こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

名古屋の夜はふけて

2014年12月16日 00時19分41秒 | おれ流文芸
 13日(土)に岐阜県へ。第12回下田歌子賞の表彰式に招待されて恵那市岩村町に入った。初めての土地にキョロキョロと。魅力いっぱいの町だった。人生で初めて味わう『最優秀賞』のウハウハ気分だったせいもあったかも知れないが、それにしても素敵な風土が私をトリコにした。
 うっすらと雪に染まる情景も、日ごろのせかせかした生活を忘れさせてくれた。それにしても、昨日の何とも空しい親子体面はなんだったのだろうか?
 せっかくの機会と、一日早く名古屋に。少し離れた南岡崎駅前の居酒屋店長として働く長男の顔を見たくて足を伸ばしたのだ。家を離れて数年、家にも帰れない息子の事は毎日心配していた。それでも、恥ずかしながら息子の顔が、笑顔の記憶が薄れていく自覚に焦燥感を憶えていたのも事実だ。
 妻や姉妹にメール連絡はあっても、父親は無視。男親とはこんなものだろうかと諦めてはいたが、やはり親子は親子。実に複雑である。
 居酒屋のレジで訊ねた。
「お店のスタッフに○○がおりますか?親父なんですが……」「あ?店長さんの…」
 何とも面はゆい。そこにアイツがやって来た。華やかな法被姿の息子だった。
「あれ?どないしたん?」
「ああ。ちょうどこっちにくる機会が出来たから、ついでに寄ったんや」
「よう一人で、来れたなあ」
「若い時は、わしも東京に何回も一人で出向いたもんやで」
親父の真の姿を息子はまず知ることはないだろう。私は心の中で苦く笑った。
「一人やけど、席あるか?」
 私も飲食業を長年やっていた。一人客の扱いが難しいのはよく分かっている。まして、今は忘年会シーズンと来れば、一人客は歓迎されない。その通りだった。
「あかん。いま一杯やわ」
 賑わう客席を振り返った息子はあっけらかんといった調子で言った。
「そうかそうか。そうやろな。わかった、もう行くわ。無理せんと頑張れや」
 ちょっと気張った風を見せて背中を向けた。居酒屋の外に出るとピューッと『信州の空っ風?』が首筋を襲った。ブルルと身震いすると、足を踏み出した。
「また帰るわ」
 いきなり居酒屋の引き戸が開いて息子が笑って言った。記憶から遠ざかろうとしていた愛する息子の笑顔が、そこにあった。
「おう。帰って来い。待っとるぜ」
「気―つけてな」
 息子の声を背中で聞きながら、私は闇が広がる東岡崎の夜の中を歩んだ。胸が切なさで占められていた。宿泊先にあぶれての名古屋駅前を始発便の早朝5時過ぎまでの深夜6時間余りを歩きまわった。あしが痛くなる程だった。携帯の歩数計は3500歩を示していた。歩かないと厳しい寒さを我慢できなかったろう。最初に考えていたマックでの時間稼ぎは、24時間営業が最近の不景気のせいで3時閉店。1時からテークアウトだけの切り替えに変わっていた。入るだけ無駄だった。だから、ひたすら歩いて夜を過ごした。
 表彰式記念イベント会場で受けた親身な対応に、いつしか昨夜の空しさと疲弊感がみるみる癒されるのを感じた。
 『最優秀賞』の立場は、思った以上に心地よかった。東京ほかの遠方から足を運んで来た入選者らは、家族や友人を伴っているのが多かった。内心羨ましかった。子供が4人いる家族だが、結局いつも私は一人で行動するしかないようだ。今回は主役とあって、その孤独さも感じる暇は貰えなかったのが好きだった。
 帰り道。恵那から名古屋駅に。駅前のバスターミナルから出る新バスは最終便24時30分。5時間余りを持て余すことになる。フッと東岡崎に行ってみたい誘惑に駆られた。が、すぐあきらめた。もういい……。
 また歩きはじめた。名古屋駅の雑踏を何度も行き来し、忘年会帰りの若い人たちの風俗を見て楽しんだ。考えてみれば、私にもあんな時があった。もう40年近く前になる。年齢は無情に加算されて現在に至っている。
 バスターミナルは若者たちで溢れていた。案内スタッフのやはり若い男女が凍えるような寒さに身をこごめながらも、テキパキと人ごみをさばいている。大したものだ。頭が下がる思いだった。
 神戸大阪方面行きの深夜バスは満席だった。バスの二階席の後部に男性客が集められた配置だった。他が若い女性ばかりなのに、頗る驚いた 時代は私が予想する以上に変わっているのだろう。疲れがどっと出て来る。
 深夜バスがスタートすると同時に、私の意識は遠のいた。もう眠りは誰にも邪魔されないのは確かである。
 ただ、今日は人生の終わりを控えた私には、冥利に尽きる一日だった。それで充分なのではなかろうか。たぶん……!

