玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(8)

2015年05月12日 | ゴシック論
「美とは何であるか」が次のテーマである。バークは“美”の真の原因となるものをいくつか挙げている。“小さい物”“滑らかさ”“漸進的変化”“繊細さ”“明るく晴れ晴れした色彩”などがそれであるが、ここでもバークは極めて経験主義的である。
 ここで挙げられているのがすべて、女性が持っている性質であることに気づくのは難しくない。訳註によればこの本を書いている頃、バークは恋人に求愛中であったというから、間違いなく経験に基づいて書いているのだ。
“漸進的変化”とは何かというと、バークによれば「如何なる突然の突出にも出会わないが、それにもかかわらず全体は絶えず変化している」ものなのである。バークはその例として女性の「肩から乳房への部分を観察してみよ」と読者に呼び掛けているが、その頃バーク自身が女性の体をじっくり観察する機会があったものと思われる。
 第三編には“醜”についての短い一節がある。バークは次のように書いている。
「私はまた醜が崇高の観念と充分に両立しうると想像する。しかし醜それ自体は、それが強い恐怖を呼び起す性質と結びつかぬ限り崇高な観念であると私は思わない」
 ここにもゴシック小説を論ずる時に依拠したくなる議論が見られるし、前に言った“醜の美学”を予感させるものがあるが、ここはひとまず保留しておく。
 第三編の最後でバークは崇光と美の比較を行っていて、「実際この両者は一方が苦に依拠し他方が快に依拠する点で全く相反した本性の観念である」と書き、崇高と美が相容れないものであることを強調している。
 さらにバークは崇高と美が時折結合していることがあることを認めているが、それでも両者が同一であることはないと言っている。みすず書房版『崇高と美の観念の起原』のカバーには、ピラネージがローマの廃墟を描いた作品が使われているが、このような作品にこそ崇高と美の結合が顕著に見られるだろう。次に考えてみたいのはそのような絵画作品についてである。


ピラネージ〈ローマの景観〉より〈コロッセオ内部〉


エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(7)

2015年05月11日 | ゴシック論
 第三編は“崇高”とは区別されたものとしての“美”への考察に向けられている。まず「美とは何でないか」についての分析が行われ、次に「美とは何であるか」についての分析が加えられる。
「美とは何でないか」についての考察は『崇高と美の観念の起原』の中でも出色の部分であり、古典的な美学を根底から覆す革新性に満ちている。
 これまで“美”の原因とされてきたさまざまな概念をバークは次々と退けていく。まずは“均斉”propor-
tion。植物にあっても、動物にあっても、人間にあっても“均斉”は“美”の原因とはなっていないとバークは言う。
 バークは薔薇の木と花のアンバランスや動物の畸型を例に挙げて、それでも美しいものは美しいと言っている。“畸型”は“美”の反対概念ではなくて、“完全な共通形状”に対する反対概念でしかない。また完全な均斉を保っている人間でも、美しい人もいれば醜い人もいるというように、バークの議論には説得力がある。
“適合性”fitness もまた“美”の原因とはなりえないものとして退けられる。“適合性”とは「それ本来の目的実現のためによく適合している」ということであり、いわゆる「合目的的な機能美」のことを指す。バークは適合性を持っていても醜いものの例として、ペリカンの嘴の下の大きな袋、豚の鼻づら、像の鼻などを挙げている。
 バークは「胃、肺、肝臓その他各種の臓器はその目的を果たすためには無類に見事に出来上がっているが、それらは美の観念からは程遠い」とも言っている。バークの既成の美学への反論はかなり経験主義的と言えるが、それには理由がある。
 バークが美学の基礎を感覚に置いていることは前に見たが、ひとが美しいと思うのは一瞬のうちにであって知性や思考を働かせた結果ではないということがバークの美学の前提にある。次のような文章はどこまでも正しい。
「我々が或る対象を美しいと感ずるのは、長い注意力と究明の結果としてでは決してない。美は我々の推論の助勢を些かも要請するものではない。そこでは意志すら何の役割も演じない。美という現象は、ちょうど氷や火が身体に触れる時に暑いとか冷たいとかいう観念が生ずるのと同様に、我々の心に或る程度の愛を効果的に生み出すものである」

エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(6)

