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生きること:過去と未来とエスペラントと

『エスペラントの日』記念の講演会 の感想(2)梅棹忠夫と柳田国男

2011-06-13 09:53:53 | エスペラント

 後藤 斉氏『エスペラント文化史の試み』の中でエスぺランティストとしての柳田国男と梅棹忠夫に触れました。

彼らのエスペラント発展への功績は一般に知られていないという話から二人について書いてみたくなりました。

 昨年亡くなった梅棹忠夫の思想について先日NHKの衛星放送だったでしょうか関係した人々が彼の人柄と思想の発展性などについて話していました。放送ではエスペラントについては誰も触れませんでしたが、柔軟な発想はエスペラントと無関係ではないかもと感じたのでした。いつだったでしょうか日本エスぺラント大会で彼の講演を聞いたことがあります。

 ウキペディアより : また、エスペラント運動家(エスペランティスト)であり、世界エスペラント協会の名誉委員である。詳しくは編著『日本語の将来 ローマ字表記で国際化を』(NHKブックス:日本放送出版協会 2004年)。

 梅棹忠夫は世界に名の通ったエスぺランティストであったことが分かります。

 柳田国男について昔先輩から聞いたことがあります。先輩はもうなくなっているので名前を挙げても良いかなと思います。

 藤沢に住んでいた足立長太郎さんはY校(横浜商業高校)の出身です。当時は旧制中学校だったでしょう。Y校には4年生になると入部を許されるエスペラントクラブがありました。多分1925年ぐらいのことと思います。2年間の課程を修了した時横浜のエスぺランティスト達がホテルで盛大に祝ってくれたそうです。そこに紋付き袴姿の柳田国男が朝日新聞記者の椎橋好を伴って駆けつけてくれたそうです。そんな有名人の登場に中学生たちは驚き喜んだということでした。

 椎橋好は昭和3年(1928年)日本エスペラント学会から共著ですがエスペラントと対訳の(ハイネ詩集を出しています。ウキペディアで柳田国男の経歴を見ると1922年、国際連盟で世界の公立校でエスペラント教育をしようという議案を可決する努力をしたようですが、世界のエスペラント界で新渡戸稲造は有名ですが、柳田の話は話題にならなかったように思います。日本人として彼を世界に示す努が必要かもしれません。

ウキペディアより:(大正9年)8月 - 東京朝日新聞社客員となり、論説を執筆した。全国各地を調査旅行。

1921年(大正10年) - 渡欧し、ジュネーヴ国際連盟委任統治委員に就任。国際連盟において、英語とフランス語のみが公用語となっていることによる小国代表の苦労を目の当たりにする。

  • 1922年(大正11年) - 新渡戸稲造と共に、エスペラントを世界の公立学校で教育するよう決議を求め、フランスの反対を押し切って可決される。エスペランティストエドモン・プリヴァEdmond Privat)と交流し、自身もエスペラントを学習。
  • 1923年(大正12年) - 帰国。フィンランド公使グスターフ・ラムステッドと交流。
  • 1924年(大正13年)4月 - 慶應義塾大学文学部講師となり民間伝承を講義。
  • 1926年(大正15年)7月 - 財団法人日本エスペラント学会設立時の理事に就任。(日本エスペラント学会年鑑(Jarlibro) 1926年版参照)。
  •  旧知の足立さんのことを実名で書いたので、もう一人先輩であり友人でもある森田玲子さんについて:

     講演の最後に土岐善麿について質問した方がいました。 土岐善麿も熱心なエスぺランティストでした。森田さんが三田の女学校に通っていた当時、彼の娘さんも同じ学校に在学しており、彼は保護者会の会長でした。当時の校長ととても親しく、ここでもエスペラント教育が行われたのです。森田さんは10代からエスペラントを学び、若いころは熊本で活動していたようです。80歳超えたころから読書会への参加をやめました。その後彼女は癌を病み、突然私たちの前から姿を消しました。ホスピスで亡くなったと風の便りに行きました。本当に潔い方でした。

     その他ハンセン氏病患者収容されていた多摩全生園の話などこれも聞いたことがあるななどと、私には思い出をめぐる講演でした。

    コメント (4)
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