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祭りに燃えた夜

2014年12月15日 00時04分00秒 | おれ流文芸
 祭りに燃えた夜

10月15日は、わがムラの秋祭りが例年通りに行われた。私が住む地区にある高峰神社の氏子となる、西畑、東畑、窪田、西谷西と東の5地区から、布団屋台と神輿が出て練り回る。それなりに伝統のある祭りだった。
 今年の祭りは、我が家にとっては、かなり趣きが違うものになった。小3の息子が屋台の乗り子として初舞台を踏んだのである。その屋台を担ぐ父親としては、嬉しさ照れが半分半分の複雑な境地だったが、息子の方は相当意気込んで本番を迎えるに至った。
「二人とも朝風呂で身を清めて出るのよ」
 抜かりなく私の両親から即席の知識を仕込んで来た妻にいわれるがままに、朝早く風呂を沸かして入った。いつもなら平気で一緒に風呂に入っている息子だが、新たな気持ちでの入浴となると、何となくこよばゆい気がした。息子も少し緊張しているのか、言葉数がやけに少ないのがおかしかった。
 もともと、乗り子は少4からと決まっていたが、昨今の少子化傾向あおりを食った形で、息子は1年早く屋台に乗ることになった。太鼓蔵に一週間通い詰めた練習で、太鼓打ちは慣れただろう。子供は大人と違って覚えが早い。とはいえ本番は初めてなのだ。緊張するのも無理からぬ話である。
 昇り竜の絵柄の襦袢を着込んで兵児帯をキュッと締めると、不思議に気持ちも引き締まった。さあ、男衆を競う一日が始まるのだ。
 父親の心配をよそに息子は元気いっぱい屋台に乗り込み、太鼓を打った。4人一組のの乗り子が打つ太鼓のリズムは乱れを見せず豪快に響いた。息子の掛け声がはっきりと聞こえた。
 宮入と宮出に初乗りの息子の出番はなかったが、練り回す道程で都合4かいも、息子が乗っている屋台を父親が差し上げる幸運に恵まれた。
「ドン!」
「よーいやせ!」
「ドン!」
「よーいやせ!」
「ドン!」
「そら、よーいーとせ!」
 で、かき手が呼吸を合わせて勢いよく差し上げる。これこそ男ならばこその独壇場だった。
 しかも、息子が乗り手だと、やはり違うものだ。木の淹れ方が全然違う!乗りに乗っている。
「よいやさ、よいやさ」
「ドンドン!」 
 屋台を荒々しく前後に揺さぶる。祭りの醍醐味が、誰をも酔わせる。誰もがみんな火事場の馬鹿力を自然に剥き出していた。そこでは、もはや個人意識は無く、ムラの一員としての情熱を燃え上がらせる仲間の姿ばかりがあった。顔に表れた誇りと決意が映えて輝いていた。
 夜の9時頃に屋台を太鼓蔵に仕舞うと、蔵の前にシートを広げて無礼講の宴会が始まった。祭りを仕切る青年グループと私ら中年組や老年組が入り交じって酒を酌み交わした。乗り子もジュースの乾杯で仲間を気取った。 
 暗くなった帰り道、私と息子の話は面白いほど弾んだ。普段なら珍しい冗談口をたたき合う父親と息子だった。祭りでの燃焼は親子を初めて男同士と認め合わせるのに絶大な効果があったのだ。
 家に帰り着くと、私と息子はテーブルの上に並べられたご馳走が山盛りの皿に手を伸ばした。太鼓蔵の酒盛りでしこたま腹を満たしているが、気分の高揚はそんなものとは無関係だった。
「うまい!」
「うん、うまい!」
 息子と父親はパクついた巻き寿司を冗談にささげた。にやりと笑いを交わすと、親子の際限のない饗宴が始まった。祭りの仕上げは、こうでなくてならない。満足感に浸る私だった。

