面倒臭がり屋の餅
4年制大学を卒業するのに私は5年かけたが、その5年間で住まいは4回変った。微々たる距離ではあるが、故郷沖縄へ少しずつ近づくかのように吉祥寺から、武蔵境、東小金井、西国分寺へと流れていった。武蔵境と東小金井での生活のうち約1年は、姉とその恋人との三人暮らしであったが、それ以外はずっと一人暮らし、恋人もいないままの淋しい独り暮らしであった。「淋しい」は「恋人もいない」に掛かり、「独り暮らし」には掛からない。姉たちとの三人暮らしは、私にとって非常に鬱陶しいものであった。
最後の1年を東国分寺で過ごしたが、この1年は、姉たちから解放され、すごく自由で楽しい(恋人はいないけど)1年となる。当時はまだ禁止されていた密造酒を造ったのもこの頃。その話は既に何かの項で書いたと思うが、市販されている日本酒が偽物、つまり米で作った醸造酒にアルコール、糖類などを加えたものであるということを知り、ならば自分で本物の日本酒をと思って造ったもの。旨かったが、3日で酢に変った。
もう一つ、これは別に禁止されているものでは無いが、独り暮らしの若い男が普通やらないであろうということもやった。正月用の餅を自分で作ったのであった。それまで1度も買ったことの無いもち米を買い、それをいつもの炊飯器で炊き、炊飯器の中から炊き上がったもち米の入った器を取り出し、それを畳の上に置いて、ビールの空き瓶で搗く。杵搗き餅ならぬ瓶搗き餅。まだ暖かいものを何もつけずに食った。これが、予想以上に旨かった。缶詰の小豆餡をつけても食った。これもまた旨かった。
炊いたもち米を搗く時に、搗き過ぎない方が旨いのだということを知った。私の自作の餅は、米の粒がところどころ残っている餅であった。最初からそのように作るつもりでは無かった。市販の餅のようにしっかりと搗かれて、こねられた餅を想定していた。ところが、ビール瓶を上下させる運動が、もち米が餅に変化していくにつれて瓶が重くなり、腕が疲れてしまったのである。「まあ、いいか」と妥協した結果なのであった。
沖縄の餅は、私の好きな米粒が少し残った餅とはずっとかけ離れた、とてもよくこねられて粒のまったく無い餅である。倭国の餅と製造方法が異なる。白玉粉を使って作った餅を想像してくれると良い。『沖縄大百科事典』によると、
ケーワリ(粉割り):もち米を水に浸して、木臼にたて杵で搗く
水びき:石臼に水を加えながら碾く
と、2種類の製造方法あり、どちらも生の米を細かくしている。さらに、「その後で形を作り、蒸す。もち米を蒸して杵臼で搗く方法はほとんど無い。」とのこと。おそらく、沖縄のやり方が杵臼で搗くより楽なのであろう。面倒臭がり屋のウチナーンチュらしい。
そんな沖縄餅であるが、私は嫌いでは無い。砂糖を混ぜた物(カーサームーチがその代表)や、小豆餡の入った餡餅はお菓子として少しは食べる。何の味もつけていない、米そのものの味がする白餅、あるいは甘くない茹で小豆をまぶしたフチャギ(彼岸の時に供えられる餅)などは私の好物となっている。それを齧りながら日本酒を飲む。
記:ガジ丸 2006.11.19 →沖縄の飲食目次
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行