種を蒔いたら水をかけて、今日の作業は終了。
種蒔きも水かけも軽作業なので、たいした運動にはならない。
それに、今日は昨日より寒い。
「寒いぜ、早く水かけて、早く帰ろ」と呟きながら水桶のある所へ行く。

水桶の中にバケツを入れようとしたら、そこに1匹のカエルがいた。
カエルはヒメアマガエル、小さいけれど、グエッ、グエッと煩く鳴くカエル。
カエルは水面に浮いたままピクリとも動かない。
バケツを入れて、水面を大きく揺らしてもピクリとも動かない。
「可哀そうに、あんまり寒くて凍えてしまったんだな。」
水の中に手を入れると水はとても冷たかった。
「冬眠するカエルが、こんな冷たい水では生きていけないよな。」
オジサンは「南無阿弥陀仏」と手を合わせた。
 
水かけの途中、足元の草むらでガサっと音がした。
「何者!」と思って、草を掻き分けると、そこにはバッタがいた。
バッタはタイワンツチイナゴ、とても大きくて、ジャンプ力の強いバッタ。
警戒心が強いので、普通は人が近付くと、すぐに跳んで逃げてしまう。
だけど、今目の前にいるタイワンツチイナゴはちっとも逃げない。
逃げないどころか、動かない。触角がピクピクしているので死んではいない。
「あんまり寒くて動けないんだな。ネコに食われないよう気をつけな。」
 
そりゃあ、数日前のあの陽気じゃあ、誰だって春が来たと思うさ。
虫たちもとんだ災難だ、とオジサンは思いつつ、
カエルもバッタもそのまま放ったらかして帰った。

3月5日、昨日までとは一転、ポッカポカ陽気となった。
オジサンは今日も畑に出て野良仕事。今日は草抜き作業。
朝は寒かったので、オジサンは昨日と同じ厚着の服装、
草抜き作業は軽作業だが、昼頃になると汗をかいてしまった。
着ていたトレーナーを脱いで、Tシャツ姿で作業を続ける。

草抜き作業を続けて、昨日バッタを見つけた草むらの辺りまで来た。
ポッカポカ陽気だ、「もしかしたら」と思って草を掻き分ける。
昨日のバッタは、昨日と同じ場所にいた。太陽の下に出してやる。
バッタは昨日よりずっと元気になっていた。
絶好調では無いらしく、ジャンプはしなかったが、のそのそと歩いた。
歩いて、草むらの中へ逃げていった。
「オメェ、せっかく温かい所に出してやったのに、バカだなぁ。」と思った。
バッタはきっと、寒さよりも、オジサンが怖かったのだろう。

バッタが逃げるのを見ながら、「おっ、もしかしたら」とオジサンはまた思った。
昨日カエルがいた水桶を見に行く。昨日のカエルはそのままだった。
手を伸ばした。するとカエルはピクっと動いた。
「おっ、生きカエルか?」と、外に出してやった。
カエルはしばらくそこでじっとしていたが、
「僕は生きている、助かったんだ。」と気付いたのか、
ぴょんと大きく飛び跳ねて、草の中へ消えていった。
 

それから数日後、雨の降る日の夜、8時を過ぎた頃、
バッハの静かな曲を聴きながら酒を飲んでいると、
窓際に座っているオジサンの、その窓をペタペタと叩く音がする。
曇りガラスの向こうに影が見える。猫ほどの大きさだ。
「雨に濡れて冷たいよー、中に入れてくれよー。」なんて、
その辺りの野良猫が甘えに来ているんだろうと思って、無視した。
ところが、もう一度、ペタペタと叩く音がして、
「野良猫なんかじゃねーよ。」と声が聞こえた。
うむ、確かに、その辺りの野良猫が人の言葉をしゃべるわけが無い。
「いったい何者?」と窓の外を覗く。
 
そこには大きなカエルがいた。
目が合った。カエルはウンウンと肯くようにして、
「ワシだ、ワシがしゃべっている。ちょっと開けてくれんか?」と言う。
優しそうな顔でも無いが、悪そうな顔でも無い。で、開けてやる。
「中には入らないよ、濡れているし、濡れているのは好きだし。」
「まぁ、入れよ、窓を開けていると雨が入る。今、タオルを持ってくる。」とオジサンは言って、タオルを取ってきて、窓の傍に敷いた。
「それじゃあまあ、お言葉に甘えて、ちょっと失礼する。」とカエルは言って、タオルの上にちょこんと座った。大きさは、その辺の野良猫より一回り大きい。

「先日は、仲間が大変世話になったようで、ありがとうございます。」
「仲間って」とオジサンはすぐに気付いた。「あの畑のアマガエルか?」
「そう、彼です。あのまま水の中にいたら死ぬところでした。」
「そうか、そりゃあ良かった。ところで、オメェ、何で人の言葉がしゃべれるんだ?」
「ワシは長く生きている。で、カエル界の代表であり、しゃべることもできる。」
「長く生きているって、どのくらい?」
「そう、はっきりは覚えていないが、少なくとも百年は生きている。」
「ひ、百年!そりゃあ大先輩だ、タメ口きいて、失礼しました。」
「いや、それはいいんだよ、アンタはもうワシの友人だ。ところで、これ。」とカエルは言って、手に持っていたビニール袋をオジサンに差し出した。
「何ですかこれ?」
「ほんのお礼だ。お口に合わないかもしれないが、どうぞ受取ってください。」
 