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東京で再生だ

2014年12月14日 13時01分08秒 | おれ流文芸
四十数年ぶりの東京だった。二度と行けないと思っていた永遠に憧れの地である。その機会をくれたのは、なんと公募ガイド。
 情報ページで見つけた若者を考えるつどい2014エッセ募集に応募したのは七月過ぎ。慌てて書いて間に合わせたが、それがなんとか佳作に選ばれた。入賞者は東京中野である表彰式と集いに参加すると交通費が貰えるのだ。基準で計算された定額で、佳作は往復運賃の六割ほど出る。使う交通機関は何でもいいと言うのがミソだ。
 高速夜行バスで往復すると宿泊の必要もない。しかも新幹線よりかなり安くなる。東京で飲み食いする分は賄える。その他大勢の扱い参加であろうとも、この機会を逃せば、もう二度と東京を味わえない。貧しいものを神様は、公募ガイド様はちゃんとお見捨てにはならなかったのだ。もう迷わず参加を申し込んだ。たぶん私の仲間は他にもいたはず。
 集いの会場に着いて驚いた。豪華だった。しかもお土産付きで交流パーティまであった。バイキング方式のご馳走を食べ放題。満足この上ない一日を遅らせて貰った。
 帰途、バスの中で私は新たな野望に燃えていた。来年は厚生大臣賞が目標だ!二けたの賞金が出て舞台で表彰される。それに表彰者を集めての記念撮影。交通費は佳作と違って往復満額なのだ。国の省庁外郭団体の公募の大盤ふるまいは流石だ。欲に目が眩んでしまったようだ。私は小市民だから仕方がない。
 早速何度も公募ガイドのページをめくった。いつもなら読みながしていた財団法人や社団法人主催の情報を探す。今までは目がとまってもお堅いイメージしかなくて敬遠していたのが実に愚かだった。論文はまだしもエッセは原稿用紙五枚ぐらいまでが多い。テーマだって身近だ。それで、あの夢のような賞金と待遇だ。よーし!やるぞ!
 公募ガイドは、高齢者の仲間入りでやる気を失いかけていた私に新たな力をくれた。
 

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父の存在・完結編

2014年12月11日 00時28分05秒 | おれ流文芸
優子は、やっと素直に答えた。
「でも、あんまり安心し過ぎるのも考えもんかな。だって、お父さん、本心はやっぱり一人娘のあんたを手放したくないんやから」
「本当?」
「そうよ。何やかや言ったって、寂しがり屋なんやもん、お父さんは…」
 多津子は聖母マリアみたいな顔になった。
「こらーっ!何グズグズしとんじゃ!花婿はんの前ぐらいサッサとせな、呆れて逃げてしまいはるで」
 源治は一層、声を張り上げて呼んだ。
「お父さん、それはないですよ、絶対に!」
「そない甘い事言うとったらアカんで。最初が肝心や、尻に敷かれとうなかったらな」
「それは、お父さんの事ですか?」
 卓也もすっかりリラックスして源治とやり合っていた。案外、気が合う二人なのかも知れなかった。
 その夜、優子は昼間の興奮の余韻が残っているせいか少しも寝つけなかった。
 新しい第一歩を踏み出した記念すべき日なのだから、高揚しても無理ない話である。
 優子は二階部屋から張り出して設えられた物干し台に出て見た。
 もう秋である。ひんやりした夜風が優子を撫でて通り過ぎて行く。空には結構にぎやかに星が瞬いていた。
「あんた、待ってよ!」
 多津子の声が階下でした。
 見下ろすと、源治が大股でバタバタと家から出て来た。お気に入りのジャージの上下を着ているのを見れば、今から駅前のパチンコ屋に遠征するつもりらしい。
 追いかけるように多津子が姿を見せた。これまたラフなスタイルで、なんと突っ掛け草履の足元である。夫唱婦随でのパチンコ屋遠征なのは、誰が見てもハッキリしている。
(大変な親を持ったものだ、私って)
 優子は正直、そう思った。でも、そんな二人は紛れもなく父であり母であった。それが証明された、騒がしい一日だった。
 優子は部屋に戻ると、手早くパジャマからジャージに着がえた。
 今から追いかければ、百メートルも行かないうちに源治と多津子に追い付ける。しかし、それでは面白くない。優子は先回りして二人をビックリさせてやろうと考えていた。
 電話が鳴った。出ると卓也が妙に疳高い声で喋った。卓也も優子と同様に昼間の興奮が治まっていないのは確かだった。
「優子のおやじ、俺、気にいったよ」
 卓也の第一声は優子を喜ばせた。
「あんなに気が合うなんて思いもしなかったな。大体、優子が、行く前に脅かしたりするから、おやじさんの前で、俺、ビクビクもんさ」
 昼間の卓也の姿が自然に浮かんで来た。蒼白に近い表情で、冷や汗をかきしゃちこばっていた卓也が、そんな事は忘れたかのようにはしゃいでいる。優子はニンマリとした。
(調子いいやつ!?)
 その時、優子の頭に閃いた。卓也は父の源治とソックリな性格をしている。そうだ、そう言えば、ズーッと前から何となく、そう思っていた気がしないでもなかった。
 娘は最後に、父親に似た男を結婚相手に選ぶーそれを実感する優子だった。 (完結)
                