2015年05月10日 | ゴシック論
 第二編は“崇高”を構成するさまざまな要素についての分析である。“恐怖” “曖昧さ”“力能”“欠如”“広大さ”“無限”“継起と斉一性”“困難さ”“壮麗さ”“光の過剰”“唐突さ”“断続音”などが挙げられ、個々に分析が加えられていく。
 多くの要素が挙げられているが、それらはすべて“恐怖”に収斂していく。“曖昧さ”も“欠如”も“恐怖”の原因となるものであり、バークは次のように書いてそのことを明言する。
「全面的欠如は例えば、空虚、闇、孤独、沈黙等のようにすべて恐怖の種である故にこそ偉大である」
“広大さ”もまた“恐怖”の原因となりうる。広大さの一つの要素である高さについてバークは、高所恐怖に触れているとも言える。
「我々は或る高さの物体を仰ぎ見るよりもそれと同じ深さの懸崖から見下す方が烈しい感動に襲われる」
 あるいはこの言葉は高所愛好に関わるものなのかも知れないが、“崇高”という概念に照らせば、高所恐怖も高所愛好も同じ一つのことでしかない。バークは「恐怖は公然と隠然との違いはあろうが、必ずすべての事例において崇高の支配的原理なのである」と書いて、この問題の逆説性について注意を喚起している。
 つまり“崇高”を生み出す要因が必ず“恐怖”であるのならば、“恐怖”を体感する人間にとって、その“恐怖”が“崇高”というカタルシスに転換される一瞬があるということになる。苦をもたらす恐怖が、苦ではないものに変ずる一瞬があるということでなければならない。
 ただしそれは絵画や彫刻、音楽や文学に関わる場合に特にそうなのであって、その証拠にバークは第二編において、ミルトン、ホラチウス、ウェルギウスなどの詩編を盛んに引用してその例証としている。もともと美学というものは芸術作品受容に関わるものなのだから。
 バークの“崇高の美学”はこのような逆説性において極めて近代的なものであったとは言えるだろう。そこには今日言う“醜の美学”(ローゼンクランツ)をも予想させる部分さえあるのである。


エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(5)

2015年05月10日 | ゴシック論

 第一編は議論展開のための準備作業に費やされる。バークは「苦と快」という概念を最初に提示し“苦”は“快”の除去によるものではないし、“快”もまた“苦”の除去によるものではなく、まったく別のものだと主張する。
 さらに苦は「個人の維持」に関係する情念であって、「あらゆる情念の中で最も強力なもの」とされる。確かに“苦”は個人に対して危険を知らせ「個人の維持」に貢献する重要な感覚である。
一方“快”は「社交一般」に関わる感覚であり、「特定な社交の慣行にかかわる最も強力な感覚」とされる。そして社交には二つの種類があって、一つは男女間のそれであり、それを“愛”と呼ぶ。もう一つは「人間および他の各種の動物との間の大規模な社交」(よく分からない表現だが、男女間のそれ以外の一切ということか)であり、その対象は“美”だという。
 また社交の内部には共感sympathy、模倣imitation、大望ambitionの三つの環が組み込まれているという。そして模倣こそが「絵画その他の様々な快適な芸術のもつ力の主要な基盤の一つ」とされるのである。
 さて、バークはこの第一編ですでに、崇高と恐怖とを次のように結びつけている。
「如何なる仕方によってであれ、この種の苦と危険の観念を生み出すに適したもの、換言すれば何らかの意味において恐ろしい感じを与えるか、恐るべき対象物とかかわり合って恐怖に類似した仕方で作用するものは、何によらず崇高(the sublime)の源泉であり、それ故に心が感じうる最も強力な情緒を生み出すものに他ならない」
 これこそがゴシック小説を論ずるときに持ち出されるテーゼであり、ゴシックの“崇高の美学”を打ち立てるために援用される部分なのである。ここにはゴシック小説の論者のエドマンド・バークの理論への過剰な依拠があるとしか考えられない。
 初めて恐怖というものと崇高という概念とを結びつけた功績は確かに大きいとはいえ、それがそのままゴシック小説に当てはまるとは私は思わない。バークもまたそんなことを想定していなかった。


エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(4)

