ゴエモンのつぶやき

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精神障害者の家族会「ゆみはり会」 つながり紡いで30年

2019年01月06日 16時18分50秒 | 障害者の自立

佐世保        いつか出会う仲間のため

 統合失調症などの当事者家族でつくる「ゆみはり会(佐世保地区精神障がい者家族会)」は今年、結成から30年を迎える。会員の高齢化に直面しながらも、積極的に勉強会やデイケアを企画。当事者と家族は思いを共有し、支え合っている。
 「冬物のバッグを作りたい」「ここは縫わなくていいの?」。12月19日午後のボランティアセンター別館(花園町)。バザーで販売する布小物を囲み、女性が会話を弾ませていた。当事者や家族が毎週集まり手芸や工作に取り組むデイケア「水曜の会」。おしゃべりは、病院の情報や顔を見せていない会員への気遣いなど、さまざまな話題に及んだ。
 会ができたのは1989年11月27日。当時、統合失調症は「精神分裂病」と呼ばれていた。症状への対応に加え、社会の偏見に悩む家族を支え、当事者が自力で生活できる道筋をつけようと結成。現在は40~80代の34人が所属する。
 福祉パスや補助金の交付を求めるなど、当初は要請活動が中心だった。2002年の病名変更を機に会員の意識も変化。自由に発言できる例会や会員が講師になる学習会など、同じ境遇の人が交流しながら支え合う機会を増やしてきた。水曜の会も、当事者が外に出る機会をつくろうと十数年前に始めた。
 「娘が次の場所に進むために大事な場所だった」。こう振り返るのは会長の尾形篤子さん(65)。次女は大学を卒業後に統合失調症で入院。退院後は自宅で動けない生活を送ったが、会に通い始めて少しずつ家事や作業所への通所ができるように。今では服薬をして病気と付き合いながら、家庭を築いた。「娘を会員さんが包み込んでくれた。どこかに居場所があれば何とかなる」と穏やかに笑う。
 会員の高齢化や、精神障害がある人の一般就労への理解不足など課題は多い。それでも、若い世代の入会が途絶えないなど希望も残る。「家族に孤立してほしくない。気持ちがほっとするような会を続けたい」と尾形さん。いつか出会う仲間のため、30年のつながりを、紡いでいく。

「水曜の会」でおしゃべりを弾ませながら手芸を楽しむ会員ら=佐世保市、ボランティアセンター

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全国障害者スポ陸上2種目で金 飛騨特別支援学校の嶋田さん

2019年01月06日 15時50分41秒 | 障害者の自立

 飛騨特別支援学校(高山市山田町)3年の嶋田桃子さん(17)が、昨年11月に福井県で開催された全国障害者スポーツ大会で、陸上競技2種目の金メダルを獲得した。嶋田さんは「家族や先生、友達が応援してくれたからこそ残せた結果。自己ベストも更新できたのでうれしい」と喜んでいる。

 県代表として女子100メートルと女子走り幅跳び、男女混合400メートルリレーの三種目に出場。100メートルでは14秒14、走り幅跳びでは4メートル34の記録で、それぞれ金メダルに輝いた。

 陸上を始めたのは同校の高等部に進学してから。体力づくりのために陸上部に入部し、学校のグラウンドで週三回、練習に励んできた。帰宅後も筋肉トレーニングや縄跳びで足腰を鍛えた。現在は県の強化選手として月に二回、関市や土岐市の競技場で練習を続けている。

 大会前には不安で寝られない時もあったが、同級生から応援メッセージが書かれた色紙をもらい、勇気づけられた。本番は大勢の観客が見守る中、プレッシャーを振り払い、100メートルで自己ベストを更新した。

 地元の部品製造会社への就職が決まっている嶋田さん。「仕事が最優先だけど陸上も続け、いつかパラリンピックに出られるといいな」と新たな夢を語った。

 大会には、全国から三千五百人の選手が参加。飛騨特別支援学校からは、二年の山腰俊介さん(17)も男子立ち幅跳びと男子400メートルに出場し、それぞれ四位、五位と健闘した。

障害者スポーツ大会で金メダルを獲得した嶋田さん

2019/1/5        ©一般社団法人共同通信社

   


障害者バスケ全国に挑む 県内初のクラブチーム発足

2019年01月06日 13時58分21秒 | 障害者の自立

 男子バスケットボールで岐阜県内初となる知的障害者のクラブチーム「岐阜IDバスケットボールクラブ」が発足し、全国大会出場を目指して練習に励んでいる。チームは、幅広い年齢層の障害者がプレーできる環境を整え、県の競技力向上につなげようと結成。水野俊輔監督(28)は「バスケの楽しさを多くの人に知ってほしい。いろいろな大会に出場し、いい成績を残したい」と意気込んでいる。