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父の存在・その2

2014年12月10日 00時08分08秒 | おれ流文芸
「でも…」
「大丈夫やから、心配せんとき。お父さんかて、あんたの幸せになる事、放っとく筈あらへん。なあ」
 多津子の言葉は優子の気持ちを楽にさせた。
「ほな、先に寝る。お休みなさい」
 優子は軽く頭を下げると部屋を出た。源治の反応を確かめるまでもなく、優子は後の始末を多津子に託しきっていた。
 あれから両親二人の間で何が話されたかは想像も出来ない。しかし、今朝の源治の態度には明らかに前進が見られていた。多津子を信じて任せたのは正解だったと優子は思った。
 卓也が伯父の小杉を伴って姿を見せたのは、予定の時間より三十分も早かった。
 黒の礼服を着込んだ小杉は、あまり馴れていない様子で、頻りに額の汗をハンカチで拭っている。それでも汗は止まりそうにない。
 卓也の方も、優子と一緒にいる時とは、まるで別人を演じていた。ちょっと不良っぽい仕草、優子が好きになった一面なのだが、スーツに身を固めた卓也からは消え去っていた。
 彼らの早い訪問に源治は滑稽な程慌てた。股引き姿でいたのでは、まあ、当然の混乱ぶりなのだが、優子の知っている限りの父で、未だかって、こんな風に慌てたのは記憶にない。
「今日は、まあ突然押しかけましてな…」
 小杉が前口上を言っている間、源治はいとも神妙に頭を下げて聞き入っていた。
「…そう言う次第で、こちらの娘さんを、卓也の嫁として迎えたいと、今日はご両親のご承諾を得に足を運ばせて頂きました」
 不馴れに思えた小杉なのに、しっかりした口調の口上は意外なものだった。
「ハ、ハー、それはご丁寧に、どうも」
 米撞きバッタよろしく頭を下げる源治は、舌を噛みかねない調子で受けた。
 多津子は、後で固くなって控えていた優子の傍に静かに座った。母親の顔になっていた。
「どんなもんでっしゃろか?」
 小杉は源治の意向を訊いた。
 源治は瞬間、金縛りにあった感じで動きを止めた。次にどんな言葉が吐き出されるのか、場の雰囲気は源治を注目して緊張した。
 優子はゴクリと思わず唾を呑んだ。その手をソーッと多津子の手が押し包んだ。手の温かさが優子の募る不安を抑えてくれた。
「…ふつつかな娘に、勿体ない話で、有難い思てます」
 えらく素直な台詞が源治の口から出た。
「そやけど、今年の末っちゅうのは早過ぎまっせ。そない慌てんでも、ええと思うし…」
 やっと解放されたのか、急にいつもの源治に戻ってクドクド注文をつけ始めた。
「まあ、それは追々話し合うて決める事にしまして。とにかく、今日はお父さんのええ返事を聞かせて貰うた言う事にしといて、ほれ、お前からも挨拶さして貰わんかいな」
 小杉は言葉巧みにまとめると、隣でしゃちこばっている卓也の出番を促した。
「江森卓也です。優子さん、幸せにして見せますので、どうぞよろしくお願いします、お父さん」
「まだ、お父さんは早いがな。わし困るで…」
 源治の大袈裟な口調に座はゆるんだ。小杉がプッと吹き出し、当の源治も誘われるように笑い出した。卓也は顔を赤く染めて、面目なさそうに頭をかいていた。
 優子は、ようやくホッと胸を撫で下ろした。
「もう、これで万々歳や!」
 多津子が囁いたのは、卓也と小杉を混じえての酒盛りが始まった時だった。
 台所でご馳走の用意と酒の燗つけに入った多津子と優子は調理台を前に並んで立っていた。多津子は嬉しくて堪らない風だった。
「そうだといいけど」
 優子は、まだ半信半疑の体でいる。それに未だ未解決な部分が残されたままだと考えれば、到底お祭り気分になれるものではない。
「結婚式、どうしても十二月でないと…」
 それを過ぎると完全な妊婦さんになってしまう。大きなお腹を抱えての結婚式も珍しくない時代とは言っても、優子も女として、晴れやかな花嫁衣裳を身に着けるのが夢である。
「それも、もう決まったと思っていいの」
「でも、お父さん…まだ早いって…さっき言ってたでしょ。妊娠してるから結婚式を早くしたいって事知らへんもん。それに、そんな理由知ったら、へそを曲げるかも…」
 優子は源治の心変わりを恐れていた。自分については自堕落なくせに、他人にはケジメを求める源治の勝手さを見て育った娘だけに、そんな心配をするのも止むを得なかった。
「判ってないな、お父さんを」
「え?」
「知ってたよ、大分前から」
「お父さんが?」
「そう。実は私もビックリしたんだけど、父親の勘てやつかな。この結婚話が出るちょっと前に、『おい、うちの娘、最近生理あるんか?なんか変やがな』なんて訊いて来るんだから」
 多津子は、その時を思い出したのか、苦笑いして見せた。
「おーい!酒、まだか?はよ、お代わり持ってこんかいな!」
 源治が怒鳴って寄越した。その怒鳴り声は機嫌の良さを示すかのように明るかった。
「はーい!ただいま!」
 多津子は打てば響く太鼓みたいに返事した。考えてみれば、いい関係の夫婦である。
「ほら、あんなに機嫌いいじゃない。これからは私ら親の出番。万事任しときなさい」
「うん」             (続く)

