ここで挙げられているのがすべて、女性が持っている性質であることに気づくのは難しくない。訳註によればこの本を書いている頃、バークは恋人に求愛中であったというから、間違いなく経験に基づいて書いているのだ。
“漸進的変化”とは何かというと、バークによれば「如何なる突然の突出にも出会わないが、それにもかかわらず全体は絶えず変化している」ものなのである。バークはその例として女性の「肩から乳房への部分を観察してみよ」と読者に呼び掛けているが、その頃バーク自身が女性の体をじっくり観察する機会があったものと思われる。
第三編には“醜”についての短い一節がある。バークは次のように書いている。
「私はまた醜が崇高の観念と充分に両立しうると想像する。しかし醜それ自体は、それが強い恐怖を呼び起す性質と結びつかぬ限り崇高な観念であると私は思わない」
ここにもゴシック小説を論ずる時に依拠したくなる議論が見られるし、前に言った“醜の美学”を予感させるものがあるが、ここはひとまず保留しておく。
第三編の最後でバークは崇光と美の比較を行っていて、「実際この両者は一方が苦に依拠し他方が快に依拠する点で全く相反した本性の観念である」と書き、崇高と美が相容れないものであることを強調している。
さらにバークは崇高と美が時折結合していることがあることを認めているが、それでも両者が同一であることはないと言っている。みすず書房版『崇高と美の観念の起原』のカバーには、ピラネージがローマの廃墟を描いた作品が使われているが、このような作品にこそ崇高と美の結合が顕著に見られるだろう。次に考えてみたいのはそのような絵画作品についてである。
ピラネージ〈ローマの景観〉より〈コロッセオ内部〉