ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

地域で結実、知的障害者らの就労支援 北区

2010年06月25日 00時37分03秒 | 障害者の自立
 神戸市北区の社会福祉法人が取り組む知的障害者らの「就労支援」が、地域で実を結び始めている。自分たちで育てた野菜を販売したり、ゴルフ場の整備作業を黙々とこなしたりする姿が信頼を勝ち取り、雇用を前向きに検討する企業も。同法人は「障害があっても、労働の必要性を自覚し自立できるようさらに力を入れたい」としている。


 北区淡河町東畑の「上野丘さつき会」(上野智理事長)。障害者の自立した社会生活の支援を目的に、1968年に設立された。知的障害や発達障害のある人ら100人ほどが入所、もしくは通所している。

 同会では、食事や入浴のサービスを提供するほか、障害の程度に応じて調理や洗濯、読み書きなど日常生活で必要な能力の訓練を実施。また、農地での野菜作りやゴルフ場などで働く機会も用意し、可能な範囲で経済的自立を支援している。

 仕事場の一つである有馬ロイヤルゴルフクラブ(同区淡河町北畑)は、10年以上前から同会の障害者を受け入れている。利用客のショットで削られた芝生の修復作業や落ち葉の回収など、コースの管理を任せている。

 作業に取り組む杉浦孝治さん(34)は「仕事が楽しみ。仲間と仕事できるのがうれしい」。コース管理部の小西志希子さん(71)は「まじめで一生懸命やってくれる。人の手が足りない中で本当に助かる」と信頼を寄せる。

 同ゴルフクラブは、同会と雇用契約を結んでいるが「いずれは一人一人を直接雇用したい」と副支配人の山本良太さん(36)。「運転免許の取得など課題はあるが、直接雇用で(障害者の)収入も増やせる。地域社会の一員として支援できれば」と話す。

 ほかにも雇用を進める事業所などがあるといい、同会の丸山博徳さん(45)は「障害に同情するのではなく、受け止めて支援しようという環境がもっともっと広がってほしい」と期待している。

神戸新聞

選挙de談義(7)障害者ら集う‎

2010年06月25日 00時34分07秒 | 障害者の自立
◆「地域で生活支えて」


 JR十条駅北口からすぐ、徒歩30秒のところに「ダイニング街なか」(北区上十条2丁目)がある。昨年4月、障害者と健常者が分け隔てなく集まれる場所にしたいと、約120人の協力者の支援でオープンした。顔見知りの客に店のスタッフは「お帰りなさい。おつかれさま」と声をかける。


 参院選の公示が近づいたある日の夕方、区内に住む障害者や支援者が集まっていた。成立直前で改正案が廃案になった障害者自立支援法の話題になると、会話は熱を帯びてくる。


 「自立支援法は1割負担が問題視されたけど、地域格差もひどい。隣の区とサービスの上限時間が違うなんて」


 「財源はどうするのか。消費税アップの隠れみのにされても」「障害者の就労支援や地域で生きることに焦点をあてたことは評価できる」「改正法じゃなく新法で当事者の意見を反映させるのが大事だ」


 「重い障害があっても地域で生き続けるには保障が必要」と話す小林高文さん(55)は、難病の筋ジストロフィーのため車いすで生活する。同行していたヘルパーの北條真さん(31)は、小林さんの話にうなずいた。


 小林さんは障害者のための「自立生活センター・北」と、障害者を介助するNPO法人「ピアサポート・北」の代表をつとめる。「ピアサポート・北」では、障害者自身が家の探し方や手当の申請方法など日常生活の相談に乗ることがある。仕事をして、その対価として給料が支払われることは障害者の張り合いになっている。


 「ダイニング街なか」は、近くにある王子特別支援学校の卒業生の働く場となり、東京家政大学の協力でメニューを作ったオーガニック野菜や玄米の定食を700円からの手頃な値段で出している。