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父の存在・その1

2014年12月09日 00時04分18秒 | おれ流文芸
「今日の何時だった?」
 黙々と朝飯を食っていた父、源治が急に思い出しでもしたかのように訊いた。
 優子はハッとして台所の方へ目をやった。
そこには多津子がいて、味噌汁のお代わりを入れている。さりげなくふり返った多津子は優子にニッコリと笑って見せた。万事解決したから安心しなさいと言っている風だった。
 多津子は優子にとっては二人目の母になる。俗に継母と言われるが、物心つく前から多津子に育てられて来た優子は、彼女しか母を知らなかった。正に生みの母より育ての母の典型だった。
「確か十一時には来られると言ってたわね」
「うん」
 多津子の助け舟に優子は素直に頷いた。
「そうか」
 源治は他人事みたいに言った。後は表情も変えずに黙々と飯をかき込んでいる。
 父の無愛想なのは馴れているが、昨夜の口喧嘩のしこりが残っている分、優子は気が気じゃなかった。機嫌がいいのか悪いのか、全く判断がつかないのは困る。これまでに何度同じ立場に立たされて気を揉んだことか。
 まして今日は特別な日である。優子の一生を決める大事な儀式が執り行われる段取りになっていた。十一時頃に、恋人の卓也が仲人を伴って現れる筈だった。
 仲人が一緒に来ても未だ結納と言う訳じゃない。源治に「大事な娘さんを頂けないか」と正式に申し込むための訪問である。
「ああ見えても、お父さん、キッチリしないといられない性分だから、形式を踏む方が案外うまく行くんじゃない」
 多津子の入れ知恵である。長年、夫婦として寄り添って暮らして来ただけに、多津子は彼の気性を充分に承知している。だからこそ、結婚話を頑固な父親にどう切り出していいものやらと悩みを募らせていた優子にとり、最高の助言者となった。
 優子は卓也と相談して、急遽、卓也の叔父のの小杉に仲人を頼み込んだのである。小杉は拍子抜けするぐらいアッサリと引き受けてくれた。そして今日、決行の日を迎える事になった訳である。
「お父さん、あした家にいてくれる」
 優子がそう切り出したのは前夜だった。
「なんでや?」
 目の前のテレビで贔屓のチームが負けているせいもあったが、えらくぶっきら棒に源治は訊き返した。眼は画面から外しもしない。
「江森さんが来るんや。逢うてほしいねん」
「なんで逢わなあかんのや、わしは逢わん」
「そない言わんと、大事な事やから」
「大事な事て何や?」
 源治の口調はますます不機嫌になった。釘付けになっている画面は、ホームランによる追加点が入っていた。ボリュームが一段と高まった感じである。
「あんた、あの事やがな」
 台所で洗い物をしていた多津子が言った。
「アホ!お前に訊いとるんやない」
 源治は声を荒げた。
「ほんなら、娘の頼み、ちゃんと訊いたったらどない?ほんま素直やないんから」
 エプロンで濡れた手を拭いながら居間に入って来た多津子は、手を伸ばしてテレビを消した。
「チェッ」
 源治は舌打ちすると、苛々した手付きで煙草を取り出して、くわえた。
「さあ、優ちゃん、これでちゃんと訊いて貰えるさかいな」
 そう言うと、多津子は勝負の判定を下す審判よろしく、父と娘が向き合った間にドカッと座った。
「江森さん、仲人さん連れて来はるんや」
「だらしない男やのう。一人では来られへんのか」
「ううん、やっぱり大事な事やから、きっちりした形を取りたいんやて」
「わし、逢わへんで」
「お父さん!」
 源治は煙草の煙をやけに吐いた。
「あんた、優ちゃんの結婚の事やで。折角、足運んで来はる相手さんにも失礼やし」
「まだ、うちの娘、嫁にやる気はあらへん」
 源治は天井を睨んで紫煙を吹き上げた。何を考えているのか全く読み取れない父の表情だった。眉間の皺が微妙に震えている。
「そない言うたかて、本人は結婚したい希望なんやろ、前向きに考えたったらどない?」
「ほなら勝手にせんかい。大体、親の知らんとこでこそこそ段取りつけよってからに」
「それは、うちがあんたに報告して納得して貰うたやろ」
「知らん!わしは納得した覚えあらへん!」
 源治と多津子はお互いに譲らぬ気らしく、言い合いはエスカレートするばかりである。
「もうええ!」
 優子は堪忍袋の緒を切った。普段は声を荒げるなど殆んど見せた事のない優子だから、さすがに源治もギョッとして娘を見直した。
「もう知らん!いっつも、いっつも、そうなんやから、お父さんは…自分だけ勝手な事ばかりして、家族の事なんか…考えたりした事あらへんのや。…もうええ!」
「な、なに…!?」
 怒鳴りかけた源治は、急に萎んでしまった。
 目の前で娘が泣いていた。小さい頃から、いつも家に一人で留守をさせて来た娘である。根っから放蕩な血を持ったお陰で、一つ所に落ち着けず、友達も作れなかった娘である。
 それでも何一つ父に泣き言を言わぬ勝気な娘で、ただじーっと我慢を続けていたのを、親らしくない親の源治にも判っていたに違いない。だから、源治は黙るしかなかった。
「ユウちゃん、今夜は、もう先に休み」
 多津子が父と娘の沈黙を破るかのように口を開いた。すっかり落ち着いていた。          (続く)
               
