2月の終わり頃からポッカポカ陽気となった。
「春が来た」と虫たちも思ったに違いない。
それまで静かだった畑にも蝶が飛び、バッタが跳ね、カエルが鳴いた。
ところが、3月に入って急に寒くなり、冬に逆戻りしてしまった。
3月3日、世の中が「ひなまつりだー、ひしもちだー、おだんごだー」と騒いでいる中、
オジサンは一人畑へ出て、黙々と農作業を続ける。
今日は、オジサンにとっては6月の幸せのための仕込み、
6月の幸せとは枝豆、この日は枝豆のための整地作業。
土を耕すのは重労働だが、寒いのでちょうどいい運動。
重労働にはちょうどいい寒さだったけれど、
虫たちには寒すぎたようで、昨日まで飛んでいた蝶も、跳ねていたバッタも、
今日は姿を見せない。カエルの声も聞こえない。
3月4日、いよいよ枝豆の種を蒔く。蒔きながらオジサンは笑っている。
6月の幸せを想像して笑っている。
採りたての枝豆を茹でて、ホクホクの奴を食べて、「うまいー!」と言い、
冷えたビールを飲んで、プハーっと息を吐き、「しあわせー!」と言い、
「幸せをありがとう」と大地と太陽に感謝して、嬉しくて涙も出る。
そんなこと想像して、オジサンは笑っている。

種を蒔いたら水をかけて、今日の作業は終了。
種蒔きも水かけも軽作業なので、たいした運動にはならない。
それに、今日は昨日より寒い。
「寒いぜ、早く水かけて、早く帰ろ」と呟きながら水桶のある所へ行く。
水桶の中にバケツを入れようとしたら、そこに1匹のカエルがいた。
カエルはヒメアマガエル、小さいけれど、グエッ、グエッと煩く鳴くカエル。
カエルは水面に浮いたままピクリとも動かない。
バケツを入れて、水面を大きく揺らしてもピクリとも動かない。
「可哀そうに、あんまり寒くて凍えてしまったんだな。」
水の中に手を入れると水はとても冷たかった。
「冬眠するカエルが、こんな冷たい水では生きていけないよな。」
オジサンは「南無阿弥陀仏」と手を合わせた。

水かけの途中、足元の草むらでガサっと音がした。
「何者!」と思って、草を掻き分けると、そこにはバッタがいた。
バッタはタイワンツチイナゴ、とても大きくて、ジャンプ力の強いバッタ。
警戒心が強いので、普通は人が近付くと、すぐに跳んで逃げてしまう。
だけど、今目の前にいるタイワンツチイナゴはちっとも逃げない。
逃げないどころか、動かない。触角がピクピクしているので死んではいない。
「あんまり寒くて動けないんだな。ネコに食われないよう気をつけな。」

そりゃあ、数日前のあの陽気じゃあ、誰だって春が来たと思うさ。
虫たちもとんだ災難だ、とオジサンは思いつつ、
カエルもバッタもそのまま放ったらかして帰った。
3月5日、昨日までとは一転、ポッカポカ陽気となった。
オジサンは今日も畑に出て野良仕事。今日は草抜き作業。
朝は寒かったので、オジサンは昨日と同じ厚着の服装、
草抜き作業は軽作業だが、昼頃になると汗をかいてしまった。
着ていたトレーナーを脱いで、Tシャツ姿で作業を続ける。
草抜き作業を続けて、昨日バッタを見つけた草むらの辺りまで来た。
ポッカポカ陽気だ、「もしかしたら」と思って草を掻き分ける。
昨日のバッタは、昨日と同じ場所にいた。太陽の下に出してやる。
バッタは昨日よりずっと元気になっていた。
絶好調では無いらしく、ジャンプはしなかったが、のそのそと歩いた。
歩いて、草むらの中へ逃げていった。
「オメェ、せっかく温かい所に出してやったのに、バカだなぁ。」と思った。
バッタはきっと、寒さよりも、オジサンが怖かったのだろう。
バッタが逃げるのを見ながら、「おっ、もしかしたら」とオジサンはまた思った。
昨日カエルがいた水桶を見に行く。昨日のカエルはそのままだった。
手を伸ばした。するとカエルはピクっと動いた。
「おっ、生きカエルか?」と、外に出してやった。
カエルはしばらくそこでじっとしていたが、
「僕は生きている、助かったんだ。」と気付いたのか、
ぴょんと大きく飛び跳ねて、草の中へ消えていった。