 平文雅士(まさ・と)さん(21)は特別支援学校を卒業後、食品製造会社に就職した。しかし周囲とうまくいかず退職し、「街なか」で働くようになった。


 今は洗い物や簡単な配膳(はい・ぜん)をする。最初は失敗もあったが、周りのサポートで仕事もよく覚えた。「ずっとこのままやりたい」。給料は「車を買いたいから貯金してる」と笑う。


 話の輪に、仕事帰りに毎日ここへやって来る奥野春彦さん(40)も加わった。がんを患う母親(76)を自宅で介護している。


 「政権は変わっても、自分の状況は何も変わらない」


 奥野さんは自身にも知的障害があり、「障老介護」の状態だ。母親が入院するまで、親子2人の食事は奥野さんが支度していたが、入院をきっかけに母親の世話は介護ヘルパーやデイケアサービスに任せるようになった。


 「母親の介護保険を限界まで使っても、週に2回、1時間しか来てもらえない。後は自分がやるしかない」


 ここでみんなの顔を見て、たまにビールを飲むのが息抜きだ。生活が少しでも楽になることを奥野さんは願う。


 「確実に福祉に還元する政党に投票したい」

※障害者自立支援法 


 自公政権下の2006年に施行された。障害者が福祉サービスを利用する際の自己負担を、所得に応じた「応能負担」から、原則として費用の1割を支払う「応益負担」に転換した。障害者年金や生活保護に頼る人も少なくない障害者にとっては負担増となり、「生存権の侵害だ」として全国14地裁に71人が提訴した。民主党政権は「応能負担」に戻す同法改正案を提出したが、鳩山首相退陣により成立目前で廃案となった。

朝日新聞

震災障害者に学ぶ/5=牧秀一 /兵庫

2010年06月25日 00時31分30秒 | 障害者の自立
 「あの足を…、私の足です。持っていかないで!」来日中、Aさんは疲れて居眠りしていた時、けいれんを起こし涙をボロボロ流した。

 Aさん(17歳)は中国・四川大地震で校舎の下敷きとなり、片足切断を余儀なくされた。

 2年前発生した、四川大地震での死者・行方不明者は約9万人。阪神大震災の10倍以上の犠牲を強いた。その時の震災映像の中で「命をとるか両腕をとるか」と迫られ、両腕を切断した少年の姿が、今も目に焼きついている。

 その後、私は、四川大地震で手足を失った人が一体どれほどいるのか、あの少年は今、どうしているのだろうかずっと気になっていた。Aさんもその一人である。

 Aさんが通う学校の生徒3000人中、1400人が死亡。崩壊した校舎の下敷きとなり、多数が手・足を切断したという。Aさんは17時間生き埋めとなり、意識不明の状態で救出された。この時、すでに膝から下は切断されていた。3回の手術ののち左足は根っこから切断された。

 Bさんは在日中国人の歌手である。故郷が大震災に遭い、多くの人が傷ついた事に心を痛め、全財産を学校に募金した。Bさんは、地震1カ月後四川省の学校を中心に激励コンサートを行った。コンサートが終わった時、男子生徒が「Aさんを病院に見舞ってあげてほしい」と言ったのがきっかけとなり、病院でAさんと出会った。

 見舞いに行くたびに、合わない義足が痛い痛いと言う言葉に、良い技術を持つ日本で義足を作ってあげたいと思ったBさんは、日本の関係者の協力も得、Aさんは義足作りのため来日した。

 滞在中、阪神大震災で重い後遺症を持つ人たちとの出会いがあった。中国と日本と国情は違うが、震災の恐怖を体感し、後遺症を背負って生きる人同士が互いを理解し本音で語り合うまでの時間は殆どいらなかった。この時、Aさんは阪神大震災から15年間頑張り生き続けてきた日本の先輩たちに、二つの悩みを打ち明けたのだった。

毎日新聞 2010年6月24日 地方版