国民民主党の党首選に立候補した玉木党首と前原議員の主張を読んだ。
玉木党首は、特定の政策実現のためには政権与党と一部協調する現路線を踏襲し党名の変更も視野に入れるとしているのに対し、前原氏は反自公・野党共闘を絶対とする立民的・旧民主党的姿勢の堅持を主張されている。
両者何れが党首選を制するのかは不明であるが、昨今の立民の退潮傾向を見る限りでは、所属議員や党員の考えも玉木氏に似て変化しているのではないだろうかと思っている。閑話休題。
野党の存在価値は何だろうかと問いかければ。多くの人が「政権与党を監視し、暴走を阻止する」と答えるであろうが、果たして正解だろうか。
東日本震災の発災直後に野党であった自民党の一部から「与野党一体化しての震災対処」が提唱されたことがあった。結果的には政権与党であった民主・社民党が単独で対処し野党は関与しないという従来型の手法で推移したが、その理由は与野党ともに「協調震災対処がうまくいった場合には相手の手柄になる」ということであったと報じられたことを記憶している。
「手柄云々」は置いても、与野党の壁を取り払った行動では監視機能が働かなくなって、間違った方向に猪突する危険性があるので、震災対処の巧拙・功罪はともかく震災後にも野党の政権監視機能が残ったことだけは評価すべき様にも思える。
1940(昭和15)年、結社を禁止されていた党を除く全ての政党が解散して「大政翼賛会」という政治結社に合流したことがある。迫り来る国難に対して国民の総力を結集するためであったが、政党解散・大政翼賛会参加を決めた議員の多くが、いわゆる「バスに乗り遅れるな」・「勝ち馬に乗り遅れるな」という保身の原理であったとされている。しかしながら、国会内では依然として旧政党に準じた院内会派が存在していたために大政翼賛会は必ずしも一枚岩では無かったとされるものの、翼賛会に参加した議員は自縄自縛に陥って立法府・特に野党が行うべき政権監視は機能しなくなったとされている。これを以て自分は、大東亜戦争の勃発は「軍部の暴走」と一刀両断することを懐疑し「戦争勃発は軍人のみに負わせるべきでなく国民の全てに責任がある」とする論拠としているが、野党の存在価値を失った恒例とも観ている。大政翼賛会は、終戦が迫った1945(昭和20)年6月に解散したが、既に国会・政治家の行う舵取りが力を発揮できない状況となっており、政党の存在価値をも失っていたと思っている。
玉木氏・前原氏の何れが党首となっても、有権者は「どの様な形であれ自分の一票が政策として実現できること」を求めているので代議士として「その代弁者」でなければならないという原則を肝に銘じて欲しいと願っている。
両候補には、投票率の低下は政策を置いて政争のための首狩りや口撃に浮身をやつす委員会審議に辟易していることの表れであることを訴えたい。