平成の始まりとともに産声を上げた。平成元(1989)年9月、国際パラリンピック委員会(IPC)が創設された。それ以前、傷痍(しょうい)軍人のリハビリを目的としたストーク・マンデビル病院(英国)での大会を原点とするパラリンピックは、国際ストーク・マンデビル大会委員会など複数の団体による国際調整委員会が主催していた。「リハビリの延長ではなく、より競技性の高い大会を」。そんな選手の声が世界的に広まり、国や地域、障害の種類といった壁を取り除いた組織が必要となり、IPCが生まれた。これにより五輪とパラリンピックが同じ競技場を使うなど現在につらなる仕組みが確立され、国内でも平成時代の間に環境整備が進んだ。 (敬称略、松山義明)
「このままではまずい。本当に強い選手が出場できなくなる」。日本障がい者スポーツ協会(JPSA)企画情報部の部長、井田朋宏(56)は31年前、危機感を持った。昭和63(1988)年、パラリンピック・ソウル大会に陸上コーチとして携わっていたときのことだ。当時の大会の管轄は厚生省(現厚生労働省)。選手派遣は国や自治体の補助金に頼っており、代表選考は出場回数の公平さなどが優先されがちだった。
このころ障害のあるアスリートにとって活躍の場は多くなかった。全国身体障害者スポーツ大会(現全国障害者スポーツ大会)への参加は一生に一度のみ。海外で広まりつつあった競技規則や参加標準記録に準拠した大会は少なく、国内でも「世界基準」を求められていた。
井田も協力した日本身体障害者陸上競技連盟(現日本パラ陸上競技連盟)の立ち上げは昭和63年。3年後の平成3(1991)年には国際ルールに基づいたジャパンパラ競技大会が陸上と水泳で始まった。平成10(1998)年の冬季パラリンピック長野大会の開催が決まると、それに向けて平成6(1994)年にはアルペン、ノルディックのスキー競技でもスタート。選手を支援する競技団体協議会の加盟数は、平成に入って9から現在の67にまで増えた。
ただ環境づくりの歩みは遅かった。パラリンピックに出場した選手らで構成する日本パラリンピアンズ協会の会長、河合純一(43)は平成初の夏季パラリンピックとなったバルセロナ大会に17歳で初出場。銀2個、銅3個とメダルを獲得した全盲のスイマーは「観客から大きな声援があり、報道もたくさんあって驚いた。日本の大会はウオーミングアップの会場もなく、観客も少ない。その差が衝撃的だった」と振り返る。
厚労省から文部科学省に管轄が移り、スポーツ行政が五輪の競技とともに一本化されたのは、東京五輪・パラリンピックの開催が決まった後の平成26(2014)年。平成29(2017)年度には、日本障がい者スポーツ協会が各団体に配分した強化や大会開催などにかかわる補助金は総額約21億9400万円となり、東京大会の開催が決まる前の平成23(2011)年度と比べると約7倍に増えた。
夏季パラリンピック6大会に連続出場しながら、障害者を取り巻く社会問題を提言し続けてきた河合は「それなりの理由があったことは分かる」と配慮しつつ「17歳が気付いたことの解決に、こんなに時間がかかるとは思わなかった」と首をひねる。
別の課題も見えてきた。昨年3月の冬季パラリンピック平昌大会で、日本の金メダル総数は3個と冬季大会では3大会連続で横ばい。平成28(2016)年リオデジャネイロ大会では、夏季大会で史上初の「金ゼロ」に終わった。他国の強化が進んで競争が激しくなる一方、国内では病気による受傷者の割合が増えるなどトップアスリートの高齢化も進んだ。
ただ、リオでは7競技で計24個のメダルを獲得し、前回のロンドン大会の6競技16個より総数は増えた。ナショナルトレーニングセンター(東京都北区)で主にパラ選手が利用する拡充棟が今年6月に完成することもあり、JPSAの井田は「全体の底上げは進んでいる。強化体制も整い、これからだ」と前向きだ。
昭和39(1964)年東京五輪の約1カ月後に車いす選手による「国際ストーク・マンデビル大会」が開かれた。これが後に「第2回」と数えられ、パラリンピックの歴史がつむがれることになった。冬季パラリンピックの長野大会は、国内でパラアスリートの認知度を高める役割を担った。そして、2度目のパラリンピック東京大会まで1年余り。河合は「社会を大きく変えるチャンス。アスリートの活躍を通じて、みなさんの心に何か変化が生まれるといい」と期待する。
パラリンピック・アテネ大会の競泳男子50メートル自由形(視覚障害1)で優勝した河合純一
チームふくいの仲間とパラリンピックへの思いを新たにする近江(左から3人目)
2019年1月5日 東京新聞