もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

星野哲郎氏と「なみだ船」

2022年01月30日 | 芸能

 作詞家の星野哲郎氏(1925(大正14)年-2010(平成22)年に対する讃歌である。

 山口県柳井市沖合の屋代島(現・周防大島町)に生まれ、1946(昭和21)年に清水高等商船学校(現・東京海洋大学)を卒業し、日魯漁業(現・マルハニチロ)に入社して遠洋漁船の乗組員となるが、腎臓結核のために下船、腎臓を摘出して郷里での闘病生活を余儀なくされる。
 闘病中に作詞を勉強し、1958(昭和33)年「横浜開港100年祭記念イベント」に応募した「浜っ子マドロス」が1位となり、このイベント審査員をしていた船村徹に誘われる形で上京し音楽活動を本格化する。その後、星野・船村はゴールデン・コンビとなって、数多くの名曲を世に送り出している。
 星野氏の実体験をベースにした独特の世界観は「星野節」と称され、演歌を中心に4000曲以上の詩を送り出しているが、演歌以外にもスリー・キャッツの「黄色いさくらんぼ(曲・浜口庫之助」などの作詞も手掛けている。また「星野哲郎」以外にも、有田めぐむ・阿里あさみ・菅野さほ子・橘真弓・古木花江・高原美湖・くぬぎ文平・金井さち子など多くのペンネームで、星野演歌とは一線を画す作風の詩も発表している。
 星野氏は、自分の作品を演歌とは呼ばずに、遠くにありて歌う「遠歌」、人との出会いを歌う「縁歌」、人を励ます「援歌」などと称していたそうで、「歌詞は出だしの2行で決まる」を信念としていたとされるが、その真骨頂が「なみだ船(北島三郎)」と「みだれ髪(美空ひばり)」ではないかと思っている。
 北島三郎の出世作(事実上のデビュー曲)である「なみだ船(曲・船村徹)」は、1962(昭和37)年に発表されたが、冒頭の2行は「涙の終わりの一滴 ゴムのカッパにしみとおる・・・」で、大方の人やワークマンの高性能カッが当然の世代には通じないだろうが、当時のゴムカッパは5㎏近い重量があるものの、防水性・通気性が悪く、10分程度の洋上作業で汐水に塗れた感触であった。
 美空ひばりの復帰第一作である「みだれ髪(曲・船村徹)」では、「春は二重に巻いた帯 三重に巻いても余る秋・・・」として、恋やつれの半年間を2行に凝縮描写している。

 「なみだ船」を知ったのは、坂出港に停泊中であった。一杯飲み屋で覚えた「なみだ船」を、タクシー代など無いために塩田沿いの道を歩きながら歌って帰艦したことを今でも懐かしく思い出す。
 また、星野氏の故郷である屋代島は、昭和18年に戦艦「陸奥」が爆沈した柱島泊地の一部であるが、星野氏は商船学校在学中であったことから目撃はされていないだろうと推測している。屋代島沖合は海自艦艇もたびたび錨泊する場所で、かっては、錨泊した艦に漁船が名産のミカンを積んで売りに来たことものである。

 最後に、前述以外の詩の一部を紹介すれば、
〇小林旭:自動車ショー歌、昔の名前で出ています
〇真木ことみ:北の一番船、さよならの駅、十年坂(曲・原譲二(北島三郎)
〇鳥羽一郎:兄弟船


最新の画像もっと見る

コメントを投稿