「母ちゃん、腹減ったー!なんかないんけ?」
ひもじい口癖の記憶。幼いとき、いつも空腹だった。育ち盛りでもあったが、それ以上に世の中が貧しかったせいである。
「ちょっと待っとれ」
母が急いで作ってくれたのは、おむすび。お焦げが入った麦めしのおむすびは塩味が効いて、空腹には絶品だった。
「うまいやろが、母ちゃんのおむすびは」
こどもの様子を窺いながら、母は得意げに笑った。口の端にごはん粒がついていた。おむすびを結びながらつまみ食いをしたに違いない。みんな空腹を抱えていた時代である。
あのころ、わが家の主食は麦めし。コメに麦をかなり混ぜてかさ上げしたものだった。見た目も食味もよくなかったが、他に食べるものはなかった。コメ生産農家でも、白いごはんは余程のことがないと、家族の口に入らなかった。おかずも一汁一菜がほとんどで、みそ汁と漬物だけで済ます日さえあった。
カマドにかけた大きな鉄窯で家族六人分のごはんを炊くと、底の部分が焦げる。頃合いなきつね色のおこげは、これがまたおいしい。兄弟はむさぼるように食べた。
そのおこげの残りを、塩をたっぷりまぶした手で結んでくれた母だった。夢中で二個も平らげる息子を眺めた母は、空腹を訴えるたびに、よくおむすびを作ってくれた。
田舎の学校は一週間程度の農繁期休暇があった。春は田植え休み秋は稲刈り休みで、子供たちの手を借りたい農家事情からである。
親戚や隣近所からかり出されて、繁忙期は十人近くも人が集まる。機械化とは無縁の時代で、人の手が唯一の手段だった。一斉に稲を刈り、それを束ね、稲木に渡した太い竹竿にかけて天日干しと、仕事はいくらでもあった。一日で終わるはずもなく、数日かかるのが普通だった。
手伝いに出た最初は三年生の時。兄を真似て負けん気を出し、小さな体に稲束をいっぱい抱えて運んだり、落穂ひろいなどをやった。黙々と作業する大人たちに混じって、遊びの延長ともいえる働きぶりだった。
「そろそろ昼やけ。弁当にすっかー!」
昼の食事を運んできた母の呼びかけで、作業は一旦休憩を迎えた。刈り終えた田んぼの中でムシロを敷き弁当を広げる。手伝いの人数分だから、かなり大事だった。
(!)
覗き込んで絶句した。木箱にぎっしりと詰められた真っ白いおむすびが、目に眩しかった。黄色いタクアンの大皿と、コンニャクや野菜の煮しめが盛られた重箱が並んだ。
「お前らもこっち来て食えや。よう気張ってくれたで、腹減ったやろが。田んぼで食うめしは、また格別にうまいぞ」
日焼けして真っ黒な父が満面笑みを浮かべていた。もう遠慮はいらない。兄弟は競うように、おむすびへ一番に手を伸ばした。
うまかった。麦めしのおむすびをはるかにこえた美味しさだった。家で漬けたタクアンも、白いおむすびと名コンビを組み、味を引き立てあっている。家ではお目にかかれない白いおむすびを、腹がはち切れんばかりに食べた。
「えらい食いっぷりやのう。こいつら大物になりよるで」
満腹感と幸福感は一体になった。
小学校に持っていく弁当は、その分だけ白い米のごはんを炊く。麦めしを炊く際に、白米を詰めた金網の専用容器を突き刺して一緒に炊いた。弁当が麦飯の時はカツオを醤油で和えて絨毯のように敷き詰める。醤油味の効いた麦めしは別の味になった。それでも隣の席に広げられた白いごはんの弁当が羨ましくて堪らなかった。白いおむすびが口にできる農繁期の手伝いは、まさに夢の実現だった。
「交通事情もなんとか落ち着いてきましたんで、三宮の小学校で炊き出しに行きますよって、皆さんの参加お願いします」
PTAの呼びかけで、神戸の震災被災地支援ボランティア活動に参加した。
避難所の小学校は騒然とした雰囲気だった。校庭の片隅に設けられた仮設トイレの光景が、厳しい現実を突きつける。待機時間に三宮駅前へ。倒壊した建物や、かろうじて倒れずにいるビルが視界に入る。思わず身震いした。
「頑張ってください!」
「ありがとうございます」
声を掛け合い、夢中でおむすびを手渡した。
「おいしい!」
声の主をみやると、幼い子供がおむすびにかぶりついていた。懸命に頬張っている。こんなうまいものが他にあるもんかと、必死に食っている。幸せな表情が生まれている。
(おむすびは、飢えて疲弊した心と体を癒してくれるんだ)おむすびの不思議な力を思った。
(頑張れよ)
独りごちながら、おむすびを配り続けた。
