Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

沿革~酔いどれ電停

2006-08-19 15:57:00 | インポート
猫さん今日は。ようやく少し、休養できる日がある様になったのかな?ご両親の事につき、決して疎かにはできない事ですが、くれぐれもご自愛下さる様・・・。

さてさて、以前の日本航空機事故や、終戦の日の話などで、我々の臨時電車は途中の電停にて思わぬ長停車となってしまいました。今日は当路線、豊橋鉄道市内線の歴史に少し触れたく思います。

当路面電車の運営は、豊橋鉄道株式会社によって行なわれているのは良く知られる所ですが、この市内線こそ同社の歴史そのものであり、又存在理由でもあるのですね。
この私鉄、大正末期の発足当初は豊橋電気軌道と称していた様です。
1925=大正14年7月に、当時の鉄道省豊橋駅前より、豊橋市役所近くの札木と言う地点までと、南へ分岐する柳生橋までが初開通。これは昨春惜しまれつつ廃止となった、岐阜の路面電車に遅れる事14年の発進でした。同年中には今の国道1号沿いの東八町を経て、多米(ため)峠より浜名湖へ向かう県道沿いの東田(あずまだ)までが開通。これが戦前最後の延長となります。

1945=昭和20年6月の豊橋空襲にてほぼ全線が被災、翌1946=同21年2月まで半年強の休止を余儀なくされます。従いまして、終戦時は運行していなかった訳ですね・・・訂正。
戦後は良く復興し、1954=昭和29年までに豊橋競輪場前まで、そして1960=同35年に現在の終点、赤岩口へと到達します。

この間、自動車普及=モータリゼーションのあおりもあって、途中より分岐の柳生橋までの路線や、豊橋駅前より市民病院までの路線が廃止を余儀なくされましたが、現路線の東田本線は良く善戦し、1982=昭和57年には岩田運動公園への支線も完成、路面電車再興への布石となりました。更に1998=平成10年に、一時途切れていたJR豊橋駅前乗り入れを再び果したのは先述した通りです。
同社は路面電車の他にも事実上の本線、田原市へ向かう渥美線をも保有していますが、この路線は戦後、当地の大私鉄たる名古屋鉄道より移管を受けたもの。他には現存しませんが、三河山間部の鳳来町と設楽町とを結ぶ田口線をも一時保有していた事がありますね。

国道1号を東進した電車は東八町(ひがしはっちょう)と言う地点にて国道と分れ、斜め左に進路を取って浜名湖へ向かう県道を更に東へと向かいます。この先は上り坂で、軌道敷きの石畳がとても良い感じで続いています。当日記の読者各位にも、是非ご覧下されたい光景です。

上り切った所が東田坂上(あずまださかうえ)。この次の東田と競輪場前の各電停は安全地帯の完備されない岐阜市街の様な、直接路面にて乗り降りする構造。岐阜の時の危険な記憶を呼び覚まされる様な思いが致します。なるべく早急な改善を、是非願いたい所であります。(以下次回)。*(コメント)*
コメント
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