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父が悩める季節

2014年12月08日 00時04分57秒 | おれ流文芸
娘の結婚式が近づいている。
子どもは4人。男女二人づつと、我ながら上手に産み分けたものだ。時流なのか、いつまでも結婚を口にしない彼らだった。息子らに限っていえば、「結婚はしない。自由がなくなる」と言ってのける始末。(わが家系も、私で終わるなあ)と感傷的になった矢先、30になった長女が、やっと、その気になった。
考えてみれば、父親の私も三十三歳になるまで、結婚の可能性は微塵もなかった。それが、十三歳も若い相手が現れた。もう結婚まで猪突猛進だ。三か月後に結婚式を挙げた。実はできちゃった婚。それがなければ、今ごろ独身貴族を気取ったままだろう。
妻の妊娠に気づいた義母が、私に会いに来た。顔も知らなかった彼女の出現に、いささか驚いた。実の母親ではなく、継母であるのも、初めて知った。彼女は、自分の親について、詳しく口にしなかった。
「父親が娘の様子がおかしいって気付いたの。一人娘だから、いくら嫌われようと、いつも優しい目で見守っているんですよ。無口で不器用な父親だから。でも、娘が妊娠していることはピンと来たみたいなの。ちょっと堅苦しいとこがあるの、あの子の父親は。だから、きちんとしてほしくって……!」
 いいきっかけだった。言われるまでもなく、結婚の許しを得るために、挨拶に行かなければと考えていた。私は常識人なのだ。妻と付き合う前に、「結婚する気がなければ、付き合わないから……!」
 と彼女の意思を確認した。当時、短大に入学したばかりの妻。五年前から、同じ趣味のグループで頑張っていた。年の差もあって、異性関係には繋がらずにいた。それでも、お互いの性格や人間性、相性はよく分かった。結果的に、相手に結婚の意思が確認できれば、後は本能に任せて、なるようになるだけだった。
 だが、いざ結婚になると、それなりの手順を踏む必要がある。彼女の継母の訪問は、思い切りがつかないでいた私の背を強く推してくれた。
 漁師をしている義父は、いかつい顔で私を迎えた。思わずビクついたが、私の覚悟は揺らがなかった。
「娘さんと結婚する許可を、お父さんに、お願いに上がりました」
 義父はいかつい顔を崩さない。
(これは無理かな……?)
 と弱気に。すると、いきなり鼻先に酒を満たしたグラスが差し出された。
「頂きます!」
 と反射的に受け取ったグラスの酒を一気に呷った酷い緊張もあって、思い切りむせた。慌てて妻が解放した。もう夫婦そのものの姿を義父母に見せつける形になった。
 結局、義父は一言も話さなかった。
「あの人は、あなたが気に入ったみたいよ。二人で早く結婚の話を進めてくださいな」
 義母の笑顔に義父がダブって見えた。
 さて、私は長女の相手を、どう迎えたらいいのか?義父が見せた、不器用で寡黙を通した歓迎を真似てみるか。いやいや、私と義父は違う。人の好さだけは義父の何倍も勝っている自信がある。顔もいかつさはない。よし!
 その日が、もう目の前に迫っている。