2015年05月09日 | ゴシック論
 バークは想像力について次のように書いている。
「しかし想像力の場合には我々は、自然的対象の属性から生ずる快苦以外にも、模写が原物と似ていることから知覚される快をも経験しうる。私見によれば想像力が感じうる快で、この二つの原因のどちらか一方から結果する以外の物は存在しない。そしてこれらの原因は自然の諸原理に従って作用して決して特定の慣習もしくは利点にもとづいて引き出されるのではない故に、万人に対してほとんど斉一的に作用するわけである」
 ここで我々は重要なことに気づかなければならない。想像力が知覚する快と苦に関する記述の部分である。バークは「模写が原物と似ていることから知覚される快」と書いている。この言葉について注意深く考察するならば、これは絵画や彫刻などの美術における現実の模写についての言及であって、それ以外ではないことが分かる。
 バークはここで五感のうち、視覚のみを論の対象としている。味覚や嗅覚、触覚にあっては現実の模写などあり得ないからである。かろうじて聴覚に関してそれはあるかも知れないが、現実の音を忠実に再現するだけで“快”が得られるとは思えない。また文学作品における模写というものも考えられるが、言語は五感にのみ関わるものではないし、言語の模写する対象が“原物”であることなど考えることもできない。
 実はバークは『崇高と美の観念の起原』の最後に言語に関わる問題を取り上げ、「詩歌は厳密には模倣芸術ではない」と言っている。このバークの言葉は極めて重要なものと思うが、この問題は後ほど取り上げることにする。ここは絵画についての議論に戻ることにしよう。
 確かにリアリズム絵画や彫刻にあっては、風景や人物が現実そのものであるかのように模写・再現されていることに我々は“快”を感じるのであろう。そのことは認めるが、では抽象絵画に対してはどうなのか? この疑問はバークの論が普遍的なものでは必ずしもないということを明らかにする。
 確かにバークの時代には抽象絵画というものは存在しなかった。現実の風景や人物または歴史的な事績を現実のように描くことしかありえなかった美術の時代であった。いわゆる“ミメーシス”の芸術概念が強固に健在であった時代におけるバークの発言であったのである。だからバークの限界ということはいつでも考慮に入れておく必要がある。

エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(3)

2015年05月08日 | ゴシック論
 では、エドマンド・バークの『崇高と美の観念の起原』を読んでいくことにしよう。この本はバークの今日でも読まれている二著のうちの一つで、もう一つはフランス革命について批判的に論じた『フランス革命の省察』であるという。『崇高と美の観念の起原』はしかも、あのカントの美学にまで影響を与えたと言われる名著であるから、襟元を正して読まなければならない。
 序論として「趣味について」という文章が置かれている。この部分は再版にあたって追加されたもので、美学というものの基本に触れている部分なので、おざなりにすることはできない。
 人間の趣味については「蓼食う虫も好きずき」と言われて、趣味に正しいも間違っているもないとされることがあるが、そうした考え方からは“美学”は決して生まれない。バークが美学の基礎に置くものは、人間における感覚の共通性と想像力の共通性である。
 感覚についてバークは次のように書いてその共通性に根拠を与える。
「我々すべての人間においてはその器官の構造がほとんど或いは全く同一であるが故に、外界の対象を知覚する仕方も万人において全く同一であるかほとんど差異がないと想定せねばならぬし、現にそのように想定している」
 バークは味覚、嗅覚、視覚、聴覚、触覚における快と苦の共通性を例証に、美学の基礎をなす感覚の共通性というものを最初に提示する。まことに用意周到と言わなければならない。
 次にバークが提示するのは“想像力”の共通性である。バークはそれを「事物の映像をそれが実際に感覚に受け入れられたままの順序と流儀で任意に再現することも、或いはこれらの映像を新しい流儀で異なった順序に従って結合することも可能である」、さらには「想像力の力能は絶対的に新しい要素を生み出すことはできない」と書いていることから、我々が今日イメージする“想像力”とは若干ニュアンスが異なっていることに気づくだろう。
 バークの言う“想像力”は我々が考える“想起・再現力”とでもいうもので、それは記憶に関わる能力であって、存在しないものをも想念の中に生じさせるあの“想像力”とは違っている。


エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(2)