 チームは中学生以上が対象で、岐阜や西濃、東濃地域などの社会人9人、高校生4人の計13人が所属。関市の体育館を拠点に週1回練習している。

 目標は、全国障害者スポーツ大会の出場権獲得を目指し、毎年6月ごろにある北信越・東海ブロック予選会で優勝すること。将来は県協会に加盟し、健常者の大会に出場することも検討していく。

 県やチームなどによると、バスケ部のある特別支援学校は少ない。社会人になると競技を諦めざるを得ない選手もいた。県内では毎年4月ごろ、特別支援学校高等部の生徒や社会人の選抜チームを編成。同予選会に出場してきたが、練習期間が短いことなどから競技力が伸び悩んでいたという。

 特別支援学校の講師を務めていた水野監督や教諭の石井王大部長らが、昨年7月1日付でチームを設立。通年でチームとして強化できるようになっただけでなく、他県で行われる規模の大きなクラブの大会にも出場しやすくなったという。

 チームを支援する動きもある。岐阜市のビル管理会社「アヴィッドスタイル」は、ゼッケンやポロシャツを贈った。水野監督と高校で同級だった社長澤田卓訓さん(28)は「選手たちの姿は輝いており、少しでもサポートできればと思った。今後も支えていきたい」と話した。

練習に励む「岐阜IDバスケットボールクラブ」の選手ら=関市桐ケ丘、関特別支援学校

2019年01月05日       岐阜新聞


肩落とす高齢・障害者

2019年01月06日 12時44分42秒 | 障害者の自立

 国内最大の精神医学分野の学術団体「日本精神神経学会」と精神科医や施設関係者でつくる啓発団体「日本精神衛生会」が、旧優生保護法(1948~96年)に基づく精神障害者らへの強制不妊手術に関与した「負の歴史」について自己検証に乗り出す。強制手術は、精神障害者と知的障害者を主な対象としており、精神科医が都道府県の優生保護審査会に手術を申請し、審査会委員も務めた。両団体の検証が進めば、手術対象者の選定の経緯や申請の実態が明らかになる。

 両団体とも優生保護法の関与をめぐる検証を行うのは初めて。精神神経学会は6月に検証作業に着手。精神衛生会は今月29日に調査委員会を設置し、検証後に結果を公表する。

 精神衛生会は旧法施行から5年後の53年、当時の厚生省に対し「精神障害者の遺伝を防止するため、優生手術の実施を促進させる財政措置」を求める陳情書を提出した。その直後に全国の手術件数が年間で1000件を突破しており、法律に基づく手術の申請だけでなく、手術を増やす役割も担った経緯がある。

 当時、同会理事長だった内村祐之・東京大教授(故人)は、精神神経学会の理事長も兼任していた。

 精神神経学会は、内部に設けた委員会で昨年夏から検証の必要性を議論してきた。今年6月に開く学術総会で優生学史の専門家らを招き、優生保護法との関わりについて検証を始める。

 精神衛生会は、優生保護法の前身でナチス・ドイツの断種法をモデルとした国民優生法(41~48年)下の不妊手術も含め、精神科医や団体の関与を調べる予定だ。同会の小島卓也理事長は「検証内容の詳細はまだ話せないが、内部でしっかり議論し、結果は一般に報告したい」と述べた。

 優生保護法下の不妊手術をめぐっては、宮城県の60代女性が昨年1月に初の国家賠償請求訴訟を仙台地裁に起こして以降、計15人が全国6地裁に提訴。また、同法が議員立法だったことを受け、超党派の議員らが今年の通常国会に救済法案を提出する準備を進めており、両団体の検証を求める声も出ていた。

 強制不妊手術は欧米各国でも行われた歴史があり、ドイツの精神医学精神療法神経学会は2010年、ナチス政権下で不妊手術と安楽死に協力した精神科医の実態を検証し、責任を認めた上で被害者と遺族に謝罪した。

 【ことば】日本精神神経学会と日本精神衛生会

 ともに日本の精神医学の草分けと評される故・呉秀三(くれ・しゅうぞう)らが1902年に創設した団体が前身。精神神経学会は35年に現名称となり、精神医学研究と医療の発展を目指した。会員数1万7000人。精神衛生会は貧しい精神障害者の治療や看護の援助を目的に発足し、現在は公益財団法人として知識の普及や専門家の育成に取り組む。会員数は精神科医や精神保健福祉士ら800人。

