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もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

嫉妬心を学ぶ

2023年08月21日 | 世相・世論

 産経新聞に掲載された、精神科医の和田秀樹氏へのインタビューで「嫉妬心」が解説されていた。

 自分は、「嫉妬」の英訳は「ジェラシー」と思っていたが、精神分析学では嫉妬には二つ(又はそれ以上?)の概念があるらしく、氏の解説を抄訳引用すると、
《ジェラシー:自分より勝っている人間に追いつき・追い越そうという心理で向上心をもたらすプラスの一面を持つ》
《エンビー:相手に自分より勝っている点を見つけた時、破壊したいという衝動を抱く心理》
とされている。
 氏はさらに言を次いで《戦後復興や高度成長を成し遂げた背景には、米国より・他人より「豊かに成ろう」、「偉く成ろう」というジェラシーを国民全体が共有していたが、政治家の子は政治家に、豊かな家庭の子は豊かに・偉くなるという階層の固定化が定着してきた現在では、エンビーの要素が大きくなって「他人の足を引っ張ることをためらわなくなった》ともされている。
 我が身を振り返れば、お金持ち・頭脳明晰者・イケメン・絵の巧者・・・に対して羨望を超えて人一倍以上の嫉み心を持っているが、努力嫌いでとうの昔にジェラシーは忘れ、近年ではエンビーさえ放つ気力を失っている。
 氏はエンビーの要素が疑われる例として「松川訪仏団へのバッシング」を挙げておられる。バッシング理由の多くは「税金・公費の無駄遣い」とするものであるが、党費=税金という数式は必ずしも正確でないことから主張の根底には「恵まれた人への攻撃」というエンビーが少なからずあるのではとされている。氏の名誉のために付け加えると、氏は文中で「訪仏団の行動は不適切ではあるが」とされている。

 社会から祝福されたり同情されたりした人に対して誹謗中傷を投げつける人、他人の高級車を傷つける人・・・。共通するのはそれらを発奮材料とするジェラシー嫉妬よりも壊してやれというエンビー嫉妬であるのかも知れない。
 そういえば、大臣のウナギ弁当を糾弾した議員がいたが、エンビーに突き動かされた「足の引っ張り」と観れば納得できるようにも思える。


2党1会派の改憲意欲に思う

2023年08月20日 | 憲法

 維新・国民両党と衆院会派「有志の会」が改憲に向けて協調すると報じられた。

 衆院会派である「有志の会」は総勢5名の小会派であるが、先の総選挙後の2021年11月に結成され、5人ともにかつて民主党・民進党・希望の党に所属した経験があるとされている。
 メンバー(敬称略)は、吉良州司(代表、大分1区)、北神圭朗(京都4区)、緒方林太郎(福岡9区)、福島伸享(茨城1区)、仁木博文(徳島1区)で、当選回数も6~2回と既に中堅議員と呼ばれる諸氏である。
 また、彼等の選挙区を眺めると、保守有利とされるのは徳島選挙区くらいで、民主党の系譜に連なる政党に属した方が当選する確率は高いように思えるが、立憲民主党などに加わらないのは、所謂「旧民主党の鵺政策と何でも反対への愛想づかし」によるものであろうか。
 歳時記的な内閣不信任案には反対するなど、小なりと雖も独自の路線を五分の魂で貫いている姿勢は、政治家のあるべき姿を示しているように思える。
 今回の2党1会派による改憲協調行動は、現憲法が時代の趨勢から取り残されている現状を理解した政治家であれば当然すぎる選択であるように思う。
 護憲主張者の多くは「改憲=9条改正」と短絡的に捉えているが、人権や教育などを眺めても1世紀近く前の条文が古色蒼然として時代にそぐわないものであるのは一目瞭然である。同性婚を認めよと主張するならば、「性」にまつわる憲法条文を改正すれば解決でき、大学無料化を目指すには「義務教育以外の国家関与否定」条項を廃止すれば良い。

