一部の識者から、軍人・元自衛官のテロという僅かな共通項を基に、二・二六や五・一五の再来を危惧する主張がある。
二・二六や五・一五は明らかな政治色を帯びたテロルで、今回の私怨絡みの犯罪とは全く異なるものと思うが、一部の識者にとっては全てを同一視することが反軍のテーマとして適当であるという選択によるものであろうか。
二・二六や五・一五に対して、一般的にはクーデターと理解され、極端には馬鹿な軍人の暴発と見られているが、自分は、両方のテロ事件は世界共通のクーデター概念とは異なるもので、社会主義的な格差是正・構造改革を要求する過激デモに近いものと思っている。
旧制中学においては「成績1・2番は海兵・陸士に、3番目は帝大に」が一般的で、優秀な人材は陸海軍に集中していたように思う。東大入学者と云えば陸士・海兵志望者の後塵を拝した、若しくは身体的理由から止むを得ず東大に進学したという状況にあり、当時の日本を牛耳っていたとされる内務省官僚も、陸凱軍のエリートには及ばないという負い目を感じていたのではないだろうか。
一方、当時の世相は都市と農村の格差は拡大し、かつ徴兵によって働き手を失った小作農家の疲弊は極限に近付いていたように思われる。
通常、クーデターにおいては政権掌握を企図する者が起こしたり、最低でも擁立する指導者について明確であるが、両事件の首謀者が貧農次三男の応召兵家族の窮状を身近に感じていた大尉&中隊長クラス以下の階級であったことは、決起・発起の理由が自身の栄達よりも富の再配分による格差是正と都市偏重の構造改革を求めるものであることを示している。現に彼等の主眼は「君側の奸を除く」であり、民の窮状を放置しているとともに自分よりは数等下位の思考・判断力しか持たない政治家・官僚を粛清すれば、決起の真意は上聞に達して「今よりは数等ましな・国民の窮状に対して有効に対処」できる政権・指導者が配されることだけを期待している。
二・二六や五・一五による構造改革の目論見は潰えたが、富国強兵の根幹である農村を建て直すための次善の策である「新たな農地を獲得するための大陸進出」は敗戦という形で幕引きとなるまで継続したと思っている。
彼等の目指した構造改革が、戦後のGHQによる農地改革や財閥解体で実現したのは歴史の皮肉であるが、二・二六や五・一五首謀者の主張をもう少し冷静に分析すれば、大東亜戦争は起きなかった、若しくは形を変えていた可能性がある。
安倍元総理の災禍を二・二六や五・一五の再来と危惧する主張に同根・並行して、現在を昭和初期の閉塞的状況と同様に見立てる主張も見られるが、単眼的に「戦力拡大反対」の一点に絞るのではなく、政治家が汲み取らない国民感情という側面からも眺めて欲しいものである。