2015年05月08日 | ゴシック論
 野島秀勝はその「英国ロマン派とゴシック小説」という文章(国書刊行会『城と眩暈~ゴシックを読む』所収)で、エドマンド・バークの言う「崇高と美」について次のように要約している。
「バークは「美」とは小さなもの、女性的なもの、ひとの心を「満足させるplease」ものと規定し、それに対して「崇高」とは巨大なもの、男性的なもの、ひとの心を「畏怖させるものterrible」と定義している」
これまで混同されていた“崇高”と“美”の観念を区別し、“崇高”の観念を畏怖や恐怖と結びつけて捉えたのは、確かにバークの卓見であった。それがゴシック小説について考えるときに極めて便利な思考装置として働くのである。
 野島秀勝もまた「英国ロマン派とゴシック小説」の中で、イギリスロマン主義からゴシック小説に至る流れを“崇高”の概念を使って交通整理している。ロマン主義はアルプスの巨大な自然の風景に“崇高”を求めたし、ゴシック小説は中世の古城、廃墟、修道院、地下牢などに“崇高”を求めたのだとされる。
 エドマンド・バークは前回にも書いたように、決してゴシック小説を念頭に置いて『崇高と美の観念の起原』を書いたわけでもないし、ゴシック小説のもたらす“恐怖”を“崇高”と関連づけたわけでもない。まだ最初のゴシック小説『オトラント城奇譚』は書かれていなかったのだから。
 にも関わらず、バークの議論がゴシック小説を考えるときに有効に働くように思われるし、多くの論者がバークの議論を持ち出すのはなぜなのだろう。それによってゴシック小説に一定の権威が与えられるのは確かである。
 しかし私は、ゴシック小説に“崇高”という形容詞を与えることに躊躇をおぼえないわけにはいかない。その多くは俗悪であり、通俗的であり、“崇高”とはほど遠いものがあるからだ。“崇高”という日本語と
“sublime”という英語の間に見過ごすことのできない齟齬があるような気がする。
 あるいはゴシック小説とバークの美学を結びつけて考える論者が間違っているのか、さらにあるいはバーク自身が間違っているのか、ということも視野に入れて考えてみなければならない。

小池滋、志村正雄、富山太佳夫編集『城と眩暈~ゴシックを読む』(1982年、国書刊行会「ゴシック叢書」の第20巻として刊行)

エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(1)

2015年05月07日 | ゴシック論
 これまで「ゴシック的」という言葉をいささかの定義もなく使ってきたが、気がとがめることもある。そんなときはゴシックについての研究書や理論書を読むことにしている。
 ケネス・クラークという人の『ゴシック・リヴァイヴァル』という本が翻訳されている。この本は建築様式としてのゴシックが、18世紀後半から19世紀にかけて、イギリスでどのように復活されたかというテーマのもとに書かれたもので、建築に興味のない人間にとっては、さして面白い本ではない。
 ただし、この本に出てくる二人の人物、ホレース・ウォルポールとウイリアム・ベックフォードがどのようにゴシック・リヴァイヴァルを先導したか、という点に関しては興味深い部分がある。
 クラークは「ゴシック建築が文学的な趣味に影響を与えた」のではなく、その逆であるという。つまり、ゴシック・リヴァイヴァルは「新しい趣味の潮流として、文学の分野において最初に」現れたというのである。
 最初のゴシック小説を書いたウォルポールとそれに続いたベックフォードの果たした役割の重要性についての指摘とは思うが、クラークはこの二人の作品については殆ど触れていない。
 触れているのはウォルポールが築いた廃墟趣味とゴシック趣味に徹したストロウベリ・ヒルという名の邸宅と、ベックフォードが造らせた同じく廃墟趣味とゴシック趣味のフォントヒル・アベイという名の修道院=邸宅についてであって、クラークのテーマは建築に特化しているのだ。
 ところでケネス・クラーク(1903-1983)は20世紀の人だが、18世紀にもっと重要な理論家がいる。エドマンド・バーク(1729-1797)がその人である。バークが28歳で書いた『崇高と美の観念の起原』A Philosophical Inquiry into the Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful(正確には『崇高と美についての我々の観念の起原の哲学的研究』)という美学の書についての言及が、ゴシック小説を論じた文章の中に頻繁に出てくるのである。
『崇高と美の観念の起原』は1757年に刊行されたものであるから、ウォルポールの『オトラント城奇譚』(1764)よりもやや古い本であり、バークがゴシック小説を念頭に置いて書いたわけではまったくない。
 あるいはウォルポールがバークの美学に影響されたという事実もなければ、他のゴシック作家達が影響を受けたと言うことも考えられない。
 ところが不思議なことに、研究社が出している「英国18世紀文学叢書」の第四巻にはウォルポールの『オトラント城奇譚』とバークの『崇高と美の観念の起原』が一緒に収載されているのだ。なぜなのだろう。

ケネス・クラーク『ゴシック・リヴァイヴァル』(2005年、白水社)近藤存志訳
エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(1999年、みすず書房)中野好之訳


E・T・A・ホフマン『悪魔の霊酒』(10)