オジサンは袋の中を覗いた。中にはダンゴのようなものが3個入っていた。
「何ですかこれ?」と、オジサンはまた訊く。
「ボウフラのダンゴだ。ワシらにとっては大変な御馳走だ。人間の口にも合うよう味付けをしてある。レンジでチンして温めても美味しいと思う。」
たくさんのカエルたちが協力して、大量のボウフラを集めて、それを練ってダンゴにするまでたいそう手間がかかったらしいが、オジサンはキッパリ断る。
「せっかくですが、これは要りません。お気持ちだけありがたく頂きます。」
「えっ、美味しいぞ、一つはゴマ味、一つはピーナッツ味、もう一つは黄粉味だ。」
「例えチョコ味でもイチゴ味でも、ボウフラはボウフラです。口に合いません。」
「そうか、それならしょうがない。でもまあ、そういうこともあろうかと思って、別のプレゼントも用意してある。それを贈りましょう。」
「別のプレゼントって、食い物は要りませんよ。」
カエルはニコッと笑って、立ち上がって、そして、
「食い物じゃない、今日から1週間、毎晩、アンタに楽しいことが待っている。とだけ言っておこう。では、さらばじゃ。」と言った。言い終わるとすぐに、カエルは自分で窓を開けて、ピョンと飛び跳ねて、あっという間に夜の闇の中へ消え去った。

「楽しいこと」って何だろう?とオジサンはワクワクしながらベッドに入った。「毎晩、美女が夢の中に現れて、チューでもしてくれるのかなぁ?」とオジサンはドキドキしながら目を閉じた。それから数分後、もう夢の中へ入ろうかという時に、
グエッ、グエッ、グエッ、グエッという大合唱にオジサンは起こされた。
「何だ!何だ!何ごとだ!」と慌てふためくほどの大音量だった。音はすぐ傍、枕元の窓の方から聞こえる。窓を開けた。そこには何十匹ものヒメアマガエルたちがいた。
「あー、そうか、カエルの恩返しは、カエルの音返しということか。」とオジサンは気付いたが、もう後の祭り、一所懸命歌っているカエルたちを追い払う訳にもいかない。この後一週間、オジサンは寝不足の日々を送る羽目になったとさ。何てこった!
 
 おしまい。

 2011.3.18 ガジ丸 →ガジ丸のお話目次


書けること

2011年03月18日 | 通信-社会・生活

 「こんな時、何を書こう」と考えた。先週土曜日、同級生の告別式があった。彼は、離婚後一人暮らしとなって、孤独死だったそうだ。私も同じ一人暮らしなので、いろいろ感じることもあったのだが、「こんな時に書かなくてもいいか」と思う。

 先週金曜日、午前中畑仕事をする。トウモロコシの種を蒔く一角を耕して、除草し、堆肥を混ぜて、整地する。以上の作業に3時間ほどかかって、毎週金曜日に行っているガジ丸HPのアップは、いつもより遅れて、お昼過ぎからとなった。
 アップを終え、日常の近況メールや告別式などの連絡メールのやりとりも終え、午後3時、ネットのニュースを見る。「震度7」の文字が目に入る。地震に慣れない呑気なウチナーンチュでも、震度7には「ただ事ではないぞ」と直感する。
 家に帰ってテレビを観る。時間が経つにつれてこの地震の凄まじさ、被災地の惨状などが分かってくる。映画で見るような大津波が各地を襲っていた。

 弟夫婦、従妹家族、姪の家族が千葉に住んでいる。いずれの住まいも海の傍では無かったと思うが、念のため、弟に電話する。が、電話が通じない。従妹は「無事だ」というメールがあったと、彼女の姉から聞く。そうか、電話は通じなくてもメールはできるんだと解り、姪にメールする。「大丈夫です」返信がすぐにあった。
 テレビはずっと大地震に関する報道を続けている。『東日本大震災』という名前からも察することができるように、この地震は関東にも被害を及ぼしているようだ。で、埼玉に住む友人、東京に住む従兄、静岡に住む才色兼備にもメールした。多少の混乱、騒動はあったようだが、いずれも無事とのこと。従兄は40年近く東京に住んでいるが、そのメールには、「今まで経験したことのない大きな揺れだった」とあった。
 弟はメールをやらない。「今時、いくらオジサンでもメールくらいやらんかい!」と思いつつ、翌日の夕方、再び電話する。通じた。「みな大丈夫」とのこと。

 以上は、私の個人的付合いにおける心配だ。被害にあった多くの人々については、地震に襲われ、津波に襲われる中、運良く助かって、命からがら逃げて、避難所で生活しているのが我が身であると想像して、「何とか耐えてください」と祈る他ない。

  その後、東京に住む叔父一家や甥の無事を知り、私の、個人的付合いにおける心配は消えたが、私は別に、公的心配もしていた。「東北地方沿岸で震度7」のニュースを知った時に、「もしかしたら」と思っていたが、その後の報道で「やはり、あったか」となった原発。場所は東北のその辺りとおぼろげな記憶しかなかった原発。福島にあった。
 チェルノブイリの事故は、人的被爆の深刻甚大な大災害であったと覚えており、それほどではないが、スリーマイル島でも放射能拡散の災害が起こった。なので、福島の原発も大変気になっている。今朝のニュースを観ても、原発はなお危険な状態にあり、放射能拡散の可能性は残っているようだ。「何とか治まってくれ」と祈る他ない。

 「こんな時、何を書こう」と考えた。考えて、以上、いつもの日記風。
         

 記:2011.3.18 島乃ガジ丸