 しかしながら、最も解り難いのは9条であるのは間違いない。9条は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と高らかに謳って、現行の「一定のルール下での戦争・武力行使を認めた国際法や国際慣例」とは決別するという、全く新しい概念で書かれている。そこには「侵略戦争」を否定するが「自衛戦争」は容認するという概念が入り込むことは不可能で、「例え武力侵攻を受けても戦争・武力行使をしない」と宣言しているのである。
 自衛隊を保有するに際して、政府は「自衛の戦争は国際法が認めている」という苦肉の解釈をしたが、戦争に関する国際法と国際慣例を否定しながら、自らが否定した国際法に準拠するという論は成り立たない。
 護憲を主張する社民党は「9条堅持、自衛隊違憲」と憲法の趣旨に忠実であるので当然の帰結として「自衛のための戦争も否定」であり、論としては成立する。
 同じく護憲を主張する立憲民主党は「9条は堅持するが自衛隊は合憲で専守防衛の範囲での戦争容認」を現実的選択と糊塗しているのは論として破綻しているのみならず、この行為は「現実の前には憲法の理想と条文を無視する」ことを公然とするに他ならない。野党第1党として政権与党を監視すると胸を張りながら、憲法無視に関しては政権与党と「同じ穴の狢」に堕しているのではないだろうか。


上げ馬神事に思う

2023年08月19日 | 歴史

 神事が動物愛護の波に曝されていることが報じられた。

 神事は、三重県桑名市多度町の多度大社で奉納される「上げ馬神事(県無形民俗文化財)」で、既知の人にとって蛇足ながら、神殿前の緩やかなスロープの前方に設けられた高さ2mの土塁を人馬一体で駆け上がり、その成功回数によって豊凶を占うというもので、700年の伝統があるとされる。
 動物愛好団体等から「動物虐待」と批判されるのは、4年ぶりとなった今年5月の神事で転倒・骨折した1頭が殺処分されたことが大きい様である。
 文化財保護に任じる三重県教育委員会が、平成23年に多度大社に「動物愛護管理法の順守や馬を威嚇する行為の根絶」、「人馬に対する安全管理の徹底」を勧告したが、今回の事象で再度の改善勧告となったとされている。
 県教委は「文化は時代の考えや世相に応じて柔軟に形を変える必要がある」と述べているが、大きな違和感を持つ。伝統文化とは「発祥時の骨幹を変えないからこそ意味を持つ」もので、世相に応じて骨幹を変えてしまえば全くの別物になり伝統文化とは呼べない「単なる所作のショウ」になってしまうと思う。700年前の神事発祥時には、庶民にとって宝物として愛しんでいる馬をさえ神に捧げることで豊穣を祈願・期待するという切実な願いが込められていただろうことを思えば、神に縋らざるを得なかったった時代を語り継ぐためにも、動物愛護と云うお涙頂戴に妥協して良いものだろうか。
 動物愛好家のいう動物愛護に対しても異見を持っている。
 競馬をロマンとする意見は多いが、サラブレッは果たして動物愛護の環境下に置かれているのだろうか。
 日本でのサラブレッドの生産頭数は年間約7,000頭で、9,000頭以上の繁殖牝馬から生まれているとされる。現在JRA(日本中央競馬会)に登録されている競走馬は約500頭で5歳まで走るとすれば年間所要を満たすには100頭~200頭で、幾ばくかの繁殖牝馬を残して残りの6,000頭以上は競馬場で走るという本来を果たせないままに姿を消す。また、デビューしたものの成績を残せずに姿を消すことも多いが、その行方については「各地の乗馬クラブなどで安逸に余生を過ごす」と美化されているものの、乗馬クラブの数からそれら全てを受け入れられるべくも無く、屠畜され馬刺しになっていることを皆な知っている。人間の欲望によって、走ることにのみ特化されたサラブレットを機能不十分として屠畜するエゴは、果たして動物愛護の目的に合致しているのであろうか。

 闘犬・闘牛(角突き)のために育てられる犬や牛は、飼育者から我が子のように育てられると聞くので、真の動物愛護の下に育てられていると思う。
 上げ馬神事の馬もおそらく同様で、そうであるからこそ過酷な土塁越えにも飼い主・騎手を信じて人馬一体で挑戦しているように思えてならない。
 時代は進化するが、伝統文化を含む全てを移り行く折々の価値観に迎合するのではなく、「変えるべきもの」と「変えてはならないもの」を峻別しなければならないように思う。食糧危機に陥った100年後の人は上げ馬神事の映像を観て、動物虐待と見るよりは「あんな高価な動物性タンパク質があれば○○人の飢えが救えるのに」と思うかもしれないではないか。