それから数日後、雨の降る日の夜、8時を過ぎた頃、
バッハの静かな曲を聴きながら酒を飲んでいると、
窓際に座っているオジサンの、その窓をペタペタと叩く音がする。
曇りガラスの向こうに影が見える。猫ほどの大きさだ。
「雨に濡れて冷たいよー、中に入れてくれよー。」なんて、
その辺りの野良猫が甘えに来ているんだろうと思って、無視した。
ところが、もう一度、ペタペタと叩く音がして、
「野良猫なんかじゃねーよ。」と声が聞こえた。
うむ、確かに、その辺りの野良猫が人の言葉をしゃべるわけが無い。
「いったい何者?」と窓の外を覗く。

そこには大きなカエルがいた。
目が合った。カエルはウンウンと肯くようにして、
「ワシだ、ワシがしゃべっている。ちょっと開けてくれんか?」と言う。
優しそうな顔でも無いが、悪そうな顔でも無い。で、開けてやる。
「中には入らないよ、濡れているし、濡れているのは好きだし。」
「まぁ、入れよ、窓を開けていると雨が入る。今、タオルを持ってくる。」とオジサンは言って、タオルを取ってきて、窓の傍に敷いた。
「それじゃあまあ、お言葉に甘えて、ちょっと失礼する。」とカエルは言って、タオルの上にちょこんと座った。大きさは、その辺の野良猫より一回り大きい。
「先日は、仲間が大変世話になったようで、ありがとうございます。」
「仲間って」とオジサンはすぐに気付いた。「あの畑のアマガエルか?」
「そう、彼です。あのまま水の中にいたら死ぬところでした。」
「そうか、そりゃあ良かった。ところで、オメェ、何で人の言葉がしゃべれるんだ?」
「ワシは長く生きている。で、カエル界の代表であり、しゃべることもできる。」
「長く生きているって、どのくらい?」
「そう、はっきりは覚えていないが、少なくとも百年は生きている。」
「ひ、百年!そりゃあ大先輩だ、タメ口きいて、失礼しました。」
「いや、それはいいんだよ、アンタはもうワシの友人だ。ところで、これ。」とカエルは言って、手に持っていたビニール袋をオジサンに差し出した。
「何ですかこれ?」
「ほんのお礼だ。お口に合わないかもしれないが、どうぞ受取ってください。」

オジサンは袋の中を覗いた。中にはダンゴのようなものが3個入っていた。
「何ですかこれ?」と、オジサンはまた訊く。
「ボウフラのダンゴだ。ワシらにとっては大変な御馳走だ。人間の口にも合うよう味付けをしてある。レンジでチンして温めても美味しいと思う。」
たくさんのカエルたちが協力して、大量のボウフラを集めて、それを練ってダンゴにするまでたいそう手間がかかったらしいが、オジサンはキッパリ断る。
「せっかくですが、これは要りません。お気持ちだけありがたく頂きます。」
「えっ、美味しいぞ、一つはゴマ味、一つはピーナッツ味、もう一つは黄粉味だ。」
「例えチョコ味でもイチゴ味でも、ボウフラはボウフラです。口に合いません。」
「そうか、それならしょうがない。でもまあ、そういうこともあろうかと思って、別のプレゼントも用意してある。それを贈りましょう。」
「別のプレゼントって、食い物は要りませんよ。」
カエルはニコッと笑って、立ち上がって、そして、
「食い物じゃない、今日から1週間、毎晩、アンタに楽しいことが待っている。とだけ言っておこう。では、さらばじゃ。」と言った。言い終わるとすぐに、カエルは自分で窓を開けて、ピョンと飛び跳ねて、あっという間に夜の闇の中へ消え去った。
「楽しいこと」って何だろう?とオジサンはワクワクしながらベッドに入った。「毎晩、美女が夢の中に現れて、チューでもしてくれるのかなぁ?」とオジサンはドキドキしながら目を閉じた。それから数分後、もう夢の中へ入ろうかという時に、
グエッ、グエッ、グエッ、グエッという大合唱にオジサンは起こされた。
「何だ!何だ!何ごとだ!」と慌てふためくほどの大音量だった。音はすぐ傍、枕元の窓の方から聞こえる。窓を開けた。そこには何十匹ものヒメアマガエルたちがいた。
「あー、そうか、カエルの恩返しは、カエルの音返しということか。」とオジサンは気付いたが、もう後の祭り、一所懸命歌っているカエルたちを追い払う訳にもいかない。この後一週間、オジサンは寝不足の日々を送る羽目になったとさ。何てこった!

おしまい。
2011.3.18 ガジ丸 →ガジ丸のお話目次