もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

あゝモンテンルパの夜は更けて

2023年07月25日 | 芸能

 モンテンルパ収容者の帰還70周年記念の会が行われたことが報じられた。

 小学校低学年の頃、ラジオから流れる渡邊はま子さん(1910(明治43)-1999(平成11)年)の『あゝモンテンルパの夜は更けて』を聴き、子供心にも感じるところがあったのだろうか、今も全体のメロディーと1,,2小節の歌詞はそらんじている。
 報道を読んで、あれから70年も経ったのかと思うと同時に、既に帰還者の全員が亡くなられた今も「モンテンルパの会」が続いているのを奇跡と感じた。
 改めてWikipediaの解説を要約・引用すると
 《1952(昭和27)年1月、渡邊はま子さんは、フィリピンのモンテンルパ市のニュー・ビリビッド刑務所に多数のBC項戦犯訴追者が収監され、既に14人が処刑されたことを知った。渡邊さんは、「戦後7年も経つのに」との思いから、銀座の鳩居堂から香を同刑務所宛に送ったところ、6月になって渡邊さんに楽譜と短い手紙が入った一通の封書が届けられた。それが、「モンテンルパの歌(原題):代田銀太郎作詞、伊藤正康作曲」であった。渡邊さんは、早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込み、題名は「あゝモンテンルパの夜は更けて」と改められて同年9月に発売され、20万枚のヒット曲となった。
 同年12月、渡辺さんはニュー・ビリビッド刑務所を慰問されたが、国交が無いフィリピン政府に戦犯慰問の渡航を嘆願し続けて半年後の事だった。
 その後、この歌のヒットや渡邊はま子さんを始めとする努力がフィリピン政府を動かして、1953(昭和28)年7月、フィリピンのキリノ大統領による独立記念日特赦によって、収監者108名全員の日本への帰艦が実現した》となっている。

 驚くべきは、渡邊さんが日本人の収容を知った9か月後に楽曲発売、11か月後に慰問実現、1年半後には恩赦・帰還が実現したというスピードである。
 A項戦犯の東京裁判は、既に1948(昭和23)には結審・判決・執行が完了していたこともあって、当事者や親族以外は戦犯・収容者に対して目が向いていなっかであろうし、メディアも同年(1952(昭和27年)4月のサンフランシスコ講和条約のほうに関心が移っていたものと思える。
 この渡邊さんの活動は、モンテンルパの会以外では語られることも少なくなっているが、スピード感と熱情は広く語り継がれるべきものではないだろうか。
 渡邊さんが歌手活動の功績によって1973(昭和48)年に紫綬褒章を受章された後、1981(昭和56)には勲四等宝冠章を受勲されているのは、この行動によるものであったのではないだろうか。


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