2015年05月06日 | ゴシック論
『悪魔の霊酒』が『マンク』と同じように、修道士が若く美しい女性に禁じられた欲望を差し向けることに発する物語であるとすれば、“自己の中にあって自分で制御できないもの”とは、その欲望に与えられた名前でなければならない。
 俗世間にあってはそれは禁じられてはいないが、修道院にあってはそれは当然禁じられているのであって、禁じられているからこそそれは制御できないものとなる。“聖アントニウスの誘惑”とは禁じられた欲望の代名詞なのである。
 また、ゴシック的空間とはその閉鎖的な空間性(“閉ざされた庭”とも呼ばれていた)によって欲望を閉じこめる場であると同時に、それを制御できないものに増幅させていく場でもある。そのような場所から当然のように悪魔は生まれ出てくるのである。
 メダルドゥスが分身に対して「おまえなんかわたしじゃない。お前は悪魔じゃないか」と叫ぶのは、“自己の中にあって自分で制御できない欲望”が“わたしのものではない”ということ、それは“悪魔のものだ”と言うことを言いたいがための抗弁なのである。
 ヨーロッパの宗教的世界観が打ち立ててきた「霊肉二元論」と言われるもの、それこそが“分身”というものの起源にあるのだということがここで言いうるものとなる。“悪魔”という存在の起源についてもまた同様なことが言えるだろう。
“霊”を支配するものは神であり、“肉”を支配するものは悪魔である。さらには霊は“肉の牢獄”に閉じこめられていて、自己の中で解放を待っている何かなのであるという考え方、そうしたヨーロッパ的思考が“分身”を生む土壌を形成している。
 だからゴシック的世界は「霊肉二元論」の世界を極端なまでに推し進めた世界であるということも言える。それが今日まで命脈を保っているのだとすれば、“自己の中にあって自分では制御できないもの”が、今日でも我々の中でうごめいているからに他ならない。
(この項おわり)

E・T・A・ホフマン『悪魔の霊酒』(9)

2015年05月06日 | ゴシック論
『悪魔の霊酒』という作品の中で最も成功している部分は、間違いなく分身の出現に関わる部分だと思う。最初の出現は“声”だけのそれである。谷底に落ちたヴィクトリーンと間違えられてメダルドゥスが答える場面。
「「そいつなら、さっき谷底に放り投げてしまった」
と、私の内部から虚ろで鈍い声を出して答えるものがあった。という言い方をするのも、そのときこの言葉を発したのはわたしではなかったからで、その言葉は意志にはかかわりなく唇から逸走したのだ、としか言いようがない」
 メダルドゥスにとって分身は自身の内部の声として最初に認識される。ヨーロッパ的世界にあって、分身はほとんどこのように自己の分裂という形で訪れる。自身の中にあって自分では制御できないもの、それこそが分身の萌芽である。
 日本にも少ないとはいえ分身譚がないわけではない。たとえば泉鏡花の『春昼』『春昼後刻』という作品では、観音堂の客人が夜、祭り囃子に誘われて裏山に出ると、自分の分身が恋する玉脇みをの背中に○△□を描くのを見る場面がクライマックスとなるが、この分身は禁じられた欲望を仮託された存在であって、自己の分裂に起因する分身ではない。
 だからこの作品で客人は分身と直接対面することはない。しかし、ヨーロッパの幻想文学世界では、分身との決定的対面が分身譚の恐怖を惹起する主要な要因となる。ポオの『ウィリアム・ウィルソン』もそうだし、ホッグの『悪の誘惑』もそうである。自己分裂がなければ分身との対面はあり得ないわけだし、対面がなければ分身譚そのものの強度が失われてしまう。
 ホフマンの『悪魔の霊酒』でも対面が何度も繰り返される。その描き方がホフマンの場合とくに生々しく、臨場感があると言えるだろう。メダルドゥスが悪夢の中で分身と対面する場面。
「そのとき、ドアが開いて暗い姿がひとつ忍び込んできた。驚いたことに、見ればそれは、わたしじしんではないか」
 そいてメダルドゥスは分身に向かって叫ぶ。
「『おまえなんかわたしじゃない。おまえは悪魔じゃないか』
と、わたしは金切り声をあげ、猛獣が蹴爪で襲うみたいに、脅かそうとする幽霊の顔面に掴みかかった。ところが、わたしの指はその両眼をえぐったのだが、まるで深い洞穴につっこんだような手応えしか感じられず、姿はつんざくような声であらためて笑い出すばかりであった」