ひもじい口癖の記憶。幼いとき、いつも空腹だった。育ち盛りでもあったが、それ以上に世の中が貧しかったせいである。
「ちょっと待っとれ」
母が急いで作ってくれたのは、おむすび。お焦げが入った麦めしのおむすびは塩味が効いて、空腹には絶品だった。
「うまいやろが、母ちゃんのおむすびは」
こどもの様子を窺いながら、母は得意げに笑った。口の端にごはん粒がついていた。おむすびを結びながらつまみ食いをしたに違いない。みんな空腹を抱えていた時代である。
あのころ、わが家の主食は麦めし。コメに麦をかなり混ぜてかさ上げしたものだった。見た目も食味もよくなかったが、他に食べるものはなかった。コメ生産農家でも、白いごはんは余程のことがないと、家族の口に入らなかった。おかずも一汁一菜がほとんどで、みそ汁と漬物だけで済ます日さえあった。
カマドにかけた大きな鉄窯で家族六人分のごはんを炊くと、底の部分が焦げる。頃合いなきつね色のおこげは、これがまたおいしい。兄弟はむさぼるように食べた。
そのおこげの残りを、塩をたっぷりまぶした手で結んでくれた母だった。夢中で二個も平らげる息子を眺めた母は、空腹を訴えるたびに、よくおむすびを作ってくれた。
田舎の学校は一週間程度の農繁期休暇があった。春は田植え休み秋は稲刈り休みで、子供たちの手を借りたい農家事情からである。
親戚や隣近所からかり出されて、繁忙期は十人近くも人が集まる。機械化とは無縁の時代で、人の手が唯一の手段だった。一斉に稲を刈り、それを束ね、稲木に渡した太い竹竿にかけて天日干しと、仕事はいくらでもあった。一日で終わるはずもなく、数日かかるのが普通だった。
手伝いに出た最初は三年生の時。兄を真似て負けん気を出し、小さな体に稲束をいっぱい抱えて運んだり、落穂ひろいなどをやった。黙々と作業する大人たちに混じって、遊びの延長ともいえる働きぶりだった。
「そろそろ昼やけ。弁当にすっかー!」
昼の食事を運んできた母の呼びかけで、作業は一旦休憩を迎えた。刈り終えた田んぼの中でムシロを敷き弁当を広げる。手伝いの人数分だから、かなり大事だった。
(!)
覗き込んで絶句した。木箱にぎっしりと詰められた真っ白いおむすびが、目に眩しかった。黄色いタクアンの大皿と、コンニャクや野菜の煮しめが盛られた重箱が並んだ。
「お前らもこっち来て食えや。よう気張ってくれたで、腹減ったやろが。田んぼで食うめしは、また格別にうまいぞ」
日焼けして真っ黒な父が満面笑みを浮かべていた。もう遠慮はいらない。兄弟は競うように、おむすびへ一番に手を伸ばした。
うまかった。麦めしのおむすびをはるかにこえた美味しさだった。家で漬けたタクアンも、白いおむすびと名コンビを組み、味を引き立てあっている。家ではお目にかかれない白いおむすびを、腹がはち切れんばかりに食べた。
「えらい食いっぷりやのう。こいつら大物になりよるで」
満腹感と幸福感は一体になった。
小学校に持っていく弁当は、その分だけ白い米のごはんを炊く。麦めしを炊く際に、白米を詰めた金網の専用容器を突き刺して一緒に炊いた。弁当が麦飯の時はカツオを醤油で和えて絨毯のように敷き詰める。醤油味の効いた麦めしは別の味になった。それでも隣の席に広げられた白いごはんの弁当が羨ましくて堪らなかった。白いおむすびが口にできる農繁期の手伝いは、まさに夢の実現だった。
「交通事情もなんとか落ち着いてきましたんで、三宮の小学校で炊き出しに行きますよって、皆さんの参加お願いします」
PTAの呼びかけで、神戸の震災被災地支援ボランティア活動に参加した。
避難所の小学校は騒然とした雰囲気だった。校庭の片隅に設けられた仮設トイレの光景が、厳しい現実を突きつける。待機時間に三宮駅前へ。倒壊した建物や、かろうじて倒れずにいるビルが視界に入る。思わず身震いした。
「頑張ってください!」
「ありがとうございます」
声を掛け合い、夢中でおむすびを手渡した。
「おいしい!」
声の主をみやると、幼い子供がおむすびにかぶりついていた。懸命に頬張っている。こんなうまいものが他にあるもんかと、必死に食っている。幸せな表情が生まれている。
(おむすびは、飢えて疲弊した心と体を癒してくれるんだ)おむすびの不思議な力を思った。
(頑張れよ)
独りごちながら、おむすびを配り続けた。
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