ブートゥールの学説を知る

2023年08月18日 | 歴史

 面白いと書けば顰蹙を買うだろうが、ユニークな学説を知った。

 産経新聞「正論」欄で、東京国際大学の村井友秀特命教授が引用しているフランス社会学者のブートゥールの学説(我流で抄訳)《飢饉で何も対策しなければ、弱者(女子供)が死に強者(男)が生き残るので構成員間での再生産能力が失われて集団は消滅する。そうならないためには、女子供は生き残って男が死ぬことが必要となるので、種の生存本能が働いて男が先に死ぬ手段として戦争は起きる》というものである。
 何時頃唱えられた学説であろうかと「ブートゥール」と検索したが見つけられなかったが、おそらく「戦争は男が行なうもので、その場合も非戦闘員は殺さない」という騎士道精神の一片が残るとともに、爆撃機等による非戦闘地域への無差別攻撃などが無かった第一次世界大戦以前であろうが、大量殺りく兵器が支配している現状では書架の説と捉えるべきかも知れない。
 しかしながら、かってフツ族とツチ族が主導権争いを演じたルワンダ内戦では、相手の男と子供は殺し女は生殖・育児の機能を奪った後に労働力として生かす蛮行が行なわれたと記憶しているので、ブートゥール学説と意味を同じくする行為は現代でも続いているのかも知れないし、ウイグル自治区ではウイグル女性に対する不妊手術などの噂も囁かれる。
 また、教授は「飢餓」をストレスと読むことで政治的・経済的な欲求にまで領域をを拡大して「戦争原因」と論を次ぎ、《近代以前の戦争は「物取り・人取り」であり、特に植民地獲得のための戦争は大きな経済的利益をもたらしたものの、現代戦では膨大な戦費に見合う経済的利益を得ることは無く、目に見えない政治的利益の追求に尽きるともされている。

 教授は論の冒頭《人類は3千年で1万回以上の戦争を経験したきた》とも書かれているが、戦争に至らない地域紛争や小競り合いを含めれば更にその回数は増えることだろうし、命を奪われた人の数は推計すら困難な膨大なものであろう。


神学者の言行を知る

2023年08月16日 | 防衛

 産経新聞の「正論」欄で、ある神学者の言行を知り感銘を受けた。

 執筆者の新保祐司氏によると《スイス人で20世紀最高の神学者とされるカール・バルトは、1940年に54歳・大学教授であったが自ら志願して予備役防衛軍兵士として軍務についた。射撃訓練などを受けた後に、後方の事務職に就けようとする忖度を拒否して警備・立哨などの現場軍務に就いた》と紹介されている。感銘を受けたのは、彼の《おそらくそれほど有能で敵に脅威を与えるほどの兵士では無かったと思われるが、ともかくも武装し訓練を受けた兵士であった》という言葉である。
 現在、我々は「人類誕生以来誰も無しえなかった武力と戦争を放棄して共同体(国家)を守る]という壮大な実験の被験者となっている。現実の脅威を前に自衛隊と云う鬼子の軍事組織は保有しているものの、それすら軽武装で十分とする意見は少なくないし、そう主張する人の多くが「何かあれば日本を守るために戦う」というのを専らとするがカール・バルト氏のように地位と名誉の全てを捨てて実際に銃を執れる人は如何ほど居るだろうか。自分自身をとっても、64小銃経験という錆びた知識と身体では「敵に脅威を与えるほどの兵士にはなれない」ことを自覚しているために、高齢を理由に後方勤務を与えられることを喜ぶだろうし、眼前を行軍する侵略者に発砲する気概を持っているだろうかと自問せざるを得ない。

 トム・クランシーは著作で、ショッピングモール襲撃のテロリストを倒したライアン・jrが、臨終のイスラム者に”豚皮製のアメフト・ボールを抱かせる”場面を描いている。
 不幸にして日本に対する武力攻撃があった場合、開戦劈頭のミサイル攻撃を受けて息も絶え絶えに路上に横たわる自分に対し、上陸・進駐してきた侵略者は「日本国憲法の冊子」を抱かせるだろうが、そこには侮蔑の笑みはあっても「壮大な実験に殉じた聖者」と云う尊敬は無いであろうことは確実と思う。
 ウクライナ事変が現在進行形で示されている終戦の日、戦争と日本国憲法を考えた人は多いと思うが、カール・バルトの逸話も併せて考えて欲しいように思った。

 ここまで書いて、重大な要因を忘れていることに気がついた。それは、護憲論が日本国憲法前文に掲げられている「平和を愛する諸国民の公正と信義」を世界共通の概念と信じることを前提としていることである。そうであるから、侵略者プーチン大統領も国内刑法犯と同じ「敵ではなく、単に罪を憎んで人を憎んではならないハラカラ(同胞)」に過ぎず、敵と云う概念は無いもしくは持ってはならないのだろうか。