(写真)火事現場を背に関係者から聞き取りをする(左から)みわ、畑野、あさか、宇佐美、白井の各氏

2019年1月5日         しんぶん赤旗


パラスポーツ 「競える環境」やっと

2019年01月06日 12時14分11秒 | 障害者の自立

 平成の始まりとともに産声を上げた。平成元(1989)年9月、国際パラリンピック委員会(IPC)が創設された。それ以前、傷痍(しょうい)軍人のリハビリを目的としたストーク・マンデビル病院(英国)での大会を原点とするパラリンピックは、国際ストーク・マンデビル大会委員会など複数の団体による国際調整委員会が主催していた。「リハビリの延長ではなく、より競技性の高い大会を」。そんな選手の声が世界的に広まり、国や地域、障害の種類といった壁を取り除いた組織が必要となり、IPCが生まれた。これにより五輪とパラリンピックが同じ競技場を使うなど現在につらなる仕組みが確立され、国内でも平成時代の間に環境整備が進んだ。 (敬称略、松山義明)

 「このままではまずい。本当に強い選手が出場できなくなる」。日本障がい者スポーツ協会(JPSA)企画情報部の部長、井田朋宏(56)は31年前、危機感を持った。昭和63(1988)年、パラリンピック・ソウル大会に陸上コーチとして携わっていたときのことだ。当時の大会の管轄は厚生省(現厚生労働省)。選手派遣は国や自治体の補助金に頼っており、代表選考は出場回数の公平さなどが優先されがちだった。

 このころ障害のあるアスリートにとって活躍の場は多くなかった。全国身体障害者スポーツ大会(現全国障害者スポーツ大会)への参加は一生に一度のみ。海外で広まりつつあった競技規則や参加標準記録に準拠した大会は少なく、国内でも「世界基準」を求められていた。

 井田も協力した日本身体障害者陸上競技連盟(現日本パラ陸上競技連盟)の立ち上げは昭和63年。3年後の平成3(1991)年には国際ルールに基づいたジャパンパラ競技大会が陸上と水泳で始まった。平成10(1998)年の冬季パラリンピック長野大会の開催が決まると、それに向けて平成6(1994)年にはアルペン、ノルディックのスキー競技でもスタート。選手を支援する競技団体協議会の加盟数は、平成に入って9から現在の67にまで増えた。

 ただ環境づくりの歩みは遅かった。パラリンピックに出場した選手らで構成する日本パラリンピアンズ協会の会長、河合純一(43)は平成初の夏季パラリンピックとなったバルセロナ大会に17歳で初出場。銀2個、銅3個とメダルを獲得した全盲のスイマーは「観客から大きな声援があり、報道もたくさんあって驚いた。日本の大会はウオーミングアップの会場もなく、観客も少ない。その差が衝撃的だった」と振り返る。

 厚労省から文部科学省に管轄が移り、スポーツ行政が五輪の競技とともに一本化されたのは、東京五輪・パラリンピックの開催が決まった後の平成26(2014)年。平成29(2017)年度には、日本障がい者スポーツ協会が各団体に配分した強化や大会開催などにかかわる補助金は総額約21億9400万円となり、東京大会の開催が決まる前の平成23(2011)年度と比べると約7倍に増えた。

 夏季パラリンピック6大会に連続出場しながら、障害者を取り巻く社会問題を提言し続けてきた河合は「それなりの理由があったことは分かる」と配慮しつつ「17歳が気付いたことの解決に、こんなに時間がかかるとは思わなかった」と首をひねる。

 別の課題も見えてきた。昨年3月の冬季パラリンピック平昌大会で、日本の金メダル総数は3個と冬季大会では3大会連続で横ばい。平成28(2016)年リオデジャネイロ大会では、夏季大会で史上初の「金ゼロ」に終わった。他国の強化が進んで競争が激しくなる一方、国内では病気による受傷者の割合が増えるなどトップアスリートの高齢化も進んだ。

 ただ、リオでは7競技で計24個のメダルを獲得し、前回のロンドン大会の6競技16個より総数は増えた。ナショナルトレーニングセンター(東京都北区)で主にパラ選手が利用する拡充棟が今年6月に完成することもあり、JPSAの井田は「全体の底上げは進んでいる。強化体制も整い、これからだ」と前向きだ。

 昭和39(1964)年東京五輪の約1カ月後に車いす選手による「国際ストーク・マンデビル大会」が開かれた。これが後に「第2回」と数えられ、パラリンピックの歴史がつむがれることになった。冬季パラリンピックの長野大会は、国内でパラアスリートの認知度を高める役割を担った。そして、2度目のパラリンピック東京大会まで1年余り。河合は「社会を大きく変えるチャンス。アスリートの活躍を通じて、みなさんの心に何か変化が生まれるといい」と期待する。

パラリンピック・アテネ大会の競泳男子50メートル自由形(視覚障害1)で優勝した河合純一

 チームふくいの仲間とパラリンピックへの思いを新たにする近江(左から3人目)

2019年1月5日       東京新聞