中居正広氏が芸能界を引退した。
引退せざるを得なくなった中居氏の女性問題の詳細は知らないので、的外れであるかも知れないが、報道と民情に関する所感を忘備録として残すことにした。
中居氏の引き起こした女性問題とは、中井氏側が女性に9千万円の和解金(=慰謝料?)を支払うことで双方が納得していたものの、後日に週刊誌が報道したことで注目され、紆余曲折の末に中居氏の引退で幕が引かれることになったと理解している。
世間の耳目を集めた騒動ではあっても、双方が和解した案件について中居氏を引退に追い込むほどの報道は行き過ぎではないだろうか。例としては適当でないかも知れないが、刑事事件で刑期を終えた出所者に、前科者として刑罰以上の報復を求め、最終的に社会から排除することに似ているように思える。
前科者の社会復帰に対して多くの報道機関は、社会全体で支援し社会からの爪弾きを諫める論調であるが、今回の報道を眺めると、金太郎飴的に中居氏側糾弾に終始し中居氏を擁護するものは無かったように思う。
長年連れ添った夫婦が一方の不実で離婚する場合も財産分与を別にすれば慰謝料部分が百万円単位であることを思えば、9千万円の慰謝料は将に破格であるように思える。更には、世間的に慰謝料と云う制度・慣習は、犯罪に至らぬ不実をチャラにする意味合いを含んでいると思うので猶更に思える。
斎藤兵庫県知事叩きも、報道機関の”悪人レッテル”張りは金太郎飴的で斎藤氏の行政手腕や業績に触れて擁護する報道は皆無であったが、出直し選挙で兵庫県民は行政実績を高く評価し斎藤氏を擁護した。この時も、マスメディアの大衆迎合的報道が的を得ていないと批判されたが、今回の報道姿勢にも同様な匂いを感じるのは自分だけであろうか。
報道関係者にあっては、何のために報道するのか?、真の社会正義を求めてなのか?世間が注目するからバスに乗り遅れないための報道ではないか?との自問・自省を忘れないで欲しいと思うものである。
報道関係者にあっては、何のために報道するのか?、真の社会正義を求めてなのか?世間が注目するからバスに乗り遅れないための報道ではないか?との自問・自省を忘れないで欲しいと思うものである。
一方、読者・視聴者も、テレビや新聞が”言っているから”・”書いているから”、”そうに違いない”との考えは捨てる時代に来ているよう思う。