12月8日:エスペラント博物館へ
以前、人形劇をしないかと誘われたことを思い出してそのことを話していたら、’現代人形劇の創造の歴史の半世紀 人形劇団プークの55年の歩み’という本を見つけました。中学の時エスペラントの出てくる本読み、エスペラントに引かれましたが、高校3年生の時プークの劇団員との座談会に参加して、再びエスペラントへの思いに目覚め、高校を卒業したらなんとしても上京し、エスペラントを学ぼうと決意ししたのがエスペラントを捜すきっかけにだったので、この厚い本を読み始めました。
私はプークの劇団創始者が川尻泰司だと思っていました。始めたのは泰司の兄東次を含む6人の中学生(旧制)でした。東次氏は病弱で24歳で亡くなり彼の心を引き継いだのが泰司氏だったようです。
人形劇団も初めは児童だけのためのものではなく、大人への啓蒙運動だったようで、戦前は官憲に追われていたようです。
p.77にはこんな文面が
すべての人々が国境を超えて語り合える言葉、エスペラントのつすべての人々、そして子どもたちが平和に暮らすことのできる平和を守るために仕事を続けることこそプークの道であることを川尻東次はエスペラント名と共にわれわれにのこそた。
p.39にはこんな記述が!
農民運動の活動家エスペランティスト伊東三郎がプークの仕事の精神的支えとなった。
伊東三郎は私のエスペラントの師である。名前を見つけて嬉しかった。
当時、彼らの愛称かあだったという歌が記載されていた。
Fratoj al sun' liberecon
Fratoj nun supren al lum'
この歌は私も歌ったことがあり、この後にあと2フラーゾ続くのですがどうしても思い出しません。本当に情けない!
私が出会った頃、プークがどんな活動をしていたか知りたいので続きを読もうと思っているけれど、不満が残った。
表題の下にかかれた補足の題名と言うものだろうか、それはエスペラントではなく英語だったのだ。もしかしたら今はプークはエスペラントからかけ離れているのかもしれない。
以前、人形劇をしないかと誘われたことを思い出してそのことを話していたら、’現代人形劇の創造の歴史の半世紀 人形劇団プークの55年の歩み’という本を見つけました。中学の時エスペラントの出てくる本読み、エスペラントに引かれましたが、高校3年生の時プークの劇団員との座談会に参加して、再びエスペラントへの思いに目覚め、高校を卒業したらなんとしても上京し、エスペラントを学ぼうと決意ししたのがエスペラントを捜すきっかけにだったので、この厚い本を読み始めました。
私はプークの劇団創始者が川尻泰司だと思っていました。始めたのは泰司の兄東次を含む6人の中学生(旧制)でした。東次氏は病弱で24歳で亡くなり彼の心を引き継いだのが泰司氏だったようです。
人形劇団も初めは児童だけのためのものではなく、大人への啓蒙運動だったようで、戦前は官憲に追われていたようです。
p.77にはこんな文面が
すべての人々が国境を超えて語り合える言葉、エスペラントのつすべての人々、そして子どもたちが平和に暮らすことのできる平和を守るために仕事を続けることこそプークの道であることを川尻東次はエスペラント名と共にわれわれにのこそた。
p.39にはこんな記述が!
農民運動の活動家エスペランティスト伊東三郎がプークの仕事の精神的支えとなった。
伊東三郎は私のエスペラントの師である。名前を見つけて嬉しかった。
当時、彼らの愛称かあだったという歌が記載されていた。
Fratoj al sun' liberecon
Fratoj nun supren al lum'
この歌は私も歌ったことがあり、この後にあと2フラーゾ続くのですがどうしても思い出しません。本当に情けない!
私が出会った頃、プークがどんな活動をしていたか知りたいので続きを読もうと思っているけれど、不満が残った。
表題の下にかかれた補足の題名と言うものだろうか、それはエスペラントではなく英語だったのだ。もしかしたら今はプークはエスペラントからかけ離れているのかもしれない。
(祖父も子どもにエスペラント由来の名前をつけましたが。)
>もしかしたら今はプークはエスペラントからかけ離れているのかもしれない。
まあ、それはそうかもしれません・・・。
ところで、先日家の片づけをしていたら、祖父が中央労働学院でエスペラント初級講座を講義しているのを録音したものが見つかって、エスペラント博物館よこはまに寄贈しました。
(ただ、カセットテープとミニディスクなので、デジタル変換等事務局のお手を煩わせることとなると思います。)
エスペラント博物館に行かれた際にお聞きになれるとよいですね。
割とよく歌を歌う講義でした。
録音ぜひ聞きたいです。技術的に優れたかたがおられるので再生できると思います。伊東氏は音程外れたような気がしますが!
学院から田町駅、そして電車の中の40~50分がほとんど私への個人講義の時間でした。お金もなくアルバイトをしながら通いましたが、本当に楽しかった私の青春です。
私は伊東氏の三女Mi cxieさんと同年齢と訊いております。名前の由来もお聞きしました。
カナダに住んでいた姉は本郷によく訪ねていました。私も誘われましたが同行したことはありません。また、姉は Mi cxie さんとも連絡を取っていたようです。健やかでお過ごしくださいとMicxieさんにもお伝えください。
>コメントありがとうございます。... への返信
お姉さまからはクリスマスカードなどいただいていました。
Mi cxie (エスペラントではこのように書くのでしょうか)は上から3番目の子で二女になります。
昨年6月に亡くなりました。
伊東三郎の子どもで存命なのは上二人になりました。
Micxie さんは亡なられたんですね。残念です。ご冥福をお祈りします。
Mi estas cxie. ’私はどこにでも(あらゆるところに)います。良い名前です。5年前に孫が生まれる時に女な子ならこの名が欲しいとおもって息子の許可を得たのですが、残念ながら男の子でした!