glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

チェコ北部ヤブロネツへ

2005-05-26 08:26:16 | Weblog
 7月27日正午前、1996年のエスペラント世界大会は終了しました。会場のテラスの椅子に座ってプラハの遠景を眺めながら、帰りを急ぐ人たちにさようならをします。ヤブロネツ行きのバスは夕方なので大会の余韻を楽しむことにしました。
              

 東京からきたという女性がマリエに墓地に案内して欲しいと頼みました。彼女はカフカのフアンで、彼の墓を訪ねたいというのです。ユダヤ人であるカフカがあの墓地に埋葬されていると思えないのですが彼女はどうして行きたいと言います。私達は荷物を受付に預け、会場の裏の道からまた墓地へ。

 やはりカフカの墓はありませんでした。

 今度は、ガラス細工がある店に連れて行って欲しいとこの日本人は彼女に言います。まだ時間があるからとマリエが言うので3人で地下鉄に乗り街へ。
 ガラス細工を売っている大きな店を数軒回りました。あちこちで仲間と思える人々に出会います。彼女は小さな細工物をを何点か買った後、お礼に食事を奢りたいと言い出したので、昼食抜きだった私達は路地にある小さな食堂へはいりました。チェコ人しか入らないような店でしたのでこの日本人はとても喜んでいました。

 店を出た途端、時間がないとマリエは言い出し、町をぶらつくという彼女を残して私たちは路面電車に飛び乗りました。数人のエスペランティストが乗っていました。私達と一緒にイギリス人女性がが乗り込みました。
 反対の電車の窓が開き、女性が袋を振りながら叫んでいます。彼女はポーランド人でこのイギリス人の友人だそうです。イギリスの友人に渡そうと持ってきたお土産を持ったまま彼女はさようならしてしまったのです。
 ”私はどちらでも良いけれど、あの人戻ってくるわね!!”イギリス人女性は笑い、次ぎの停留場で戻って来るだろう友人を待つために下車しました。

 私達も大急ぎで荷物を受け取り地下鉄でバス乗り場のある駅へ。 

  ヤブロネツは地図で見るとプラハの北北東にあります。この町より少しドイツよりにある町リベレッツと並んで日本の地図にも乗っていますからかなり大きな町でしょう。マリエの家は鉄道駅を挟んで繁華街とは反対の方向、高台にありました。
 その家はがっしりとした石造りで、夫の父親が第2次世界大戦後すぐ、社会主義政権が確立される前に買い取ったということでした。傾斜面に建っているので、正面から見ると4階建てですが2階部分にも玄関があります。地下部分には年老いた夫の母親が暮らしていました。
 社会主義政権は私有財産である家を没収しませんでした、しかし移動を禁じられたこの地方の農民は貧しさに苦しんだと後で聞きました。

 この地方は準宝石といわれる鉱石が産出するのでドイツ人の手によって開発されました。またボヘミアガラスの生産地でもありました。戦後は住んでいたドイツ人が追放され、ドイツ人と結婚していた人達も大勢いたので、家族離散を余儀なくされた人も多く、戦後の混乱の中で多くの人々が苦しみました。

 家では、3匹の犬に歓迎され、マリエが私のために空けてくれた2階の彼女の部屋に案内されました。二人の息子は外出していていませんでしたが、私たちのためにシチューが作ってありました。
 家のあちこちに亡くなった娘の写真が飾られていました。私の泊まった部屋には幼児期から亡くなった17才までの沢山の写真が壁に貼り付けてあります。20年近く経ってもマリエは自殺した娘への思いをいつも持ち続けているようで、何を見ても、何をしても娘の思い出と重なってしまうのです。

 娘はお母さん、エスペラント頑張りなさい!!そう言って、エスペラントの講習会に通い始めた時二人の小さな弟の世話を引き受けてくれたそうです。
 成長した彼女は≪お母さんはエスペラントを続けなさい、でも、私はもうこんな社会はいや!!≫いつもそう言っていました。 ある日、友人とピクニックに出かけたさい、突然、服を脱ぎ捨て、川に身を投げてしまったのです。マリエの元にはその服しか戻ってこなかったと言うことでした。

 どこかで生きているような気がする。どんなに今の生活が経済的に苦しくても二度と社会主義には戻らせないと彼女は言いました。
 私達は社会主義が崩壊したと表現をしますが、彼らは≪私達は革命を起した。≫と言います。つまリ社会主義崩壊ではなく、革命によって自由主義を勝ち取ったと表現するのでした。

 夕暮れの中、木々に囲まれた道を丘へと上って行きました。 

 ガラス製造にしても鉱石採取にしても仕事は埃まみれです。この地方では肺や気管支を患う人が多かったので、森林浴と言う健康法が発達したそうです。そのため、森の中を歩く行程が整備されていて、必要な所に食堂をかねた休憩所と展望台が作られました。全行程を歩くと3週間かかすそうです。ある人は3週間歩き続け、ある人3日間あるく。その道もバス停や鉄道の駅からそれ程遠くはないところにあるのです。

 その丘の上は昔の展望台の一つでした。
 夕暮れの中にヤブロネツからリベレッツへと明りが灯ってゆきました。人々は低地に住んでいるらしく、高台から見ると、明りは蛇行しながら闇の中に沈んでいました。

 いよいよ明日から散歩三昧の日々が始まります。


   
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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
プラハの街の散策、味わい深かったでしょうね。 (案山子)
2005-05-26 19:39:17
お城から連なっている小路のおみやげ物屋さんが連なっているところ、かっては錬金術師たちが住んでいて、薄汚いところだったらしいのですが、その並びの1軒にカフカが暮らしていたことがあったそうです。カフカ住居跡と明示してあったような覚えがあります。

本当によく町並みなど記憶しておられますね、私は団体旅行だったのですか、社会主義の時代の前に、輝いていたことがあった街という風情は感じられました。

地元の方との交流もあって大切な思い出でしょうね。

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Unknown (glimi)
2005-05-26 23:27:30
返信する
Unknown (glimi)
2005-05-26 23:37:34
 自分のブログで間違ってしまいました。 



 カフカの家は青色をしていましたね。

 あの坂道の入り口の店で日本語のテープが鳴っていたので冷かしに行ったら女の子が、日本語はわからないと困っていました。時々変な事を思い出します。
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