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男はつらいよ、タロ

2014年12月07日 00時37分56秒 | おれ流文芸
 我が家にはタロ、モモ、そして二匹の間にできた娘トトと三匹の犬がいる。タロはもう8年目、ヒゲに白いものが混じるのは、やはり年のせいか。でも、立派な一家の主人の風格を見せる。
 彼の嫁さんに迎えたモモは、思うように成長出来なかったのか、タロの半分に満たない子犬の体長のまま。「無理かな?」と思った出産で、三匹の赤ちゃんを産んだが、産後の肥立ちが悪かったか、大出血で死ぬ寸前まで行ってしまった。血塗れになったモモを懸命に抱きかかえて獣医さんに走ったのである。
 今のモモは、もう赤ちゃんを産めない。獣医さんの助言もあって、モモの避妊手術を相当悩んだ末に決めた、あの日を決して忘れない。モモのお腹の傷跡はもう消えたが、彼女が幸福か否か……考えるのはやはり辛い。
 ひ弱なモモは、自分でもそれを自覚しているのか、甘え方が一番上手だ。体をすぐにすり寄せて来る。すぐにお腹を見せる。すがるように見詰める。前足で懸命に撫でてくれとせがむ。そして、とどめは「クーン!」と何とも切ないとしかいいようのない鼻声……思わず抱いて仕舞わずにはいられない程、可愛いモモである。
 そのモモが散歩中に大きな犬に迫られたことがある。その瞬間、なんとタロが間に入り、モモを守るように「ウウー!」と威嚇した。機先を制すると言う。タロひと回りは大きい相手は、驚いたことにスゴスゴと立ち去った。
 タロはヤッパリ男だった。嫁さんを守ったあの凛々しい姿には、さすがの私も勝てない。
「大体比較すんのがおかしいの。あなたのどこが凛々しいってのよ。ちゃんちゃらおかしい。ただ優柔不断なだけ」
 妻の断言に何も反論出来ないのが悔しい!
 ところが、そのタロ、最近妙におかしい素振りを見せ始めた。避妊手術を受けたモモを無視して、娘のトトにちょっかいを出しかけたのである。無論そうはさせない。
「おい、タロ。お前、立派な男やと思っとったんに、その程度の男やったんかいな」
 皮肉を言ってみても通じない。ペロリと顔を舐められてしまって、その場はオシマイ!
 モモの三匹の子犬のうち、ふとっちょのモコモコ(当時まだ名前はなかったのだ)はカラスにさらわれて行方知れずとなってしまった。もう一匹は私の兄の家に貰われていった。タロと瓜二つだが、母のモモに似て体は小さく、やっぱり娘だった。ポコと名付けられている。
 兄の家は目と鼻の先だから、散歩中によくかちあう。トトへの接近を禁じられた(?)タロは、今度はもう一人の娘ポコにちょっかい。全く懲りないヤツである。「
「浮気すんならよそでやって来い!」
 私に叱られてタロはキョトン?
 しかし、そんなタロを尻目に、モモは今日も私にベッタリ甘えて離れない。
 その光景にトトやタロも負けじと突進して来る。こいつらの甘えはモモの淑女的なものとは雲泥の差だ。咬む(モチ余り痛くない)前足で引っ搔く、飛び乗る、体当たる、ヨダレをベタベタ!もう、いい加減にしてくれよ!
 私の本心。嬉しい、くすぐったい、可愛いやつらだ。もう幸せ気分でいっぱいなのだ。 
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「葬送」-惜別の正体 (完結)

2014年12月06日 00時05分52秒 | おれ流文芸
過酷といっていい、厳しい職場環境の夜の仕事だった。そこで働く顔ぶれを見ると、まるで人生の吹き溜まりといった感がある。昼勤務には普通の会社のように若い世代が活躍しているが、夜は社員になれない中高年の天下だった。しかも半数以上は日系ブラジル人や中国研修生が占めている。残る日本人の六割は保証のない時間給で働くアルバイトかパートだった。
 同じ境遇の吉森はコンビニで働いた後、夜中の十二時から明け方の五時、六時までの勤務だった。そのコンビニもアルバイトだと聞いている。深夜の時間給千円を得るために疲れ切った体に鞭打っていたのだろう。
「実は吉森はん、死ぬ前の日にメールいれてくれとんや」
「マール?」
「最初で最後のメールになってしもうたわ」
 そういえば、吉森は仕事中しょっちゅうパソコンの話をした。唯一の趣味道楽らしかった。
「パソコン教室に勤めてる娘直伝なんやで。分からんことがあったら、何でも聞いてや。ただで教えますさかい」
 誰彼なくそう吹聴する吉森の姿を憶えている。
「メールのやり方を教えてくれてはっててな。もうすぐ孫が出来るんや。そやけどおじいちゃんなんて、年寄りくそうてかないまへんわ。そないなメールで、おどけてて……」
 小倉の言葉は詰まった。感極まったに違いない。身近な人の死は、現実的な生き方を選択している人間をも感傷的にさせてしまう。
「おはよう」
 ドヤドヤと他のスタッフが姿をあらわした。もう仕事を始める時間だった。フライヤーにしろ、魚焼き機にしろ、いったん機械を始動させると、コンベヤーを止めるわけにはいかない。人間が人間であることを一時忘れて、機械の部品にならざるを得ない。そんな仕事をやっているのだ。
 夜中の十二時。吉森の出勤時間だ。思わず外部に通じるスイングドアに目を向けた。
「おはようさん!今日は仕事ありまっかいな」
 底抜けの笑顔。抱えている事情のかけらすら感じさせない張り切りように、スーッと疲れが抜ける。すかさず応じる。
「おはようさん。ちゃんとおまはんの仕事残しとるで……?」
 スイングドアは開かない。
 目を戻した。手元に柵取りしたマグロがある。あと五百切ればかり、刺身をひかなければならない。そして盛り皿を用意する。二時過ぎから刺身の盛り付けだ。今日は二百五十の会席に配膳する皿盛りとオードブル。
 助っ人の吉森は、もう来ない。そう永遠に。
「お疲れさん」
 六時過ぎに仕事場を出た。もう誰も吉森の噂話をしない。明日には、あえて思い出しもしないだろう。そして、忘れていく。
(死んだら、おしまいなんやで……)
 頭の中で誰かがささやいている。
              (完結)

