小学生の頃、図書室の隅で橘大隊長奮戦記という冊子を読んだ記憶がある。長じて静岡で勤務していた時に、陸自板妻駐屯地で橘大隊長の銅像を見かけた。昨日のブログ作成の過程で橘神社の存在を知るとともに、名前が「周太」であることを初めて知った。
小学生以来70年の時を経てであるが、橘周太氏とは?とWikipediaで調べてみた。曰く《慶応元(1865)年現在の雲仙市生まれ、明治20年陸軍士官学校卒業、東宮武官、歩兵第36連隊中隊長、名古屋陸軍地方幼年学校長などを歴任し、明治37(1904)年2月9日の日露戦争開戦にあたっては新設の第2軍管理部長、同年8月11日に歩兵第34連隊第1大隊長に転出、8月31日の遼陽の戦いで戦死し同日付で陸軍歩兵中佐に特進、勲四等旭日小綬章及び功四級金鵄勲章を賜わり、以後軍神として尊崇される。官位は陸軍歩兵中佐正六位勲四等功四級》と書かれていた。
戦死に至る奮戦の詳細は未だ不明ながら、戦死が大隊長拝命後わずか20日であることを思えば、指揮下の各中隊長の能力や大隊の戦闘力も十分に把握できていない状況下で金鵄勲章を賜るほどの奮戦指揮を成し遂げられたことに大いなる尊敬を奉げるものである。
補給艦乗艦中に雲仙普賢岳噴火対応の待機を命じられた。事前調査として橘湾を事前偵察したが、この橘湾は元々「千々石灘・千々石湾」と呼ばれていたものを、1919(大正8)年の橘中佐銅像建立時に橘湾と改称するよう申請し、海図作成の海軍水路部が正式に橘湾と記載するようになったものであることも知った。
さらにWikipediaには、《橘中佐は漢詩を良くし名古屋陸軍幼年学校校長時代は自ら教壇に立って漢文を弁ずることもある教育熱心な軍人で》とも書かれ、人物紹介欄には陸軍軍人・漢学者と紹介されるほど文武両道に秀でた人物であったらしく思える。
橘大隊の奮戦の詳細以外は小学生以来の疑問の一部を理解し得たが、銅像拝観・橘湾航海を思えば、橘中佐は自分の経歴とも幾分に交差していることを知った1日であった。