障害者 働きながら交流
富士見町のJR信濃境駅そばにある喫茶店「夢屋」は、2000年6月のオープン以来、「障害者と健常者が共に生きる社会」づくりを目指して、様々な障害を抱える人たちに働く場を提供してきた。放火に遭う試練も乗り越え、10周年。5日には、関係者を集めてささやかなパーティーを開く。
■作業所を併設
夢屋は、同町に住む手話通訳士の中山靖子さん(68)がスーパーだった建物を借りて開店。喫茶だけでなく、障害者が作るクッキーやケーキを店頭で販売してきた。04年には店の近くに作業所を建てて、紙すきや機織り、ミシン縫いができるようにして、座布団やカバン、はがきなども売るようになった。
作業所には、諏訪市や茅野市、富士見町に住む20~80歳代の障害者13人がそれぞれ週に3、4日通う。ミシン縫いを担当する聴覚障害者の青木靖子さん(67)(富士見町)は「作業だけでなく、みんなで花見をしたり、いろんな人と交流できて楽しい」と話す。
中山さんは27歳の時、右ヒザ下に骨腫瘍を患った。4回の手術を経て、人工関節をつけることに成功。リハビリをして、つえなしで歩けるようになるまでに約10年かかった。入院中、片脚を切断する人など多くの障害者を見て、「それでも前向きな彼らから生きる励みをもらった」という。
そんな経験もあって、手話を学びはじめ、1995年には、知的・聴覚障害者と健常者でつくるボランティアグループ「みんなの手」を設立。リースやピクルスなどを作って、バザーで販売した。「みんなの手」は発展的に解消し、今の店につながった。
■放火乗り越え
開店以来、中山さんにとって最も悲しかったのは、06年5月、店に放火され、テーブルやイス、食器類まですべてを失ったこと。あまりのショックで放心状態になったが、駆けつけた知人から「またやるんだよね?」と声をかけられ、「はい」と返事をしていた。焼けた店にかけてあった保険金がおり、大家の協力もあって店は新築され、同年9月に再オープンした。
「悲しいことが9割、喜びは1割だったけど、喜びの方が大きいわね」と、中山さんは10年を振り返る。そして「『共に生きる』とは、障害者を理解することでなく、あるがままを受け入れること。面倒を見てあげようというつもりはない。こういう店があちこちにできて、障害者が当たり前に健常者と生きていける社会になってほしい」と願っている。
(2010年6月4日 読売新聞)
富士見町のJR信濃境駅そばにある喫茶店「夢屋」は、2000年6月のオープン以来、「障害者と健常者が共に生きる社会」づくりを目指して、様々な障害を抱える人たちに働く場を提供してきた。放火に遭う試練も乗り越え、10周年。5日には、関係者を集めてささやかなパーティーを開く。
■作業所を併設
夢屋は、同町に住む手話通訳士の中山靖子さん(68)がスーパーだった建物を借りて開店。喫茶だけでなく、障害者が作るクッキーやケーキを店頭で販売してきた。04年には店の近くに作業所を建てて、紙すきや機織り、ミシン縫いができるようにして、座布団やカバン、はがきなども売るようになった。
作業所には、諏訪市や茅野市、富士見町に住む20~80歳代の障害者13人がそれぞれ週に3、4日通う。ミシン縫いを担当する聴覚障害者の青木靖子さん(67)(富士見町)は「作業だけでなく、みんなで花見をしたり、いろんな人と交流できて楽しい」と話す。
中山さんは27歳の時、右ヒザ下に骨腫瘍を患った。4回の手術を経て、人工関節をつけることに成功。リハビリをして、つえなしで歩けるようになるまでに約10年かかった。入院中、片脚を切断する人など多くの障害者を見て、「それでも前向きな彼らから生きる励みをもらった」という。
そんな経験もあって、手話を学びはじめ、1995年には、知的・聴覚障害者と健常者でつくるボランティアグループ「みんなの手」を設立。リースやピクルスなどを作って、バザーで販売した。「みんなの手」は発展的に解消し、今の店につながった。
■放火乗り越え
開店以来、中山さんにとって最も悲しかったのは、06年5月、店に放火され、テーブルやイス、食器類まですべてを失ったこと。あまりのショックで放心状態になったが、駆けつけた知人から「またやるんだよね?」と声をかけられ、「はい」と返事をしていた。焼けた店にかけてあった保険金がおり、大家の協力もあって店は新築され、同年9月に再オープンした。
「悲しいことが9割、喜びは1割だったけど、喜びの方が大きいわね」と、中山さんは10年を振り返る。そして「『共に生きる』とは、障害者を理解することでなく、あるがままを受け入れること。面倒を見てあげようというつもりはない。こういう店があちこちにできて、障害者が当たり前に健常者と生きていける社会になってほしい」と願っている。
(2010年6月4日 読売新聞)