戦争映画(ドラマ)について考えた。
近年の日本映画(ドラマ)の多くは、銃後における物心の被抑圧生活しか描かずに、主人公は押しなべて非戦論者で戦争に駆り出される被害者に設定されている。これは、一面では先人・祖先の否定に繋がる自虐史観の反映ではないだろうか。大東亜戦争誘発の陰に、大陸への雄飛と真のアジア民族団結を志した国民の熱情があったことを忘れていると思われる。帝国憲法下でも、曲りなりに民主主義が機能し、普通選挙(女性の投票権はまだなかったが)による帝国議会と議員内閣奉答の下に開戦が決定されたのである。日本映画では、国民の知らない・関与しないまま戦争に突入したかの扱いであるが、開戦を決議した議員を選出したのは成人男子の多数意見であったことを忘れてはならない。大多数の国民感情が『米英撃つべし』、『座して死を待つより戦争による打開』であり、開戦決定を後押ししたことは事実であると思うし、兵士となった国民も祖国日本のために勇敢に戦ったのである。このような時代背景を無視して、我々の祖父母・父母の時代に生きた国民は、全て反戦・非戦主義者で、国の存立よりも個人の安寧を求めつつも止むを得ず戦場に赴かざるを得なかったとする設定には、違和感を感じずにはいられない。
江田島の参考館、知覧・鹿屋の資料館、大和記念館等々には、航空・海上特攻、地上戦、技術開発等の愛国の歴史がまだ残されている。70数年前の日本人は、国の存亡を懸けて前線・銃後を問わずに、あらゆる場面で勇敢に戦った事を忘れてはならないと思う。