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「葬送」ー惜別の正体・その2

2014年12月05日 00時09分37秒 | おれ流文芸
 野呂木を忌避する気は毛頭ないが、その饒舌に、今夜ばかりは少し距離を置きたかった。もちろん、通夜は、故人をあれこれ限りなく偲ぶための宴席(?)である。存分に生前の思い出を語り合うべき席なのは分かってはいるが、どうもそんな気分になれそうもない。ただ静かに、じっくりと、記憶の中の吉森と向き合いたかった。
 野呂木は、ここぞとばかりに、よく喋った。別に迷惑をかけているなどと意識はしていない。この気配りのなさを除けば、実に気のいい男だった。
 意思に関わらず、耳に飛び込んでくる野呂木の情報は、微にいり細に渡っていた。よくそこまで仕入れたものだと感心する。
 吉森が死んだのは、会社から三百メートルほど離れた駐車場の車の中だった。エンジンはかかったままで、スモールもついていた。朝早く駐車場に出入りした、昼勤務の早出の社員は当然気付いた。ただ、深夜勤務の人間が車で仮眠するのは珍しくはない。声をかけずに放っておくのは、彼らの一種のマナーでもある。
 昼の休憩で食事に出ようと車に向かった、同じ社員が、朝見た車にまだエンジンがかかったままなのに気付いた。訝って覗き込むと、もう死に色の吉森の顔と見合う格好になった。酷いショックを受けたのは間違いない。ドタバタと事務所に飛び込んで、声にならない叫び声を上げたらしい。
 すぐ救急車が呼ばれたものの、結局無駄だった。手遅れ!吉森の心臓はとっくの昔に停止していた。
「心臓マヒらしいわ。そいでも、朝一番に声をかけられとったら、大丈夫やったかもわからんで」
 野呂木の饒舌は、吉森家の玄関先まで途切れることはなかった。通夜のための受け付けの数歩先で、ようやく野呂木の口は閉じられた。
 見ている方が辛くなる。通夜客の挨拶を受ける吉森の妻は、憔悴の色が隠せないでいる。目の下に出来た隈は化粧でも消えていない。両脇で、今にもくず折れそうな母親を支え、健気に振る舞っている若い男女は、吉森の子供らに違いない。吉森の面影を持った女性の方は、仕事中にしょっちゅう聞かされた噂の娘だろう。
「このたびは……」
 どうしても言葉にならない。口篭りをを誤魔化すために、ただただ頭を下げた。急に吉森の妻は顔をそむけた。嗚咽が漏れた。思わず何かが胸の奥からこみ上げる。
「娘はんな、もう臨月が近いらしいんや」
 吉森の笑顔がいっぱいに広がった遺影を前に、ちょっと居ずまいを正しかけた時、またしても野呂木だった。さすがに声はひそめている。それにしてもいい加減にしてほしい。
「ほんまに神さんも、えらいえげつないことしやはるで。なあ」
「ああ」
 仕方がなくて、合槌を打った。徹底して無視を通せる性格の持ち合わせはなかった。
「吉森はん、孫の顔も見られんで、そら未練残してはるわ。なあ」
 今度は沈黙を守った。もう野呂木の相手は勘弁ねがいたかった。心静かに吉森の成仏を祈ってやろうと、目を閉じた。
 夕方七時前、職場に入った。夏場は十五、六度にクラー設定される工場の一角に調理ゾーンがある。二月に入ったばかりで寒さは頂点にあった。コンクリートの床で冷気が倍加され、底冷えの感がする。もちろん暖房の類いは、余程のことがない限り、使われない。
「えらいことやったなあ、吉森のおっちゃん」
 前掛けを付けながら調理場に入ってきた小倉が、あいさつ抜きで話しかけた。吉森とえらく気のあったパート従業員だった。
「ほんま、信じられへんね」
「まだ五十やのに。若すぎるがな」
 四十半ばの小倉が、人生をもう充分すぎる程生きたって顔付でいった。杉崎は五十の坂を越えて四年目になる。    (つづく)

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