森村誠一の「写真俳句の愉しみ」を見る?読む?
< 冒頭にこんなことを書いている。
句材としての写真には芸術性はいらない。、、、、
カメラマンと写材と俳句は異なる。
写真家は芸術的な構図を求めるが、句材としての写真には芸術性はいらない。
芸術性はあっても悪くはないが、芸術性を中心にすると、俳句と一体になりにくい。
写真俳句は、写主俳従でもなければ、俳主写銃でもない。俳写一体となって独自の表現世界を創造する。
☆ 飢ゑ知らず戦後もしらず成人す 浅井慎平
☆ 風花や燐寸するとき夜の雲 浅井慎平
< 彼は著名な写真家であると同時に 映画撮影、音楽、コメンテーターとして幅広い活躍をしている。
その中に俳句作家としても数冊の句集も出している。
< 私は浅井慎平をタレントと俳句の上手な人、それ以上のことを知らず書いているが、俳句に関しては良い俳句を作るひとと承知している。
本業の写真もさぞ心をうつ作品に違いないと思っている。自分の写真に俳句を載せた作品があるのであれば見たい。
なぜ 浅井慎平か? 森村誠一の俳句を書いていてどうしても二人の俳句を比べたくなった。
☆ 春光の巧みと知れど山を恋い 森村誠一
☆ 失いし恋に代わりて風薫る 森村誠一
☆ 暮れてなお枯木も咲けり光花 森村誠一
写真と俳句をコラボすると 我ながら非常に面白くて、新鮮な感じを受けた、と、森村はと言っている。
ばばさんの知識の中で、古今の文人が俳句を作って世に多くの名句を残している。
漱石、龍之介、犀星、龍男、鴎外、露伴、、、、記憶としてすらすらと名前が出てくる。
名前と句が一致をしない文人も他にもたくさんいる。
私の鑑賞眼では 森村誠一の句は理解はできるが自己愛の強い理屈の句である。
作家としての名前が先行をしていて、句としては私の肌には合わない。
今日の読売新聞の「四季」の記事。
これが写真俳句だ。写真も俳句も スバラシイ 。
句が先にあって、ぴったりの写真を探して見つける?この句にあった写真を撮影にゆく。
やはり俳句が、俳句でなければ。俳句以前、俳句未満の単に五七五ではいけない。
そんな森村誠一の本であった。